優しさがいちばん -25ページ目

哲学のおろかさ

ひとは論理というものにたいしていくつかの立場がある。
論理は物事を考えるうえでもっとも重要で科学の根幹をなす。
しかし人間というものは感情の動物であるから論理は心の下位にある。
聖書によれば人間というものは霊であるから聖霊が最上位にある。

論理が重要であるが論理がすべてではない。
というのはどのような論理も前提(公理)が必要でそれから順番に定理にあたるものを
構築していく。
素粒子の理論では問題提起にたいして理論ががそれぞれ固有の大前提を考えて
現象を説明する論理を作っている。
だからほとんどの理論は現実にあわず捨てられていく。
現実の実証が理論の成否を決めている。
いくら精緻な論理や数学を展開してもほとんどは無駄になってしまう。

哲学はもっとひどく、大前提をつくり、数学なしで論理を展開して
身勝手な結論を導く。

筒井康隆が”モナドの領域”という本を出版して
”最高傑作にして、おそらくは最後の長篇
”
と自画自賛をしている。
この思い上がった作家が最高傑作といっている
根拠は彼が過去の代表的な哲学者の主張をひろいあげて
主人公がそれらのすべてを踏まえた神の上の存在と
主張しているところである。

哲学などは本来いいかげんなものなのだ。

神の国と神の義とは

神の子になる力を得るには神の国と神の義をもとめる必要がある。
それでは神の国と神の義とはなにかということを正しくしる必要がある。
それは聖書を詳しく勉強する必要がある十分時間をかけて
いかなければならない。

その一つの方法は国際クリスチャンセンターの
わたしの洗礼を受けた
故東牧師の全8巻のテープを学ぶのもひとつの方法かもしれない。

このブログでは自分での理解をしっかりと積んでいくために
新約聖書のイエスの言葉を手掛かりにしていく自分独自の方法を
とっていこうと思う。そのまえに次回はヨハネの14章を読んでいこうと思う。
 義

神の国と神の義(全8回)

ヨハネ1:12 神の子供になる特権

ヨハネ1:12
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

この節は微妙だ。
多くのクリスチャンはイエスを受け入れている。すくなくとも最初は。
それなのに神の子どころかサタンに縛られている人々の多さ。
この節だけの解読では無理なのかもしれない。
一章全体を見直す必要があるかもしれない。

新しくされる

コリントII 5:17

「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

キリストのうちにあるなら
が問題となるところだ。
多くのクリスチャンが新しく作られたものでないと感じられるのは
キリストのうちにないのかもしれない。

ヨハネ一章 神の子になる力

ヨハネ一章は創世記とイエスの意味について語っている。
洗礼者のヨハネの役割を説明するまえに11-14において
  • 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
  • しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
  • それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
  • そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
    とある。         

  • 12節はイエスを受け入れたものは神の子になったのではなく
    神の子になることのできる力を与えたとある。
    だからその力を正しく行使しないと神の子になれないのだろう。
    クリスチャンが神の子になるためにはもう一段階必要なのだろう。
    だからクリスチャンの多くが罪をひきずっていて
    ”私を罪から救ってください”などと祈らざるを得ないのかもしれない。

    あすのことをおもいわずらうな そして神の国と義を求めなさい

    イエスの言葉:
    あすのことを思いわずらうな。
    それは
    まず神の国と義を求めなさい
    とセットになっている。

    マタイ6:25-34
    それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらう な。命は食べ物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、 あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれたものではないか。あなたがたのうち、誰が思いわずらったからと て、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働き もせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょう生えていて、 あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上良くして下さらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い 者たちよ。だから、何を食べようか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの 天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて 添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分で ある。」


    健康な体と心

    健康な体とこころを保つためには
    健康は食べ物を。

    これまでケーキ類は人気がありまたおいしいものの
    小麦粉、砂糖、牛乳、安い卵等々
    不健康な材料のイメージしかなかった。

    有機材料は高く新鮮でないもののそれなりの心使いがないではなかった。

    しかし有機のケーキというものは聞かないし、
    砂糖のないケーキもない。
    また小麦のグルテンも心配の種ではなった。

    そういう不健康な在朝をつかわないケーキが現れた。

    ロースイーツと呼ばれるものである。

    ロースイーツとは、ローフードで望ましいとされる材料と製法で作られたお菓子の総称です。

    ロースイーツと呼ばれるものには、ローケーキ、ローアイスクリーム、ロークッキー、ローチョコレートなどがありますが、通常のケーキ、アイスクリーム、クッキー、チョコレートとは異なり、小麦、砂糖、卵、乳製品を一切使わず、48℃以上の加熱をしないのが特徴です。

    それでいて、見た目や味は通常のスイーツと全く同じということで、ロースイーツは、ローフードを実践者のみならず、ベジタリアン、アレルギーを持つ人、ダイエット中の人から注目を集めています。

    ロースイーツのレシピは人によって、また作るものによって様々ですが、一般的には、小麦の代わりにアーモンドなどの生のナッツ類や穀類、シード類を挽いたもの、生クリームの代わりに生カシューナッツをペースト状にしたもの、砂糖の代わりにアガベネクターやメープルシロップ、デーツなどが用いられています。

    風味づけにはローカカオやバニラエクストラクトなどが使われます。生のフルーツやドライフルーツが使われる点は、通常のスイーツと同様です。

    クッキーなど、サクッとした食感を持つものを作る時には、ディハイドレーターを使って約40℃で水分を飛ばします。


    一部を転載:


    秋葉原日比谷線駅口

    先日比谷線駅口にホームレスと思しき男性が座っていた。その左足は異様に膨れ上がっていた。私を含め立ち止まって慰みを声をかけるようなひとはだれもいなかった。

    イエスキリストなら声をかけ癒しをその場で行ったに違いない。
    イエス様は彼を信じるものは彼と同じことができるしそのようにしなさいと
    命じている。

    今日、聖職者またはイエスの言葉を信じ、いわれたとおりの
    行動をおこなうクリスチャンはいるだろうか?

    いないとしたらクリスチャンと自らを規定するひとたちの
    信仰はいったいどんなものだろうか?

    すでに受けたと信じる信仰

    祈ってその結果がでたという判断は一般的にはまことにむつかしい。
    祈ってもその答えがでているとは物理的な現象からら考えられないからだ。
    この病をおとりのじいてくださいと祈っても
    感覚として、客感的にも、治ったとはおもえない。
    だからひとはそれが、なおっていないことが神の御心と考えてしまう。
    それを聖書ではどういっているか:
    マルコ11:22-24
    イエスは答えて言われた。
    「神を信じなさい。
    まことに、あなたがたに告げます。
    だれでも、この山に向かって、『動いて海に入れ』と言って、心の中で信じて疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、その通りになります。
    だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

    24節をもう一度。
    「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

    この聖句が端的に「すでに受けたと信じる」信仰の原則を示しています。何かを神に求めるとき、「これをください」と神に願うだけでなく、「あなたはこれをくださいました」とすでに受け取ったことを信じるようにとこの聖句は言っています。しかも、信じなさいという指示だけではありません。すでに受けたと信じるなら、「そのとおりになります」と約束も伴っています。




    癒しを考えるサイト

    祈りによる病気の癒しは結構大事な問題だ。というのは病気が癒されたどうかは
    はっきりと物理的に検証可能なのでこころの祈りがかなったのかどうかのばあいは不明瞭だったことが白黒ついてしまうからだ。
    祈りがかなえば一層信仰が強くなる。
    ところが祈りが叶わなくてもどんな結果になっても
    すべては神の御心だと考えてしまうクリスチャンもすくなくない
    それもおおきなテーマだが別途テーマをたてて考えていこう。
    (すべては神のみこころ)
    さて
    病気の癒しを考えるサイトはここだ。
    このサイトの作成者はケネスヘーゲン派からの考えをもとにしているといっているが国際クリスチャンセンターの故東牧師と同じなので私にも同意でき
    参考になるところがおおい。

    一部引用する:

    はじめに

    このサイトでは、からだの癒しをテーマに聖書からの学びができます。からだの癒しとは、病気や怪我から回復することです。

    からだの癒しは、ちょっと風変わりな聖書研究のテーマかもしれません。

    聖書の中心的なメッセージは、罪の赦しや永遠のいのちです。これは目に見えない領域での事柄です。それに対してからだの癒しは目に見える領域で起こることですから、聖書の中心的なメッセージではありません。

    実際に、聖書では、目に見えるものよりも、目に見えないもののほうが大切で、見えないものに目をとめるように言われています。

    「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(第二コリント5:18)

    ですから、キリスト教の教派によっては、癒しは「起こり得るが重要視はしない」という扱いになっているところもあります。

    とはいえ、病気や怪我は、当事者にとっては無視できない大問題です。 

    そして、中心的メッセージではないにしても、聖書の中にはからだの癒しについて語られている箇所が多くあることも事実です。

    もしあなたが深刻な病気を患っていて、その病気の取り扱いについて聖書に答えを求めようとしておられれば、このサイトの情報が役に立ちます。あなたの家族や友人が病気の場合にも参考になるでしょう。

    このサイトの学びを通じてあなたに知っていただきたいことはただ一つです。

    「あなたが癒されることは神のみこころです。」

    言い換えると、あなたが病気や怪我から癒されて、健康なからだになることを神は願っておられるということです。

    さて、どうしてこのことを知っていただきたいのか、理由を少し書きます。

    第一に、あなたがからだの癒しを神から受け取るためには、それが神のみこころにかなっていることを知る必要があるからです。

    一般的に言って、神のみこころを知って、それが成ると信じるようになれば、心のなかに「志」が与えられます。その「志」が行動を促し、神のみこころが成されます。

    癒しに関して言えば、癒しが神のみこころだと知れば、癒しを受け取る「志」が心のなかに生まれて、癒しを受け取るための行動をするようになります。

    「志」と「神のみこころ」の関係について、次の聖句があります。
    「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2:13)

    志を立てさせるのは、神です。神のことばを深く知っていくと、神はあなたの心のなかに働きかけて、癒されようとする志を立てさせられます。

    そのために、聖書を調べて癒しが神のみこころにかなっていることをあなたに知っていただきたいのです。

    第二に、あなたがあなた自身の信仰を使って癒しを受け取れるようになるためです。

    癒されることが神のみこころだと知るようになれば、あなたは自分で癒しを受け取ることができます。

    癒しは神のことばの知識や信仰の成長に応じて現れてくるものです。ですから、聖書のことばを知ってそれを信じるようになれば、たとえ癒しの賜物を持つ人に祈ってもらわなくても、神とあなたとの関係のなかで癒しが顕著に現れるようになります。

    誤解のないように書いておきますが、自分の心が弱っている時に、他の人の祈りに助けを求めるのは悪いことではありません。

    しかし、いつも他の人が祈ってくれる状況にあるとは限りません。また、癒しを信じる信仰を持った人が身近にいるとも限りません。

    そこで、他の人は近くにいなくても、聖書はいつでもあなた側に置くことができます。また、あなたの信仰は、あなたがイエスさまを受け入れた時から、あなたの霊のなかに与えられています。 
    既に神から与えられている恵みを活用して、自分自身で癒しを受け取ることができれば、もう他の人の信仰に依存する必要はなくなります。

    第三に、癒しに関する多くの誤解を解くためです。

    神のことばについての誤った認識は、神の力が私たちのなかに流れてくるのを妨げます。

    このことについては、たとえば「私たちは信仰によって救われる」という信仰義認の教理について考えれば分かります。

    聖書によれば、救いは信仰によります。

    「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9-10)

    この聖句は永遠のいのちにあずかるために、私たちが何をすればいいかを教えています。信仰によって、義と認められ、永遠のいのちにあずかることができます。

    ところが、もしも「信仰だけでは人は救われない。信仰なんかいらない。良い行いによって救われるのだ」とかたくなに主張する人がいたらどうなるでしょうか。

    その人は、神のことばについて誤った認識を持っていることになります。その誤った認識のゆえに、その人のなかには救いという神の力が流れてきません。 
    このように、一番大切な永遠のいのちに関する事柄でも、誤解のせいで神の素晴らしい恵みを味わえないことがあり得ます。

    からだの癒しについても同じことが言えます。誤った認識を持っているために、健康という祝福を受け取り損ねるのは残念なことです。

    クリスチャンは、癒しについて聖書が語っていることを正しく理解することによって、永遠のいのちだけでなく、地上での健康という神の祝福をもいただけます。あなたがますます神を喜べるようになることを祈ります。


    さて、前置きは以上になります。
    それでは学びを始めていきましょう!

    なお、私が癒しについて学んだ知識は、アメリカの説教者ケネス・ヘーゲンによるところが大きいです。もっと本格的に学びたい方は、ケネス・ヘーゲンの著作を読まれることをお勧めします。また、聖句は新改訳聖書から引用しています。

       サイト作成者 @muratori_d