これを見て私は「この上は全がっかい員に正本堂しょうほんどうおうわく遺命ゆいめいしょうを知らせるべき」とこう決意して、当時妙信講みょうしんこうの組織をげて文書を配布いたしました。
 するとしゅういんから通達がただちに送られてきた。
 「妙信講みょうしんこうげいくんに敵対し、いけ会長かいちょうへの公開法論ほうろん申し入れを撤回しないのみならず、さらに文書配布に及んでいる。
 このこと解散かいさん処分しょぶん該当がいとうするゆえしゅうの定めるところにより1週間以内にべんを提出せよ」という通達を送ってまいりました。「べん」というのはい訳という意味です。
 遺命ゆいめいを守りたてまつる者が遺命ゆいめいかいせんとする悪人どもにどうしてい訳をしなければならないのか。
 私は、べんの代わりにしゅういんに対し強烈なる諌暁の状をしたためました。
 ことに、がっかいの走狗になっている阿部あべ信雄しんのう教学きょうがくちょうを念頭に置いてそのれんを真っ向から責め立てた。これで解散かいさん処分しょぶんは必至とおもわれた。
 ところが何と、かえってしゅういんはやにち総監そうかん阿部あべ信雄しんのう教学きょうがくちょうが共にほそ日達にったつ管長かんちょうに辞表を提出してしまったのであります。しゅういんの機能はこれで停止してしまったんです。
 そこで、たい収拾しゅうしゅうのためにほそ日達にったつ管長かんちょうが動かざるをなくなった。
 昭和47年7月6日、ほそ日達にったつ管長かんちょうは東京吾妻橋のみょうえんにわざわざ下向され、私とたいめんされた。
 これもいけ大作だいさくの依頼によってこういうことが行われたんですね。
 しかし、説得せっとくのためのたいめんがかえって逆の結果となってしまった。
 ほそ日達にったつ管長かんちょうはついにくんに誤りがあることを認めて、私の要請をれてくんていせいぶんを作って、それを必ず宗門しゅうもんかん大日蓮だいにちれん』の8月号に掲載する約束までいたしました。
 で、そのていせいぶんは前もって必ず私に見せるからということまで約束して、その後本山に私が参詣してそのていせいぶんを確かにいただきました。
 あとは、宗門しゅうもんかん大日蓮だいにちれん』に掲載されるのを待つばかりであった。
 だが、このみょうえんにおけるたいめんの状況をがっかいもんべん山崎やまさき正友まさとも盗聴とうちょうしておったんです。
 全部やり取りが分かって「これはもしかしたら本当に掲載されることになるのではないか」ということ北条浩ほうじょうひろしというがっかい会長かいちょうが本山に飛んでって「そんなことをしたらば大変なことになりますよ」というおどしをかけたんです。
 そこでついに宗門しゅうもんかん大日蓮だいにちれん』への掲載が中止となった。
 8月12日、ほそ日達にったつ管長かんちょうふたたみょうえんに下向され、憔悴しょうすいしきった面持ちで「先日約束したことは取り消します。もう私にはどうにもならないのです」と私に告げられた。
 これを聞いてももう私はおどろかなかった。これが宗門しゅうもんの実態なんですね。
 管長かんちょうとして一度正本堂しょうほんどうのたばかりを許した以上は、いけ大作だいさくがそれを「わかりました」とうわけもない。
 「あの時約束したではないですか。いまさらそんなことわれたならばがっかいは潰れます」などとう。
 そして、おどしてきたにちがいないんですね。
 所詮、元凶げんきょうがっかいを抑える以外に解決はありない。
 そこで私はほそ日達にったつ管長かんちょうに「がっかいの代表と会って決着をつけたいのですが、何とかげいのお力でがっかいに出てくるようお申しつけいただけないでしょうか」と申し上げた。
 そしたらほそ日達にったつ管長かんちょうはうなずきながら「わかりました、何とか私からいましょう。どうかあなたががっかい代表と話し合って解決してください」とこうべると、早々とみょうえんを退室されました。
 かくて、正本堂しょうほんどう落慶式を1ヶ月後に控えた9月13日から28日に至るまでの間、7回に渡って両者背水の陣での激しい論判が行われた。
 がっかい代表はあきえいすけ会長かいちょう(後の会長かいちょう)、原島嵩はらしまたかし教学きょうがくちょう山崎やまさき正友まさともべんの三人。
 この論判において、ついにがっかいは屈服し、おうわくていせいした一文が約束通り10月3日の聖教新聞第一面に和泉いずみちょうの名前をもって掲載されました。
 これが、正本堂しょうほんどう落慶式の9日前のことでありました。


令和元年 7月24日 7月度 総幹部会 浅井先生指導