ALI PROJECTのₙC₅「形而上的な、蝶になる」「NON-HUMAN」「少女と水蜜桃」ほか | A Flood of Music

ALI PROJECTのₙC₅「形而上的な、蝶になる」「NON-HUMAN」「少女と水蜜桃」ほか

 

はじめに

 

 自作のプレイリストからアーティストもしくは作品毎に5曲を選んでレビューする記事です。第3弾は【ALI PROJECT】を取り立てます。普通に読む分に理解の必要はありませんが、独自の用語(nの値やリストに係る序数詞)に関する詳細は前掲リンク先を参照してください。

 

 これまでに当ブログでアリプロをメインとした記事は4本あり、何れも「今日の一曲!」なので網羅的なものは存在しません。その出逢いについて語っている記事と、作詞作曲編曲にバランス良く言及している記事に対してのみ、代表的にリンクカードを貼っておきます。

 

 

 

 その他関連のある言及をした記事や単に名前を出しただけの記事も読みたいという方は、当ブログのID指定ありの検索結果ページを以下にリンクしておくので辿ってみてください。なお、本記事の選曲に於いては過去にレビュー済の楽曲をなるべく除く形にしました。

 

 

 前置きは以上で、ここからアリプロのₙC₅を書き始めます。現時点でのnの値は60/3[=20*3]、レビューするのは「形而上的な、蝶になる」「跪いて足をお嘗め」「NON-HUMAN」「泣き虫派ダリ」「少女と水蜜桃」の5曲です。

 

 

「形而上的な、蝶になる」(2014)

 

 

 己の解説欲を優先して、『流行世界』(2014)に収録の「形而上的な、蝶になる」から紹介します。というのも本曲に関しては多くの方が知りたいであろう情報が管見の限りネット上に見当たらず、ならば自分で調べるしかないと向き合って得られた気付きをシェアしたいからです。その情報とは「歌詞に記載されていないパート」の内容で、正確性は保証しかねますがまずは以下に自分の聴き取りと解釈を載せます。当該部を括弧で、続く歌詞を二重引用符で括りました。

 

 (μεταμόρφωσις, μεταμορφώσεις, μεταμόρφωσις, μεταμορφώσεις)

 "蠕かすもの 留まれるもの/分解されよ 再生されよ"

 

 (τὰ μετὰ τὰ φυσικά, τὰ μετὰ τὰ φυσικά, τὰ μετὰ τὰ Ψυχή, τὰ μετὰ τὰ Ψυχή)

 "思考をこえて 言葉をこえて/囁けるもの 問いかけるもの"

 

 

 作詞者の意向というか歌詞世界を尊重して全て古希語で表記したものの、発音は英語に寄せている感じなので以降は並記して説明します。最初のμεταμόρφωσις(メタモルポーシス)=metamorphosis(メタモルフォーシス)は最も聴き取り易く、且つ歌詞に照らせばこれが生物学上の"変態"を指すと理解するのは容易です。次のμεταμορφώσεις(メタモルポーセス)は複数形の表記ですが、これを英語にするとmetamorphoses(メタモルフォーシーズ)となり実際の歌唱と異なります。唇音退化は順当な変化ゆえポ→フォは問題とせず、しかし-sesをセスと読みメタモルフォーセスと歌っていることから、ただ単複を連ねたわけではなさそうです。そこで両者の仲介に羅語を持ち出して、metamorphōsēs(メタモルポーセース)とすれば見えてくる別の意味があります。

 

 それは古代ローマに於ける「変身譚」です。ズバリそう題されたものではオウィディウスの『変身物語』が有名だけれど、本曲の背景的に引用元として相応しいのはアプレイウスの著作(『黄金の驢馬』の原題)だと思います。なぜなら同作には「クピードーとプシューケー」の挿話があり、歌詞の"Ψυχή"(プシューケー)に繋がってくるからです。同語の訳語としては「心」や「魂」が一般的ながら(英語の接頭辞psycho-の語源で有名)、実は「蝶」を指す言葉でもあります。紀元前にアリストテレスが『動物誌』で羽化を説明する際に、蛹の状態を死に近しいものと捉えてそこから新たに生まれ出づる蝶を魂の具象化と見たことに始まり、後世でも絵画や彫刻にギリシア神話の登場人物として(=女神化した)プシューケーを表す際には、その背中に蝶の翅を生やすのが解釈一致となっているほどです。

 

 

 ここまでが曲名の「蝶になる」に係るものと確定させれば、後は「形而上的な」を読み解いていけば残りも聴き取れるようになります。またも学問的な起源はアリストテレスで、後年の逍遙学派学頭・ロドスのアンドロニコスが編纂した『アリストテレス全集』が端緒です。彼が生前「第一哲学」と呼ぶも名称が定着しなかった学問領域が、全集に於いては「自然学=τὰ φυσικὰ(タ・ピュシカ)」の後(メタ)に置かれたため、便宜的にτὰ μετὰ τὰ φυσικά(タ・メタ・タ・ピュシカ)と表されます。あくまで仮称でしたが奇しくも存在の根本原理を探求する当該学問の実態に即しているということで定着し、その後短縮されμεταφυσικά(メタピュシカ)→羅語でmetafysica(メタフィジカ)→英語でmetaphysics(メタフィジックス)と変化し、これの井上哲次郎による漢訳が「形而上(学)」です。

 

 ということで答えは既に書いた通り、本曲で呪文のように繰り返される謎のフレーズはτὰ μετὰ τὰ φυσικά(タ・メタ・タ・ピュシカ)で、つまり形而上の話をするマーカーとなっています。とはいえよく聴くと3回目以降はピュシカの部分がプシューケーに、即ちτὰ μετὰ τὰ Ψυχή(タ・メタ・タ・プシューケー)と歌われており、この改変は非常に超越的です。形而上学の主要テーマのひとつたり得る魂のメタを取るのは言わば超形而上学的な発想ですし、羽化後の蝶に更なる変態のフェーズがあると考えるのもファンタジックでワクワクします。

 

 

 さて、ここまで背景を説明すれば上述した全てが歌詞解釈のためのTipsとして充分に機能すると考えるため、歌詞そのものに殆どふれていない点は棚上げして以降に語るは作編曲面です。アリプロの音楽性が実に多彩なのはオリジナルアルバムにまで手を出す方なら重々承知のことでしょうが、本曲はリリース当時は元より現在のキャリアから振り返っても異彩を放っていると感じます。お馴染みの二分法である白黒で表そうにも折衷的ですし、楽想もプログレッシブで何処がサビだとかを同定し難いです。下記の理解に資するであろう、当ブログに於けるメロディ区分のルールはこちらから。

 

 シンプルに歌い出しのスタンザからAメロとカウントしていくなら、サビは最もダイナミクスが大きい"変態"と"羽化"のセクションでしょう。漫然と聴いていると日本語による歌唱とは思えないほどに発声からして特異で、ゆえにここはメロディの連続性から切り離されているとすら感じます。この捉え方を意識して当該部を例外扱いとすると、寧ろ歌い出しこそがサビ(=サビ始まり)なのでは?とやや突飛な発想に至りました。厳密には"思考をこえて"から"そのひと滴"まで長く展開する進行にサビらしさが窺え、歌い出し("蠕かすもの"~"翠の影")はサビ前半で一度切られるタイプ、旋律が重なるパート("そしてわたしがいる"または"いつ 現れ")でサビ後半に移行するとの聴き解きです。何方が正しいと結論付ける気はさらさらなく、要するに何処を切り取っても重要に感じられるくらいの;作詞上でも作曲上でもサビの要件を満たし得るようなthematicなナンバーだと言えます。ブログにて宝野アリカさんが本曲を「現代詩+現代音楽」にカテゴライズしていることにも納得です。

 

 

「跪いて足をお嘗め」(2007)

 

 

 1曲目からいきなりディープだったため、お次はアニメタイアップのあるメジャーどころから『怪物王女』ED曲「跪いて足をお嘗め」をレビューします。原作は新シリーズ「ナイトメア」が2021年まで復活連載していたとはいえ懐かしいですね。前置きにリンクした出逢い記事の中でも語っているように、第一次アニヲタ期(2004年秋~2007年冬)の遍歴に照らしてシングルで追っていたことを断言出来る頃の楽曲なので思い出深くあります。ナンバリングでひとつ前の「暗黒天国」(2007)から一ヶ月経たない内の連続リリースというマーケティング戦略もその表れとして、2000年代中期のシングル曲は脂が乗りに乗っていた時期ならではのキャッチーさと抑え切れない独創性が見事に噛み合った神曲ばかりとの印象です。

 

 挑発的な曲名が期待させる通りの鋭利なオケを携えたイントロだけでもう黒アリな名曲の予感を覚え、その歌い出しが"跪いてお嘗めよ 赤い爪を/縺れた舌で女王様とお呼びなさい"とくれば弥が上にもゾクゾクします。螺旋を描いて墜落していくかのような旋律のAメロには甘い堕落の誘惑が垣間見えて心地好くすらあるけれど、安易な逃げは赦さないとばかりに俄に暴力性を伴って現出する"頭ノ中カラ薔薇薔薇/散ラシテアゲルワ波羅蜜"の脳内シェイクな進行もまた蓋し快楽です。ボタニカルなビジョンが浮かぶのも素敵。

 

 Bメロに入ってイントロがここの先出しだったことに気付ける技巧性に感心し、"求めるのが/まだ愛なんて/男達どれほどまで/浅はかな子供だろう"と耳の痛いフレーズの上乗せで一層えぐられます。2番で"女達"も同じく"愛"に囚われていると補足があるのは一見相補的ですが、何方もmatriarchalな立場("女王様"・"母様"・"姉様")からの指摘なので、性別に関係なく平等に呆れられているのでしょう。しかしそれら欠点が被虐側にあってこそ、大きく展開するドラマチックなサビの後半に謳われる内容="それでも"の逆接に導かれた後の歌詞が活き、加虐側の救いに繋がると示唆されている関係性は真に相補的です。"純粋と云う 汚物に塗れた宝石"は言い得て妙だと思います。

 

 

「NON-HUMAN」(2023)

 

 

 懐古は済ませたので今度は最新作からのお気に入り、『天気晴朗ナレドモ波高シ』(2023)収録の「NON-HUMAN」にフォーカスです。上掲の試聴動画では[1:09~1:26]で少しだけ聴けます。前置きにリンクした「暗黒天国」の記事でその編曲を語る際には、敢えて弦楽以外の要素に注目することで、片倉三起也さんの幅広いサウンドプロダクションを際立たせようとしました。本曲ではそちら方面に係る手腕が遺憾なく発揮されており、打ち込みとシンセサイザーが主体のアリプロ流EDMだとの認識です。いわゆるスタブ系の音をバンバン鳴らすのが界隈らしいなと。

 

 かといって当該ジャンルに特有の下品さ(これも場合によっては誉め言葉だけれど)が薄いのは流石アリプロで、「NON-HUMAN」というタイトルから想起させられるアウトローな向きとSFらしさが許し得るサウンドだとの的確な狙いが窺えます。"おなかから 外に出たんだよね"の訝しみを象徴するかように胎動めいて唸り出すシーケンスフレーズは不気味に響くも、単純なリズム隊による洗脳的なビートの間隙に這入り込んでダンサブルです。書き出しからずっと疑問だらけの歌詞は自身の人間性に及び、切なげな音色で当惑気味に進行するリフをバックにした"どこで 間違えちゃったんだろう"に悲哀を感じます。

 

 しかし「人間(他人)を羨んで終わり!」とならないのが似通った自己否定ソングと一味違うところで、"I wanna be non- human"と肯定的な視点を入れてくるのは正しく異端です。正しくない異端とは、銘々によって能動的に排除された個が我が身可愛さで自ら他者を排除したんだとの転倒に至ることを指します。そのような孤立ではない孤高の非人間性は価値あるもので、そのためには"いつか 帰る所/いまは汚れぬ good girl/だから きっと叶う"と未来への展望を持つことと、ガラッと曲調の変わるCメロに展開されるオリジンの記憶が重要なのでしょう。"遙か昔 生まれる前/異なる 存在だった"と覚えているなら、"わたし"も"君も人間じゃない"ことを嘆く道理はありません。

 

 

「泣き虫派ダリ」(2016)

 

 

 ボーカル曲だけがアリプロの全てじゃないぞということで、実は数多くあるインスト曲から最も好きな「泣き虫派ダリ」の紹介です。『A級戒厳令』(2016)収録曲。カフェコンピに入っていそうなボッサなイントロから予想される軽い聴き味は、[0:17]で直ぐに裏切られます。重々しいストリングスに寂寞たるギターそして厳格なドラムスが、それぞれ如何にもな派手さを伴わずにすっと入り込んできて、その不明瞭な音像に表現された浮遊感が独特で素晴らしいです。しかし[0:49]からの比較的メロディアスなセクションに不穏さはなく寧ろ癒しで、[1:13~1:21]に鳴る覚醒的な電子音の意外性にも驚かされます。

 

 その後はまた上記(イントロを除く)の繰り返しですが、[2:01~2:07]にヴォコーダーかトークボックスかメロトロンか…ともかく肉声と楽器が融合したかのような不思議な出音を認めたり、先の覚醒的な音に合わせてグリッチさせたチップチューン的なノイズが刻まれたりと、変化を楽しませてくれるのは流石片倉さんの手に成る細部までこだわったサウンドメイキングです。このままダ・カーポしてアウトロかと思いきや、[2:41]から冒頭に予想したカフェコンピ路線で曲が弾け出すのは予想外でした。笑

 

 とはいえこれも長く続かず再び暗がりのパートに戻って、[3:13]以降に手を変え品を変え新出するSEじみた音の数々にまた色々と情景を想像させられます。本曲に見られるジャンルを定義し難い奇妙な遊び心は、確かにダリ作品のシュールさに結び付く部分があるなと腹落ちです。初期のアルバムに『DALI』(1994)を冠したものがあることや、クレジットの「Miu Miu:DALI」が明かす通り片倉さんの愛猫の名前がダリであることなどを根拠にすれば、強くインスピレーションを受けているのは間違いないでしょう。

 

 

 
 

「少女と水蜜桃」(2013)

 

 

 ラストには時節柄の選曲として、『令嬢薔薇図鑑』(2013)から「少女と水蜜桃」を持ってきました。"春の節句/緋毛氈 敷いた部屋の/段飾り雛遊び"から素直に雛祭りの歌と解釈し、雨水(2月19日)を過ぎた今なら既に雛人形を出している家庭も多いのではないかとの推測です。かつての「今日の一曲!」で本曲に軽くふれたことがあり、そこでは同アルバムの中で次点のフェイバリットである旨と、「A/Bメロとサビの緩急が素敵 {中略} サビのアレンジの激しさとメロディのうねりっぷりが堪らない」との短評を副えていました。

 

 歌詞も演奏も儚げに幕を開けるので落ち着いたナンバーかなと油断していると、"緋毛氈"の鮮やかな赤と共にオケが勢い付くプレコーラスに持っていかれます。これが前述の「緩急」で、サビの「うねり」とはつんのめるような譜割りについての言です。何時まで"少女"でいられるのかが本曲のテーマと取れるため、"大人になってしまった"現実の虚しさが平歌(実質的にはAメロ)の旋律に表れているとすれば、サビは若い時分の回想ないし意識上でのタイムスリップゆえに前のめりなのだろうなと推測できます。

 

 "桃"の実が少女性のメタファーなら、"果実に巣喰う虫の/そのおぞましさを/憎み尽くそうとしても/胸だけに仕舞って/少女のままで 在るために"の切り離しと、"庭の隅で盛りの/青い枝に今/甘やかな密も持たず/固い果肉のまま/実って落ちる 桃ひとつ"の引き換えに、その過酷さを見た思いです。だからこそ生身を棄てて、"わたしはあの人形に/なりたかった"と願うのも切実とわかります。…と、男の身分で勝手に妄想するだけしか僕にはできません。

 

 

おわりに

 

 以上、アリプロのₙC₅でした。本当は「少女と水蜜桃」へのもっとタイムリーな言及を意識して二日前にアップを完了する算段だったのですが、去る土日に少し厄介な食中りを起こして座る姿勢がツラかったのと集中力に欠くせいで筆が進まず時宜を逸してしまった次第です。更に言うとこのせいで本来4曲目に据えようとしていた「人生美味礼讃」(2005)をレビューする気になれず、急遽「泣き虫派ダリ」にお鉢を回したという裏話も明かしておきます。でもこれは結果的に幅広いアーティスト評の提示に繋がったと思うので良い変更です。

 

 前回のₙC₅から一週間でアップできたのもギリギリ幸いでした。ₙC₅は始動させたばかりのフォーマットなので未だ試行錯誤の中にあるけれど、せめて一週間に一本は書き上げたいと考えています。2020年まではともかく以降の更新は躁鬱じみた軌跡を辿っていて、月一で濃厚な特集記事を書いたと思ったら月単位のブランクを作り(2021年)、その言い訳に雑多な複合記事を書いてお茶を濁すのを繰り返し(2021年~2023年に断続的)、かと思ったら「今日の一曲!」を連続更新したり(2022年3~4月)、はたまた一年近く更新が途絶えたりして(2022年9月~2023年6月)、再開後も音楽+αの記事【映画イヤホン旅行MV】ばかり書いていたので(2023年7月~2024年2月)、いい加減純粋に音楽レビューを増やそうとしているのです。