大聖人様は『滝泉寺申状』に
「法を破る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」
と仰せになっておられる。
また『撰時抄』には
「寧ろ身命を喪うとも教を隠さざれ」
とも仰せになっておられる。
さらに、日興上人は御遺誡二十六箇条に
「時の貫首たりと雖も、仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」
と仰せられている。
さっきは「大衆の力を利用して仏法に相違する事があれば貫首はこれを砕かなければいけない」と仰せられ、今度は「時の貫首が仏法に相違した時は、貫首の権威は絶対であったとしても、大聖人の仰せに違った己義を構えたならば、その貫首を大衆は用いてはいけない」とこう仰せになっておられるわけであります。
この御遺命破壊の大悪を見ながら知りながら、もし黙っていたらそれこそ大聖人様に対し奉る最大の不忠となる。大聖人様に申し訳ない。ただこの一念で私は御遺命守護に立ち上がったのであります。
最初の諌暁書は昭和45年3月の『正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う』でありました。
この一書は学会・宗門に激震をもたらしました。
全員が「正本堂こそ御遺命の戒壇だ」とみんな信じ『国立戒壇なんか間違いだ』とみんな思っておった。
その中に、その最初の諌暁書が宗門に配られて激震が走ったんですね。
送達の2日後、宗務院の早瀬日慈総監から「本山に来るように」との達しの電話がありました。
直ちにその時処分が言い渡されるものと思っていたところ、案に相違して細井日達管長が自ら目通りを下された。
その時に対面所でもって細井日達管長は開口一番私の諌暁書をかざしながらにっこりと笑っておったんですね。
「この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のまま一分の誤りもありません」と思いもよらぬ言葉を口にされたのです。
しかし次いでこういう事を強要されたんですね。
事の戒壇の本義について「戒壇の大御本尊まします所はいつでもどこでも事の戒壇といえる。だから、御宝蔵であっても、奉安殿であっても、また正本堂であっても大御本尊まします所はそれがそのまま事の戒壇と言っていいのです」という事を強調したんです。
そこで私は「本宗では従来広宣流布の暁に事相に建てられる御遺命の戒壇を『事の戒壇』と言い、それ以前に大御本尊まします御宝蔵あるいは奉安殿を『義の戒壇』と言ってきたのではないでしょうか」とお伺いした。
すると、細井日達管長の顔がみるみる怒気を含んだ形相になってきたんですね。
そして、様々な理屈をつけては「大御本尊まします所はいつでもどこでも事の戒壇といえるんだ」とまさに法主の権威をもってねじ伏せようというような威勢でもってこれを押し付けてまいりました。
しかし、従来の定義を変えて「正本堂を事の戒壇」としたならば、御遺命の戒壇はどうなってしまうのか。問題の核心はここにある。
そこで私は「では、正本堂は『三大秘法抄』『一期弘法付嘱書』に御遺命された戒壇なのでしょうか」と詰めてお伺いした。
細井日達管長は明らかに困惑の色を表わし、しばらく沈黙された。
そして、やがて意を決したように「広宣流布の時の事の戒壇は、国立ですよ」という事を言われた。
私はそこで「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないんですね」と重ねて念を押させて頂いた。
細井日達管長は「正本堂は最終の戒壇ではありません。広宣流布の時は国立戒壇で天母山に建てられるのです」とハッキリ明言された。
この「天母山」というのは天生原の中央にある小高い丘の事ですね。ですから、天生原の事を意味します。
ついに細井日達管長は本心を吐露されたんです。
しかし、その後細井日達管長は二転三転するんです。
令和元年 7月24日 7月度 総幹部会 浅井先生指導