聖書の正統性 | 優しさがいちばん

聖書の正統性

目覚めた人への福音”では神の息吹によってかかれた旧約聖書でさえ誤謬がないとはいえないという。その根拠は

そもそも翻訳は原典を正確に伝えることは不可能であると言わざるを得ず、そのことについては紀元前2世紀(主イエスが生まれる前)、旧約聖書 続編に編纂されている「シラ書」に次のように指摘されています。
 「元来ヘブライ語で書かれているものを他の言語に翻訳すると、それは同じ意味合いをもたなくなってしまうからである。この書物だけではなく、律法および他の書物でさえも、いったん翻訳されると、原著に表現されているものと少なからず相違してくるのである。」

さらに

「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした。」(エレミヤ8・8)

「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。」(エレミヤ7・22)

この指摘は有用だ。私はしらなかった。

さてそれはいいが
新約聖書については
さて、このように数多くの誤謬や、偏った見解に基づく編纂、権力者の介入による曲解などが覆ってしまっている聖書ですが、それでもなお、この聖書の中には間違いなく神の言葉と救世主の言葉、そしてあらゆる真実が宿っているのです。まさに、毒麦が良い麦を覆っているのが現在の聖書です。この聖書から、人類が求める救いを見出すことは容易なことではありません。
 しかしながら、神はこうなることを予期された上で、キリスト教会の手によって世界の隅々までこの聖書を広めさせたのです。そして、この聖書の毒麦をかき分けて宝を見出す者たち、「道」を見出し、その道を歩む者を求めておられます。

と主張している。こちらの方は根拠を示していない。
そういう場合はどうしても独断の匂いがしてしまい、
ついていけない人も多いだろう。
おそらく神様からの啓示・予言があると思っているので説明の必要はないと思っているのだろう。

わたしも新約聖書には誤謬は少なくないと思うのだが
論理以外にその根拠がみいだせないのだ。
聖書は論理も否定しているようにも見えるので
お手上げだ。
いったい、なににたよったら良いのやら
求めるも答えがない。