三田一郎教授のe-lectureとカトリックの限界
科学はすべてを解明するかは短いので簡単に読むことができる。
期待はしなかったが、がっかりするもので、その主張は凡庸なものばかりである。
カトリックだから仕方のないことかもしれないがこれがプロテスタントの創造論科学者であれば斬新なアイデアが紹介される。
三田さんの主張の唯一の他の変わったところといえば
創世記にゼロ章をくわえ、ビッグバンのまえに物理法則があったとするものだ。
もともと聖書に人間が手を加えることはできないのでこれは禁じ手である。
三田さんは過去カトリックの時代の天文学者が神を信じたように
精妙な宇宙をまえにして神を畏れるといったもっともシンプルな信仰である。
これがプロテスタントであれば聖書をよく調べ聖書を根拠に
するところだがカソリックのひとたちは違うようだ。
それにイエスの愛に全く触れていない。
対立がおきるはずだ。
彼が凡庸な内容の講義を公にできるのは彼の社会的な地位(大学の物理の教授)と
専門分野での賞をもらったなどの業績により、その話しの内容ではない。
ある人が科学の分野でいかに重要な業績を残したかではない。
いかにいっている内容が斬新で筋がとおっていて
かつイエスキリストへの理解の深さがあるかがもっとも重要なのだ。
宗教裁判の殺戮者数は5000万人?
毛沢東、スターリン、ヒットラーかとおもっていたが
同等の殺戮数がローマンカトリックの宗教裁判と魔女狩りでもあったかもしれない。
その数は5000万人といわれる。
もっと少ない見積もりもある。(数百万人)
その殺戮理由は
十字架とマリア信仰を信じないことだったという。
もっと恐ろしいのは
スペインのカトリックがアメリカで150年の間に虐殺した
先住民の数は一億人を超えるという!
創世記
私の知り合いのジョンハートネット博士も創造論者だ。
創造論者の理論はいまはさておき。彼らの理論は実験的に実証できない。同じように進化論も実証できないことは知られていない。
進化論は動物の多様性を進化という仮説で説明しようという理論だ。いかに面白い理屈をひねりだせるかどうかが進化論の研究のポイントなのだ。
創世記1章は宇宙の創造だ。創世記を書いたのは人間(モーゼ?)が書いたとされていて、現在の宇宙論の知識どころかガリレオの知識でさえないひとが書いたのであるが、そこは(旧約)聖書は特別で霊感によってかかれたはずなので、後年、人類が知識を獲得しても間違いがないように書かれているはずである。あるいは当時理解されないことは省略されているはずである。
だからマルチバースやダークマターやダークエネルギーやインフレーション宇宙やビッグバンの記述は省略されているはずだ。しかし省略はされていても間違った知識はないはずだ。旧約聖書には誤謬はないと新約聖書のイエスの弟子たちが証言しているからだ。
それでは宇宙とわが地球が7日間で創造されたというのはどう解釈すべきなのだろうか?
神学者や創造論者にその議論をまかせておいていいのだろうか?
そんなはずはない。
これを理解する唯一の方法は
イエスへの祈りである。
信仰さえ強ければ願いは叶えられるとイエスが新約聖書で保証しているからである。
しかるにその正解をきいた人はだれもいない。
信仰の強いクリスチャンはだれもいないのだろうか?
他に解釈はあるのだろうか?
御霊と水を血その2
御霊と水を血が一致する。
とありイエスは水と血を通ってこられた
ということの意味合いがすぐにはわからなかった。
一般には水は洗礼で血は十字架だという解釈だ。
そんなに無理はないが必ずしもストレートには納得しがたい。
というのは洗礼には水の洗礼と聖霊の洗礼と火の洗礼の
三種以上があり、イエスはすべてを通っているはずだからだ。
聖霊の洗礼はassembly派やカリスマ派では強調されていて
異言がその証拠とされている。
火の洗礼は馴染みが少ないが純福音派とよばれる会派では
かなり上級の洗礼とされている。
御霊と水と血が一致するという表現は文学的な表現に思われ
論理的には一致するはずがない。
このように聖書には文学的な表現がでてくるので
字義通りの解釈というものは危険がともなうということが
わかる。
young professionals 三田教授
そのなかでsannda ichiro 三田一郎という神奈川大学教授が説明をしているサイトがある。しかし三田博士自身は70に近いので決しておわかくはない。(どうも関口教会関連にリンクしているのでカトリックの方のようだ)
素粒子の理論家で益川・小林のCP対称性の破れの先駆けの仕事をしたと説明されている。
その素粒子の理論家が科学と神というサイトでどのようにキリストについて証言しているかおってみることにしよう。
10^500の数の世界も神はご存知か
大宇宙の数は10^500にまで及びうるというのがひも理論で予測されている。
われわれにとっては無限大の宇宙だが物理・数学者にとっては大きいが有限だ。
私たちが夜空を見上げるときにみえる星(恒星)の数は無限大と思われるほどで
百数十億年の時空の織物が夜空に広がっていてそれだけでも畏怖するのに十分だが
その数でさえ物の数ではないのが現時点の知識・想像の暫定的結論である。
聖書の創世記では現在の宇宙認識のほんの一部ではないか。それは単に聖書の著者または聖霊がその一部しか開示しなかったからか?
旧約聖書の時代の著者は現在の知識の到達点まで予見していなかったのか?
それとも主は10^500の数の
宇宙を創造しているのか?
カトリックの東京カテドラル聖マリア大聖堂
サイトから一部転載:
東京カテドラル聖マリア大聖堂、又の名を関口教会と呼ぶようだ。
一部を同サイトから転載:
聖堂について
聖
堂は、礼拝のための場所です。聖堂において、カトリック教会の最高の祈りであるミサをはじめとした典礼(公式の共同の祈り)が祝われる場所であります。日
本のカトリック教会では、しばしば「御御堂(おみどう)」とも呼びます。また「教会」が、聖堂を指す場合も多くありますが、本来、信者の集いを意味するこ
とばです。
また聖堂は、聖人などを記念し、捧げられています。最も有名なローマにある「サン・ピエトロ大聖堂」は使徒ペトロを記念しており、ここ東京カテドラル関口教会聖マリア大聖堂は、無原罪の聖マリアを記念し、捧げられた聖堂です。
また、古来から、聖堂は東を向いて建てられる習慣がありました。日本のような宣教地においては、土地的な制限があり、遵守するような習慣ではありませんが、ここ東京カテドラル関口教会は、東向き(西側に入り口があり、東側に祭壇がある)に建てられております。
ここのように聖堂の中で、司教座(カテドラ)が置かれる教会を司教座聖堂(カテドラル)とか大聖堂とか呼びます。
大きな聖堂では、内部に複数の聖堂を有することがあります。ここには地下聖堂と小聖堂があり、さらには古来の慣習にならい、地下に納骨堂を設けております。
“カテドラル”とは
カテドラルとは、”カテドラ”のある教会のこと。カトリック教会には、教会の行政、司牧のための地域的区分があり、それを「教区」と呼びます。(日本は16の教区に分かれています。)それぞれの「教区」には教区長である司教または大司教がおります。
この(大)司教が、自分の教区内にいる信徒を教え、導き、司式するための“着座椅子”をギリシャ語で《カテドラ》といいます。(祭壇左手にある紋章 のついた赤い座がそれです。)昔から、この 言葉は教授、判事の席を意味しており、後に高座そのものをいうようになりました。つまり、権威をもって教えるという意味です。
《カテドラ》すなわち司教座のある教会を“カテドラル”、司教座聖堂といいます。 東京教区の司教座聖堂ですので“東京カテドラル”と呼ぶわけです。カテドラルは、いわば教区の〈母教会〉といえるもので、長である東京大司教が公に儀式を 司式し、教え指導する教会なのです。教区全体の行事、集会もここで行われます。
日が延びる
一気に日が延びるのが加速された。
おまけに今年の暖冬で春がより早く近づいている。
新約聖書のすべてのイエスの約束は本当に成就するのだろうか?
そうでなくても満足するのが大半のクリスチャンだが
それでは本当の信仰とはいえまい。
祈り方のプロトタイプ マタイ6章
マタイ5章-6章
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html
マタイの5章ではイエスが病を癒す奇跡が評判になったあと山にのぼっておびただしい数の群衆に説教を始めた。
このなかでイエスは近くに集まった弟子たちに逆説と思われる過激な発言をしている。おそらくこれを読むクリスチャンたちはそのままの発言をまともに受け取っていない。
まず
⒌3 こころのまずしいものは幸いである。天国は彼らのものだからである。
これは意味不明。逆説だとしてもこころが貧しいの意味が不明。
⒌17-18 イエスは律法の上位概念に愛がありその観点から形式主義の律法は廃止するのかといっているのかとおもいきや、瑣末な律法を守ることが重要であるといっている。他の場面でのイエスの行動をみるとイエスが律法を完成させるためにきたとは思えない。ユダヤ教の数々の儀式をまもれといっているとは思えない。この点、プロテスタントはイエスのこの教えを正面からとらえておらず、自分の解釈したいように再解釈していると思われる。
⒌22以降も過激である。兄弟に悪口をいうものは獄につながれるという。
⒌27-32 姦淫問題について。心のなかで姦淫をしたものは目を抜き出しなさい、五体の一部を切り離しなさいという。姦淫の定義というものを心の中にまで広げるならすべてのクリスチャンが目をえぐり出し、五体を切り離すことになる。この言葉を字義通りに受け取っているものはだれもいないだろう。創造論者でさえ姦淫問題にたいしては字義通りの解釈はとれないだろう。
⒌33以降は天に対しても地に対しても誓いを立てるなという。これもだれもまもれないだろう。決して誓うことはせず、ただイエスまたはノーの二者択一にしなさいという。
⒌38節からは悪人にはて向かわず要求以上のことをしなさいという。これは可能かもしれない。
⒌43からは敵をも愛しなさいという。これも可能かもしれない。
このようにイエスの弟子たちに対する命令には実行が可能な命令もあれば、不可能な命令も多い。
マタイ6章
ここには有名な章である。イエスが弟子に直接教えているからである。
最初に祈るときには偽善があってはならないことをいっている。
8節では祈りに関して重要な指摘をしている。それは天の父はクリスチャンが祈るまえからその内容をしっているというのである。
以上を踏まえたのちに9節から12説が祈りのプロトタイプである。

