優しさがいちばん -19ページ目

エノク書に目をとおしてみよう

かって一時は聖書に加えられていながら途中からはずされたエノク書は
終わりの日、目覚めた人への福音”によれば
霊の世界についての記述が多いという。

霊については現在の新約聖書には記述はあるものの、しかも
イエスなきあとは助けてとしてもっとも重要であるものの
一部の宗派以外軽視されている。しかもその一部の宗派でさえつまづいている。
そのエノク書がどんなものであるのか

一部はここから読むことができる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/ap_enoch.html

またエノク書の内容は
http://flamboyant.jp/eschatology/esc012/esc012.html


一部転載:
第1週1番目天地創造。
第1週7番目エノク誕生。
第2週大洪水。(ノアの一族だけが生き残る。)
第3週アブラハムがイスラエル民族の祖として選ばれる。
第4週モーセの時代。律法が作られる。
第5週ダビデ、ソロモン王の時代。イスラエル・ユダ統一国家が建設され繁栄した。
第6週預言者エリヤの時代。すでに統一国家は分裂し、衰退期に入っている。
第7週バビロン捕囚からこの書の著者の時代(紀元前1世紀頃)まで。背教の時代だとされている。
第8週不法な者たちに裁きが行われる時代。罪人たちが義人たちに引き渡され、義人たちが永遠の住処を見つける。
第9週正義の裁きが全世界に啓示される。悪人たちの住処は失われ、世界滅亡の準備が始まる。
第10週7番目最後の審判。古い世は消滅し、新しい世が現れる。

イスラエル教会vsパウロの教会

ネロはイスラエルの教会を殲滅したが逃れた集団もいて
コンスタンスチヌス帝の時代の318年まで生き延びていた使徒たちもいた。
そしてそのときのローマンカトリックの教皇に謁見してイスラエル教会の正統性を
訴えたが却下された。

その後
直系のイスラエル教会はどうなったのだろう?
迫害をうけたのか?
以下のような記述がある。

コンスタンティヌス帝によって開催された325年のニカイア公会議において、ローマ教会の聖職者の権力が強化されると、他のキリスト教は異端として禁止された。さらに431年、皇帝テオドシウス2世が開催したエフェソ公会議で、アレクサンドリアのキュリロスと呼ばれる人物がなした説明が正統信仰として決議され、神の母マリアと呼ぶことが公認され、教会に十字架が持ち込まれた。この後、12使徒の教会は徹底的に迫害され、壊滅させられる。ローマ教会は、ローマ皇帝から授かった地上の権力を行使し、ヨーロッパ全土で大量のイエス信徒を殺戮し、イエスの直弟子たちが開拓したエフェソ、スミルナ、ティアティラといった東方の諸教会を追放し、壊滅させていったのである。
 ちなみに『ヨハネ黙示録』はエフェソ、スミルナ、ティアティラといった「アジア州にある7つの教会」に向けて書かれたもので、そこにローマ教会は含まれていない。

どうやらマリア信仰と十字架信仰は431年からのようだ。
いずれも偶像信仰とみなされるだろうが、
人間というものは悪であれ神の義であれ具体的なイメージがなければ信仰の対象にはなりにくいものだ。
姿も形もない神をどうやって”愛する”ことができるのか。
かろうじて可能なのは神の子がヒトの形をとった主イエスならば
イメージを作れるので”愛”の対象が可能となりうる。


聖書の正統性

目覚めた人への福音”では神の息吹によってかかれた旧約聖書でさえ誤謬がないとはいえないという。その根拠は

そもそも翻訳は原典を正確に伝えることは不可能であると言わざるを得ず、そのことについては紀元前2世紀(主イエスが生まれる前)、旧約聖書 続編に編纂されている「シラ書」に次のように指摘されています。
 「元来ヘブライ語で書かれているものを他の言語に翻訳すると、それは同じ意味合いをもたなくなってしまうからである。この書物だけではなく、律法および他の書物でさえも、いったん翻訳されると、原著に表現されているものと少なからず相違してくるのである。」

さらに

「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした。」(エレミヤ8・8)

「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。」(エレミヤ7・22)

この指摘は有用だ。私はしらなかった。

さてそれはいいが
新約聖書については
さて、このように数多くの誤謬や、偏った見解に基づく編纂、権力者の介入による曲解などが覆ってしまっている聖書ですが、それでもなお、この聖書の中には間違いなく神の言葉と救世主の言葉、そしてあらゆる真実が宿っているのです。まさに、毒麦が良い麦を覆っているのが現在の聖書です。この聖書から、人類が求める救いを見出すことは容易なことではありません。
 しかしながら、神はこうなることを予期された上で、キリスト教会の手によって世界の隅々までこの聖書を広めさせたのです。そして、この聖書の毒麦をかき分けて宝を見出す者たち、「道」を見出し、その道を歩む者を求めておられます。

と主張している。こちらの方は根拠を示していない。
そういう場合はどうしても独断の匂いがしてしまい、
ついていけない人も多いだろう。
おそらく神様からの啓示・予言があると思っているので説明の必要はないと思っているのだろう。

わたしも新約聖書には誤謬は少なくないと思うのだが
論理以外にその根拠がみいだせないのだ。
聖書は論理も否定しているようにも見えるので
お手上げだ。
いったい、なににたよったら良いのやら
求めるも答えがない。

ちょっと変わっているサイト”目覚めた人への福音”

目覚めた人への福音(ハナンエル書)
というちょっと変わったサイトをみつけた。
かって真言宗の僧侶で不祥事で裁判をしていたらしいがどこかの時点でキリスト教に改宗したらしい。
そして神さまから直接予言のような啓示をうけ1996年から
”主はうわれた”という内容を発信している。

予言は旧約聖書のような形態の形をとっていてとてもわかりにくい。こんなわかりにくい予言が全世界にたいする神様のメッセージとは感じられない。

ただ創世記については独自の解き明かしを試みていて興味ふかい。

たとえばこの世界を創造した記述は正しいがこの物質の世界だけではなく霊の世界をも一緒に創造し1日という時間の単位も現在の時間の単位をは異なるという。自信満々の解説だが宗教の開設者のような口ぶりで真偽の確かめようがない。
ダーウインの進化論と同じようにいかに仮説がものごとを説明できるかの世界だ。

火の洗礼1

水と聖霊の洗礼のほかに火の洗礼というものが新約聖書で言及されている。
それはバプテストのヨハネがルカ伝の3章でいっている。
洗礼者ヨハネは、イエスは「聖霊と火で洗礼を授ける方だ」と民衆に語ります。
                      (ルカ 3.16) 
火の洗礼について口伝以外にネットなどで解説しているところがあるだろうか?

あるサイト”終わりの日の予言エリエナイ書”
http://homepage2.nifty.com/elienay/index.htmlがある。

http://homepage2.nifty.com/elienay/index33.html

そこでは聖霊と火を同一とみている:

 聖霊は、聖書の中で「鳩のように下る霊」「炎のような舌」「火」「神の知恵」などにたとえたとえられている。そして、その霊は「神の言葉」と共にあるものとされる。主イエスの言葉は、自身から発せられるものではなく、父なる神から発せられている言葉であり、それは火のように人間の内なる悪を焼く。つまり、主イエスの言葉を信じて受け入れ、聖霊によって内なる自分の悪(および旧い自分)を焼き尽くし、新たな本来の自分(神が創造された自分)に生まれ変わること、それが「聖霊によるバプテスマ」なのである


しかし、わたしは意見が異なる。
もし同じなら聖霊と火の洗礼を並列に並べる必要がないし
純福音派のように明確にわけているところもあるからだ。

カトリックにも聖書を研究している人たちがいる

カトリックの人たちは聖書を勉強しないのかとおもったら
そうでもないらしい。
ここにそんな真面目に勉強しているサイトがある。

御霊による証

ヨハネI  5:6に

5:6[編集]

このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。

とあり

5:7[編集]

あかしをするものが、三つある。

5:8[編集]

御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。

という。

ヨハネによれば聖霊のバプテズマも水(懺悔)のバプテズマも
一致するとあるので巷の洗礼に関する論争にたいする回答のひとつとしている。どちらでも同じだからよいのだと。
わりとおおざっぱなもののいいようだ。
ヨハネは論理の筋道というものがまったくわかっていない。
頼みますよ、聖ヨハネさん。

他の聖書では水の洗礼と聖霊の洗礼は別物だといっているところがあるのでこのヨハネI はその点では他の弟子の考えとは異なっている。
(そういえばイエスは水の洗礼をうけたあと自動的い聖霊のバプテズマをうけたかもしれない。聖霊の象徴である鳩が出現しているから)
これだから聖書は読解がむつかしいのだ。
あちこちの説明が違うのでケースバイケースで判断してしまうのだ。
その解決策は助けての聖霊のはずなのだが
それが機能していない。

エホバの証人の意図2

エホバの証人は聖霊の人格性の否定やヨハネを新約聖書からはずすべきだという主張は
そのサイトからわかったが
一般的には
イエスは1914年にすでに再臨していると主張していること
(傍証がないので無理がある)
イエスは神の子であるが神ではないと神からの分離を意図していること
が主要な特徴のようだ。
派生的な特徴としては
輸血をしないなど一般社会の慣習の拒否、
天への復活14.4万人は自分たちだけなど。
イエスの説く愛がいちばん大切だという考えはもっていないようだ。

イエスが神でないということろがキリスト教の本流から異端といわれてきらわれている
ところだろう。

James Japan

James Japanという面白いサイトがある。
日本をヒッチハイクしながらバチカンの陰謀について啓蒙しているようだ。
John Todd のサイトからこのサイトがでてきた。
同一人物なのだろうか?
いや彼はすでに亡くなっているようだ。

御霊と水を血その1

ヨハネI 5章 に理解しにくい言葉がある:

5:6[編集]

このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。

5:7[編集]

あかしをするものが、三つある。

5:8[編集]

御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。

5:9[編集]

わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。