またまたイエスの誕生日
明日はクリスマスイブだがまだ別の説もあった:
クリスマスを12月25日にしたのは
ローマの太陽神信仰と関連して冬至に近い日を選び
ノンクリスチャンも祝えるようにカトリックの僧侶が
意図的に設定したのだという説もある。
事実とはちがっていても人気がでればキリスト教の普及につかえるという
下心があったのだという。
手段はともなく
正しい福音がつたえられればそれでよしと。
なぜ信仰が強くなれないか
叶えられるときもあれば叶えられない時もあり
叶えられないのは神さまからの試練かあるいは信仰が弱いからだと考える。
というのは私たちは基本的に実証主義をとらざるを得ないからだ。
実証主義によって信仰は強くなる。
つまり自分の生活にひきこんで祈った願いがかなえられればほら聖書に書いてあるどおり、
あるいはイエスのいったとおりになっている。
そのフイードバックの繰り返しによって、いいかえれば証によって
信仰は強まると考える。
あるいはおうおうにしてあるが、偶発的なことであっても、強引に、願いによって
それがおきたと信じ込むことによって、信仰を強めることもある。
いや、そういうことが少なくない。
実際、イエスは奇跡を起こすのは信仰を強めるためである発言もしている。
これに対して
もっとも有名な聖書の言葉はヘブリュー(ハブライ人へ)11:1-3
の
新共同訳1987
11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
これはパウロの言葉なのか別の使徒のことばかはあきらかではないが
イエスの奇跡の意図やわれわれの実証主義とは異なる立場である。
実際、イエスはまだ実現していないことを信じろとはいっていないと思う
(要確認)
イエスはクリスチャンが神の子の条件を満たすなら、信仰が強ければ
山をも動かせるといっている(しかし山を動かしたクリスチャンはひとりもいないが)
なぜほとんどのクリスチャンの信仰が強くなれないか。
それは祈りがかなえられたりかなえられなかったりするからであある。
イエスの生誕日は12月25日なのか?
実やイエスの生誕を祝っていないのだという俗論はネット上には少なくない。
http://ameblo.jp/64152966/
多くの教会やクリスチャンはだれも12月25日の誕生日に疑いをもっていないが。
本当のところはどうなのだろう?
実は聖書でははっきりと書かれていない。
ある説ではイエスが生まれたのは
”
初秋 だっ た
イエス は 西暦 33 年 の 春,過ぎ越し の ニサン 14 日 に 亡くなり まし た。その 時 から 逆算 する と,イエス が 生ま れ た 時期 を 推定 でき ます。(ヨハネ 19:14‐16)イエス は 3 年 半 の 宣教 を 開始 し た 時 に およそ 30 歳 でし た から,西暦 前 2 年 の 初秋 に 生ま れ た こと に なり ます。―ルカ 3:23。
”
この説の根拠はイエスの宣教期間は3年半。
イエスのなくなったのは過越の日。
過越の日は
http://www.crosscurrents.hawaii.edu/content.aspx?lang=jap&site=us&theme=cal&subtheme=CULTURHOL&unit=USCAL034
4月5日から15日であり
その半年後は10月5日から15日になる。
さらにイエスが生まれた時には羊飼いたちは野宿をしていたと
聖書にあるので冬とは考え難いというのが根拠のようで、
いちおう最もである。
それではだれが何を根拠にして12月25日をイエスの誕生日と設定したのか? これはブリタニカの百科事典にその説明があるという。
それは異教徒が祝う冬至の近傍にしたという。
しかし冬至は12月22-23日なのでなぜ冬至とずれているのかの
説明がされていない。
大事なことは新訳聖書からでは12月25日がイエスの誕生日とは推定しにくいということである。新訳聖書にないのなら聖霊にその根拠を求めるのが
ただしい方法であるがだれもそのようにはしていない。
これらをみるとクリスチャンというものは保守的で権威(牧師)に弱いといえる。プロテスタントの宗派には革新的なものがおおいのに
だれも12月25日に異論をとなえていないのは不思議なことである。
あなたがイチジクの木の下にいるのをみた
ヨハネ1:50に”あなたがイチジクの木の下にいるのをみた”からイエスは神の子だという言い方がある。
このイチジクは新旧聖書のなかですくなからず登場しこれは神がはつなりのイチジクをことのほかめでたことを含めてイスラエルの象徴としての意味があると解釈されている。
このことはイエスの言動が象徴的になることを示している。
これからイエスのことばをときあかしていくときに
このヨハネの1:50(ほかにもイチジクの木を呪うエピソードもある)はよい教訓である。
ヨハネによる福音書1章
新約聖書のなかでもヨハネによる福音書は特別な位置を占めている。他の著者とは一線を画していて近づきがたい後光が感じられる。
第1章からして意味深だ。
すべてのものをつくったというところがつっこみどころだ。
すべてといえば悪を含むことになる。いきさつからいけば悪の
原型である悪になるまえのサタン、もともと天使、をつくったときは悪ではなかったと言い逃れることは可能だ。
しかし世界は4次元時空であるとすれば堕天使であるサタンも
神がつくったというのは間違いないだろう。このヨハネはこの章からみるとバプテズマのヨハネと同一人物であるかのようだ。
その先導者の役割のヨハネが悪も神がつくったといったときにサタンもはいっていたのかどうかはわからない。
新約聖書のすべてが神の息吹がかかっていたかどうかは明瞭ではないからだ。
慎重に考えれば悪を包含してすべてを神がつくったとは考えにくい。イエスがいわれたようにすべてのなかで一番大切なのは
愛でサタンの存在はそれに反しているからだ。
何事もイエスのことばを優先して考えるべきであり、
それでもわからない場合はイエスの使わされて聖霊から答えを
もらうというのが正しい態度だろう。
オンライン聖書
買ったがかったきりであった。
故東牧師にちなんでストロングなどの分厚い聖書注解も購入した。
聖書もいろいろなバージョンがありかなりそろえた。
いまではスマートフォンを使っている外国人のクリスチャンが多い。
インターネットなどでオンライン聖書などもわりと簡単に見つけられる。
そういうさまざまなツールがあっても、結局は我々次第で真に役立つにはツールは二の次のようだ。
それにオンライン聖書できになるのは横書きになっていることだ。
印刷物の聖書なら、日本語なら、縦書きだ。
オンライン聖書でも縦書きができるが
画面が横長なのでなかなか普及しない。
タブレットがもっと一般的になれば、スマートフォンでもよいが
縦画面表示も容易なのでいずれ縦書きの聖書を選べることができるようになるかもしれない。
ここに日本語がこなれていて読みやすい横書きのリビングバイブルのテキストがある。
https://www.bible.com/ja/bible/83/jhn.1
ここで
気になるのは表示されている部分しかみえず聖書全体を
見通しにくことだ。
洗礼の種類
宗派によってその儀式もさまざまだ。
しかし多くの日本の保守的な教会ではただひとつの洗礼にこだわる。
普通は水の洗礼がこれにあたる。
そのやりかたもおでこにちょこっと水につける宗派から全身を水に浸すのまでさまざまだ。
これに対してアセンブリー系の教会では聖霊のバプテズマ(洗礼)を
強調し、それは異言という母国語とは異なることばをはっするようになることが
その証拠であると考える。その聖書的な根拠はイエスが聖霊をおくると約束して昇天したあと使徒たちは異言を話し始めたからである。
わたしがいちどいっていたことのある千葉県にあった
純福音派の教会では火のバプテスマというレベルの洗礼まである。
聖書をよくひっくりかえせば
雲のバプテスマというのもあることを発見できる。
いずれにしても
イエスキリストにあってクリスチャンとしての
信仰の強さと方法論の知識と実行の程度に応じてさまざまな
洗礼というおのがあるのだが
あまりしられていない。
聖書の権威の根拠
聖書は神の霊が人間に書かせたものであるからという論法が使われる。
聖書でのその記述は
Ⅱテモテ3:15-17
Ⅱペテロ1:21
だとされる。これは一見説得力があるらしく国際クリスチャンセンターの故東康男牧師でさえもそう断じている。
これが間違いであることは明白である。テモテやペテロが使徒として伝道に命をかけこのような書簡を書いていた時代には彼らの書簡は使徒から信徒への書簡であったこの書簡を聖書だといえるはずがないからである。
彼らにとっての聖書とは旧約聖書をさすはずである。
たったひとつだけわずかな抜け道はある。
参考引用:
3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
ペテロ
| 1:21 | 1なぜなら、どの預言もかつて、人の意志によって2もたらされたのではなく、人々が聖霊に2動かされて、神によって語り出したからです。 | |||||
本当に聖霊をうけている信徒はいるのか?
ルターやカルビンの宗教革命で聖書中心主義が広まったからしばらくして
20世にになってイエスが聖霊を約束したことに築いた指導者がでてきた。
この約束をもとにおそらくカリスマ派やアセンブリー派がうまれた。
そして異言を話すことが聖霊の表れだと聖書にあるのでこれを重視して
聖霊を受けたと称しイエスと同じように癒しを公開の場ででもする牧師が
あちこちに現れた。
メガチャーチの少なからずの牧師はしかし、堕落して姦淫の罪や金や物欲に
支配されてしまった。
ヨハネの14章には助け主である聖霊によってイエスと同じわざを行えるとある。
しかしイエスは”わたしを愛するものは”という条件をつけていた。
これらのメガチャーチや少なからぬ教会の牧師はバックスライドしていった。
イエスを愛することはむつかしいことなのだろうか。
一般信徒でイエスのいう基準でイエスを愛しているクリスチャンはいないのだろうか?
ヨハネ14章 イエスが残したもの・聖霊
わたしが思うにそれはロマ書の説くイエスを受け入れる方法:ロマ書10:9-10
とこのヨハネ14章だと考える。
ヨハネ14章では弟子たちにイエスが十字架にかかるがそれは天にのぼったあと
助け主を送ると約束している。その助け主とは聖霊のことであるが
弟子たちはそのときにはその意味を理解していない。
また弟子たちはイエスがこれからどうなってどこにいくのかも理解していない。
まだ助け主がきていないからだ。
イエスは自分は父のもとにいくが助け主として弟子たちの心に常在し
イエスが神のことして助け主により行うのと同じことを弟子たちもイエスと同様の奇跡を
行うことができるといっている。
このことを額面通りに信じているクリスチャンはほとんどいない。
替わりに弟子たちの証言を集めた書簡などの集成である新約聖書を
信仰の基礎においている。
イエスが弟子たちにいったことは助け主である聖霊を贈ることがイエスの十字架の
意味である。
”
14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
14:27
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
”
27節の平安を得るクリスチャンは少なくないが
26節の”すべてをおしえ”
に達しているクリスチャンはほとんどいない。