優しさがいちばん -20ページ目

プロテスタント教会がカトリックの聖歌集を

きょう、氣づいたのだが
プロテスタント教会がカトリックの聖歌集を使っている。
そのなかの使徒信条のところも 精霊の交わりとあるはずのところが
教会の交わりとあるようだ。

ちょっと物事を考えなさすぎますおさん。

マタイ福音書には誤訳が多いという

正典・信条・教会はいかに作られたかの著者は
マタイ福音書には誤訳が多いという
この著者がマタイ以上にヘブライ語に堪能であるかどうかはわからないが
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3)
はヘブライ語に近い訳では
「心の砕かれた人々は幸いである、天の国はその人たちによって成る」
だという。
それが本当なら聖書をよむのはいかにむつかしいかということになる。

(マタイはヘブライ語をギリシア語に翻訳したとみられる)


エホバの証人の意図とは

エホバの証人は大多数のキリスト教の宗派からは間違った教えを広める異端としてしりぞけられている。だが聖書を調べる時にわりと頻繁にグーグルの検索にはエホバの証人のサイトがヒットする。それはこの団体が意図的に行っていることに違いない。新興宗教だけに理論武装に力をいれているのだろう。
たとえば
聖霊についてしらべるとエホバの証人のサイトが上位にでてくる

エホバの証言は聖霊とは神の活動する力だが人格性はないと強調する。人格性をもつと考えるのは間違いであると断言している。
その根拠としてヨハネ伝は新約聖書から除かれるべきであるという神学者がいること、
聖霊に人格があると明確にかいてはいないことだという。
たいした根拠ではないがどうもヨハネの証人は聖霊の人格性を否定したいだけでなく
三位一体からもはずしたい意向のようである。

エホバの証人のその意図はなにか?
聖霊の本体を力場に限定したいということなのだろうか?
聖霊の役割を低くしようということがエホバの証人に目的なのだろうか?

つまり、イエスの最大の贈り物を貶めようとしているのが
エホバの証人なのだろうか?


聖書でいう愛

ジョントッドがイルミナテイを暴露


ローマンカトリックを調べる時には
バチカンについて調べざるを得ない。
いやでも社会とカソリックは切り離せないのだ。

ジョン トッドとは元イルミナテイの要職にいたヒトで脱退して
その内部を暴露した人物としてしられている。
彼のサイトがあり、イルミナテイの上にはイエズス会があるという。
イエズス会は英語ではJesuitsと呼ぶ。そんな英語は習ったこともないし、普通の英語の文書にはでてこない。
John Todd によれは世界の支配構造は以下のようになっているという。

聖書の内部矛盾がないことの効用

聖書の記述に内部矛盾があることはキリスト教にとって効用となることもある。
というのはクリスチャンは困った時に、聖霊にではなく、聖書にその答えを求めるからだ。
クリスチャンがよくやるのは聖書をどちらかというとランダムに開き、その箇所が自分の困難を解決する箇所、つまり、イエスさまからの回答と考えて祈りが聞き入れられたと考えるからだ。だからもし聖書が一貫した考えで書かれていたらその原理に(たとえば一番大切なのは愛だというふうに)従えばよく聖書のどこに回答があるかを探す必要もない。
しかし聖書の記述に矛盾があり、いろいろな立場の記述があれば、クリスチャンは自分の求める回答を選べる確率が高くなる。だから内部矛盾のある状態を許しておくことは利点もあるのだ。

一例は神の本質は愛であるといいながら審判者でもあり怒りの神でもあるという。
この相反する神の性質は場合場合によって使い分けられる。

宇野正美の説 ネフイルム

宇野正美さんはかってなんどか予言を外しているので
わたしの評価はさがっているのだが
北朝鮮問題に関しては興味ふかい説を展開している。
その人が
ネフイルムに関して2時間講演をしている。
長すぎるのですぐみれないので
ここにメモだけしておく。

(半分近くきいてみると、
話が冗長でなかなか本題にはいらないのだが、ネフイルムを堕天使ではなく
宇宙人だと断じているようだ
。宇野さんの陰謀論のお話は面白いのだが根拠が示されていないのが弱点だ。)

信仰が強められない根本原因

新約聖書の弟子たちの言葉にもあるいはイエスご自身の言葉にも
信仰が強ければ祈りは叶えられるとある。
代表例は信仰があれば山をも動かすことができるとイエスご自身が弟子に断言する。
その言葉を字義通りに信じるクリスチャンはただひとりとしていないだろう。
創造論者にもそのようなものはいないだろう。
しかしイエスの言葉をことばを信じずしてなにを信じれば良いのだろう。
聖霊のことばがイエスのことばの代理となるかもしれないが
そのようなことが頻繁におこなわれているか。
あるいはまれにでも行われているか。
大半のクリスチャンは祈りがきかれるかどうかは神のみぞしるとおもっていて
イエスのことばを信じていないのが現実である。
それは彼らの祈りの多くが、山を動かせというほどの突拍子のない祈りでなくても、
祈りがききいれられないことが多いかだら。
だから逆に祈りがきかれたということが客観的な論証でなくても、
偶然な現象であっても、それが祈り手にとって都合のよい解釈であれば
祈りが叶えられたと思い込んでしまう。
そういうふうに祈りがきかれたかどうかの基準を低いレベルに
設定することでかろうじて信仰にしがみついていると思われる例が多いように思われる。

イエスが弟子たちを信仰が弱いといって叱責するがそれは弟子たちの祈りが
叶えられていないからではないか?
ここで弟子は一般のクリスチャンにも当てはまると考えている。
なぜならイエスの死後、イエスは弟子たちにユダヤ人以外のすべての人種への
伝道と布教を命じているから。そのようなものは間接的にイエスの弟子だからだ。


他のキリスト教ブログ(メモ)

日本にもキリスト教を深く研究するひとたちがでてきたので
他のキリスト教ブログとして
メモをしておく。
1、終わりの日の予言
2、quartodecimaniのブログ

1はかなり過激ですのでしばらくテーマ別に紹介・考察していきます。

新約聖書の内部矛盾をどう乗り越えるか

先にいくつか例をあげたが新約聖書には内部矛盾が少なくない。
その理由として弟子やパウロなど異なる著者の理解が異なるからということも
可能だが、しかし
イエスの言葉だけとってみても一見首尾一貫していないところが散見される。
たとえば明日のことを心配するなといいながらマタイ伝のように日毎の糧をあたえてくれるように祈れとある。
あるいは愛が第一と説きながら目からの情報が姦淫の思いにいたるなら目をえぐりだせともいっている。愛にあふれた心なら目をえぐりだせとはいわないだろう。

これからもそのような箇所をチエックしていく。

そして最終目標は無矛盾なイエスの教えにたどりつくことだ。