哲学総論 つれづれ 番外編 表象と対象 その中間 | コリンヤーガーの哲学の別荘

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30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

 この記事はあまりにも多くのフィールドに内容が及ぶので論理構成がゆらいで安定しない。字数も足りなく本来は一つ一つの論考にもっと説明を必要とする内容です。

 この原稿は3月に書いていたものを少し修正しています。 jまず、前々から採り上げたかった「色」について思うことを書きます。

 

1.  色とは何か?

 

 認識が対象の正しい姿を捉えているか、という問いの意味はなかなか奥が深い。

 

引用

 

 色の認識には、光源、物体、視覚の三要素が必要である。

 色と光に何らかの関係があることは古くから知られており、アリストテレスは「色は光と闇、白と黒の間から生じる」と述べている。しかし、色の本質が明らかになるのは20世紀になってからである。現代科学では色は目の前にあるというより色彩の認識として存在すると考えられている。

 色覚は、目を受容器とする感覚である視覚の機能のひとつであり、色刺激に由来する知覚である色知覚を司る。色知覚は、質量や体積のような機械的な物理量ではなく、音の大きさのような心理物理量である。

Wikipedia 「色」より

 

 色の認識には、①光源、②物体、③視覚の三要素が必要である。

 

 ① 人間が「色を認識するためには」光源すなわち物質ではない「光」の作用が必要であり、光は一見無色透明だが、スペクトル解析により「あらゆる色」が含まれる。人間は普段の日常ではこの光の中の「色」を直接見ることはできない。(虹は例外のひとつ)プリズムを通して分解された光線を見ることはできるのだが。

 

 ② 人間にとってある物体が「色を持つ」とは当然のように意識されるが、物体そのものに色が性格付けられているとは必ずしも限らない。「ある物体が『赤』である」という判断は、本質としてその物体が『赤』であることを証明していない。

 

「引用}

 

 脊椎動物には、色覚を持つものが多いが、色覚が弱いものや、全く持たないものも少なくない。脊椎動物の色覚は、網膜の中にどのタイプの錐体細胞を持つかによって決まる。魚類、両生類、爬虫類、鳥類には4タイプの錐体細胞を持つものが多い(4色型色覚)。よってこれらの生物は長波長域から短波長域である近紫外線までの色を認識できるものと考えられている。

哺乳類
2億2500万年前に最古の哺乳類のアデロバシレウスが出現した。哺乳類の多くは2色型色覚か、色覚を持たない(実は色覚を持っているがその感度が低い)というものも多い。哺乳類の祖先である古代の爬虫類は4色型であったが、中生代の哺乳類は夜や暗い所で活動することが主であったため、わずかな光でも見えるよう桿体細胞が発達し、その代わりに2色型色覚になったり、色覚そのものを失ったとされる。従来、偶蹄目(ウシ、イノシシなど)は色盲とされていたが、現在では2色型色覚を持つことが判明している。もっとも、2色型なので赤から緑にかけての色を見分けるのは難しいようである。また、食肉目(ネコ、イヌなど)も同様に色覚を持つことが近年分かったが、その感度が弱いためにあまり利用されてはいないと考えられている。
 
Wikipedia 「色」より

 

 動物の種類によって視力に違いがあり、人間が見ている「色」が、他の動物には違って見えていることがある。であるから人間が見ている「色」が、対象の色という性質を「正しく」人間の脳に伝えているという事を証明することは容易ではない。

 

 一昔前、盲導犬の訓練から、「犬の目は白黒でしか見えないから色を識別できず、信号の位置で赤と青を識別している」といわれたが、これは誤りで、犬は「色弱」であるが、色を識別できるらしい。むしろ盲導犬は、周囲の人間の行動に気を払っていて、それによって視覚障害者に横断歩道を誘導するらしい。

 

 ③よって「色」の認識には視覚の能力という要素があって、「光源」「物体」「視覚」という三つの要素の複合である色を感覚する能力の差は、それぞの動物の生存に必要な範囲でそれぞれの生態に反映されている、というべきであろう。

 

 ここで確認しておくことは、「色」は実体として対象(単一物体)にのみ所属するのではなく、光源と物体色と感覚の複合作用で、われわれに見えているなんらかの事実であるが、視覚は事実を必ずしもありのままに再現してくれない。この視覚の限界に加えて、同じ色でも、晴れた日には本来の色より明度が上がり、薄く見えたり、光って見えたりする。これは視覚の問題だけでなく自然の織り成す作用でもある。

 だからわたしたちの知覚が、対象を「正確」に反映していないのは明らかである。

 

 

 

 

  ベーコン、ロックに始まりヒュームにいたって、人間の表象と対象との「不一致」への懐疑論をなすイギリス経験論は、科学の進歩を背景とした「人間の認識能力」への反省の哲学である。しかし感覚器かに対する「不信」はもっと以前から提起されていた・

 

 少なくとも「色」が物体に固有の感覚ではなく、光と物体の複合であることに古代の哲学者は気づいていた。

 

 「引用」

 

 しかし、見られうるものすべてが光のなかで見られるうるというわけではなく、それぞれの事物の固有の色だけがそうなのである。事実光のなかでは見られないのに闇のなかでは感覚知覚を生み出すものがいくつかある。たとえば火のように明るく輝いて現れるものがそうであり(ただしこれらを包括する一つの名称は存在しない)、例をあげれば、菌類、角、魚の頭や鱗や眼であるだが、これらのどれについてもその固有の色が見られるわけではない。ただしこれらのものが見られる原因については、別の議論が必要である。またこのことが、光が存在しない状況では、それらが見られないことの理由でもある。というのは、色にとってまさに色であること(色の本質)は、すでに確認されたように、(9) まさにこの「活動実現状態にある透明なものを変化させうるものである」ということだからである。そしてその透明なものの終極実現状態とは光にほかならない。すなわち、もし人が色をもつものを視覚器官自体の上に直接置いたならば、それらを見られることはないだろう。むしろ色が透明なもの(たとえば空気)を変化させ、他方空気は連続しているので、これによって感覚器官は変化させられるのである。

 

アリストテレス 著   中畑 正志 訳 『魂について』

 アリストテレス『全集』 第7巻 岩波書店 97~98頁

 

 しかし、見られうるものすべてが光のなかで見られるうるというわけではなく、それぞれの事物の固有の色だけがそうなのである。事実光のなかでは見られないのに闇のなかでは感覚知覚を生み出すものがいくつかある。たとえば火のように(光のない闇の状態に置かれることによって初めてオレンジ色の)明るく輝いて現れるもの(火は光の中では透明に近い傾向にあるが、それは火は光を放つ性質から、赤るい光と色を打ち消しあう傾向にあるからであろう)のがそうであり(ただしこれらを包括する一つの名称(闇でこそ色をはっきりさせるものを表現するものの総称)は存在しない)、例をあげれば、菌類、角、魚の頭や鱗や眼であるだが、これらのどれについてもその固有の色が見られるわけではない(この例えは少しわかりにくい。総じて光るものとか、色を判定しにくいものとして「まだら」であるとかいう事実を指すものと思われる。) ただしこれらのものが見られる原因については、別の議論が必要である。またこのことが、光が存在しない状況では、それらが見られないことの理由でもある。(光るものもまた僅かな光のもとに「光る」と認識されるから、その物のもつ色が光を媒介にしていることによって見られるのであり、空気中に含まれる光の量の少なさを、光るものは自らに集中して際立たせるとによって色を「光沢」として人間に認識させる)というのは、色にとってまさに色であること(色の本質)は、すでに確認されたように、(9) まさにこの「活動実現状態(旧全集まで「エンテレケイア=εντελέχιαと表現されていたギリシア語のこの「新全集」の訳には、単語の複合的性格が一名詞に込められている前提を理解していないとかえって分りにくい。いわば漢語的な造語と解するべきである。ちなみにアリストテレスの文章は、代名詞の多用が特徴で、「これ」「それ」「そのこと」が前段文の何を示すかの解釈で意味が変わってしまう。このことのにいてはいずれの機会に述べたい。)にある透明なものを変化させうるものである」ということだからである。そしてその透明なものの終極実現状態とは光にほかならない。(暗闇においても「空気」は存在しているが、この空気が常に光を跳ね返して放射し、特定の物体にいたることによって物体の色を明らかにするのであり、まさに空気の終極は物体にぶつかることで醸し出す物体の性質の補助である。すなわち、もし人が色をもつもを視覚器官自体の上に直接置いたならば、すなわち人が視覚という感覚器官を空気を媒介とせず直接物体を見たならば)すなわち、もし人が色をもつものを視覚器官自体の上に直接置いたならば、それらを見られることはないだろう。むしろ色が透明なもの(たとえば空気)を変化させ、他方空気は連続しているので、これによって感覚器官は変化させられるのである。

 

「赤字」はわたしの補筆

 

 アリストテレスの議論は、多少混乱しているが、簡単に言えば、「物体と目」の間に存在する媒介項たる「空気」に含まれる「光」なしに、わたしたちの視覚という器官は作用しないという事を指摘している。ゆえに媒介しているものの存在としての「光」を認めなければならないという事である。

 

 今日の科学からすれば、アリストテレスの議論は不完全かつ不十分だ。プリズムによる光の分解を理解していないアリストテレスは、透明と思われる空気の空間を、透明で持って通過する「光」が、物体の色を規定することを創造的に理解していた。だがこれは確証がある判断ではなかった。

 

 ちなみに、建築を生業とするわたしに、天空放射という用語が仕事で出てくるが、たとえば美術などの製作を行う部屋は、北側の採光が好まれる。太陽の直射日光は、白い色を誇張過ぎるので、空気中の粒子に反射された間接の太陽光が望まれるのであり、光と色の関係に「空気」を持ち込むアリストテレスの「中間にあるもの」という発想は卓見である。

 

 アリストテレスが優れているのは、「見るもの」と「見られるもの」の区別である。この中間の空気を通る光が「補色」の関係とか、同系色同士のラインカラーが濃厚な色を引き立たせるとか、はたまた人間の視力には色」への「補正」能力があるとか(暗闇に入った瞬間視界が利かなくなるのに、慣れて見えるようになるのもこの「補正」による)、「感覚器官」と「対象」との間に空間があり、その空間は何もないのではなく、そこに介在するものが対象を浮き立たせる。この点、対象に変化がないのにわたしたちの表象が感覚器官の働きによって変化するということは、アリストテレスは対象の実在を認めているということになる。

 

 アリストテレスは、続いて「音」に関する場合や、「臭い」に関する事項についても、発するものと感覚の間の「中間項」の存在を明らかにする。音は物体の衝突により発せられるが、たとえば打楽器であれば「敲く」、弦楽器であれば「擦る」ないしは「弾く」、管楽器であれば「吹く」であるが、音を奏でる奏者たる「吹く」ものの行為は、息を出すだけである。しかしある特定の設計で組み立てられた楽器は「息」によって振動し、その振動が周辺の空気に伝わり、周辺の空気の振動を聞くものが感覚で捕らえる。よって感覚は対象に直接的に感じるのではない。世界の物理形式に対して、感覚はそれを中間項たる形式を媒介することによって伝達される「精神」を捉える。

 

 わたしたちは、日常においては、この対象と自我と中間項の関係を省みない。「魂」という抽象的なテーマに対して、いかに冷静な哲学的態度を保持して思考しているか、この点についてわたしたちは古代の哲学者の偉大な側面を見て取らねばなりません。彼らの科学的な限界をもっていても彼らの思考が輝きを失うことはないのです。

 

 ただ、現代科学の手法を用いるかどうかということを超えて、今日もわたしたちは対象を理解することにおいて、なおもって到達できない世界がある。

 

 色をみごとに使い切る絵画の世界においても、たとえばフェルメールの『真珠の首飾りの少女』の黒い瞳の一転に描かれた小さな「白」の点が、光を一点に反射する「視線」としてありながら、彼女が見ているカラフルな世界の「白」以外の色を吸収して、この「白=輝き」に彼女の生命力が示される。そしてこの絵画のテーマたる「真珠の宝石の輝き」にも、少女の眼(まなこ)と同じ輝く「白」を添えるのである。

 この「白」の点こそ実に「光」の凝縮であるが、「光」を直接描けない絵画は、観るものの視覚の感覚的な錯覚を利用している。「白」がすべての色を吸収するただ唯一の「透明」の輝たることを人間が体験理解するには、創作を媒介とするほかなかったのである。

 

 

Johannes Vermeer (1632-1675) - The Girl With The Pearl Earring (1665).jpg

 

フェルメール 『真珠の首飾りの少女』

 

 ところで、色が無限に混ぜ合わせることによる現実表現という絵画の世界は、絵の具や色鉛筆12色セットの中間色がくすむことを知っていて、それが゛人間に心地よい感想を抱かせないことを百も承知でふんだんに色を混ぜる。これは感性が周辺の色の不調和を「補正」する能力があったことを示すのであろう。ここは一見絵画の手法が無限に色を活用するのに、音楽は音を12音に限定していると思われがちだが、話はそう簡単ではない。

 

2.音

 

 なぜか音楽もまた、形式としては12音(絵の具の12色と同じ)の世界である。

 

 1オクターブつまりの音程差は実は割り切れない。よって平均律をもって人間は音楽理論を「補正」してきた。しかしピアノ88鍵盤の中央の最初の「ド」130.813Hzと「レ」146.832Hzの間に無限に存在する音の高さはどこから初めてもよい。要するにこれは国際基準であって、問題は一定の数式で高くなる音程の飛躍に登場する音階の2つの音が何らかの方法で同時に発する時に「共鳴」の関係を結ぶことである。これを組み立てて行くと「心地よい」音楽が現れるのである。その「共鳴」を媒介しているのが「空気」である。

 

  (ド・C4・c')の上の1点イ音(ラ・A4・a')は、1939年にロンドンで行われた国際会議で440 Hzとされた。

 

 どの音の高さを基準とするかは人間同士の取り決めであり、後付けなのである。

 

 ところが、音楽の「心地よさ」とは一方で、「神秘」の世界で、万人がそれを「心地よい」と思うことの本当の理由を探すと、わたしも説明できない。

 

 おそらく、ピュタラスが長さの違う弦の「震え」を見たときに発見した「音階」が発見された時に初めて音階が登場したわけでなく、それ以前から共鳴は人間の感覚で「心地よい」感覚されていて、現代と同じような音階で勝手に歌詞を使って歌っていたのは間違いない。それはピュタゴラス以前の古代ペルシアの楽器が「合奏」を前提にした複数の古代楽器を残していることからも、推測される。

 よって、空気が振動する時に、その発生源の音が「共鳴」する前提が自然界にあって、それを人間は何万年もかけて「自然」から聞き取って、音を発生させる「楽器」を作る際にその共鳴に「心地よい」とする自分たちの「感覚」を信じたのであろう。

 ピュタゴラスの弦による実験とは、感覚よりも思考の到達点で、一種の「科学的実験」である。 

  

 もうひとつ、音楽に深みを与える要素がある。それは「倍音」である。

 

 「倍音」とは、一定の周波数の1倍を「基音」として「2」以上の整数をもつ音の周波数を意味する。

 

 では、倍音の芸術上の意味は何だろうか?

 

 字数が限られてきたから 、多少飛ばし気味に書くが「倍音」についてはまたいずれの機会に述べたい。

 

 ピアノ弦を張った蓋をオープンにして耳を澄まし、ピアノで左手の「ド」すなわち130.813Hzを弾くと、非常に僅かではあるが、下記の倍音列の音が含まれるのが聞き取れる。しかも高い音ほどその割合は少なくなり聞こえにくくなる。

 

倍音の音の列

 

 これはじっさいに「ド」の弦にその音の発生源があるというよりも、その上の音(弦)も僅かに振動して共鳴していると考えたほうが分りやすい。(実際はそれだけではない。) つまりひとつの音は純粋ではなく、空気を介在して周辺を「共鳴」させる性質がある。

 

 さて、楽器により音色が違うことについては、この「倍音」と楽器本体の「素材」にある。それぞれ楽器もまた倍音表のような、上の音を僅かに発するのだが、たとえばヴァイオリンの弦は限られていて、「共鳴」する弦は張られていない。ではなぜ「倍音」が発生するかというとそれは楽器本体(弓と弦同様)の素材もまた自然の加工品であり、その本体が、弦の代わりに微妙な「倍音」を持って振動するからである。

 

 たとえば、クラリネットの管体の素材は、グランディラというアフリカ産の樹木である。クラリネットは後発の楽器で、バロックではほとんど登場しない。クラリネットが普及した初期に重なるモーツァルトはこの新興の楽器の「柔らかさ」が好きで、クラリネットの名曲を残している。

 ところで、クラリネットはB管、Es管で造られる。どういう事かというと、たとえば、B管のクラリネットでハ長調の楽譜にしたがって奏でると、それは自動的にピアノの変ロ長調(ドイツ音階のBの音から始まる長調)になる。だから、ハ長調のクラリネットの作品をピアノで伴奏する場合はピアノ譜は変ロ長調で書かれなければ合わないのである。

 多くの楽器がハ調(C)楽器である。ピアノ、フルート、オーボエ、ファゴット、ヴァイオリンを筆頭とする弦セクションはほとんどハ調楽器である。

 しかしクラリネットをハ調(C管もあるが)で造ると、音が「硬く」なってしまう。これはグランディラという素材の持つ特性で、奏者の息による一枚リート(オーボエは2枚リート)の振るえに反応する素材の倍音の比率の違いといえる。

 金管楽器は多くの場合、B管 Es管 F管があって、ホルンやサクソフォーンも同じである。金属の持つ響きの特性ともいうべきか、よく分らないが、そうしないと美しく共鳴しない。

 

 楽器によって音色が異なるのは、この倍音の登場の音量の比率が楽器によって異なるから(それだけではないと思うが)であり、それは音色に関係ない純粋な倍音比率以外に、楽器の素材が持つ独自の振動がもたらすと考えられる。

 

 わたしは少年時代にフルートを習ったが、先生に「そこは倍音を利かせて」という事をいわれたことがあった。理屈は分らなかったが、手首をほんの少し回して、自分の「息」が出てくる上下の唇の穴の角度を微妙に変えると明らかに音色が変わる。手首を体の前側に倒すと「歌口」(フルートの音が出る最左端の音が出る穴のこと)に対して、より深い角度で息かあたる。すると「音色」が変わる。どちらかというと「深身」「厚み」が増す。一般の人には分らない程度だが、音程はほんの少し低くなる。(これは実は悪い癖で現在の先生に怒りられている。)

 

 各楽器にはこうした奏法の微妙な調整があって、しかも妥協の産物たる平均律は「濁って」いる。合奏ともなれば、12音の音階の原則をはみ出した異種の音程(倍音)が微妙に含まれ、複雑に合成されるのである。

 

 よって音楽理論は、楽譜の記載上の都合により、音階を12音に限定するが、実際に演奏されている音楽は12音に限定されない。そこをはみ出したところに成立している。このことを理屈で分らなくても、同じ音でも「悲しげ」であったり「躍動的」であったりという感情を表現することが可能で、それは理屈ではない。奏者がその技術を獲得するためには「体験の積み重ね」(練習)しかないわけである。

 

 オーケストラの演奏ともなると12音「平均律」に含まれない無数の周波数の音が微妙に含まれている。はみ出した「倍音」と別の「倍音」がさらに新しい「倍音」を誘発して無数の音の共鳴が実現する。同じ作品、同じ作曲家、同じ指揮者、同じオーケストラ、同じ楽譜でもひとつとして同一の演奏はなく、よって聴いているものもの「感動」のレベルもまた異なってくる。

 

 余談だが、年少期の音楽教育は、断然ピアノをお勧めする。88鍵盤の繰り出す和音に親しむことが大事なのだ。そこに「共鳴」の奥深さを経験することが大切である。

 

 電子楽器によるオーケストラというのは、平均律と各楽器の「倍音」含有率をコンピューターに計算させるようプログラムされていて、そこに奏者の音の発生奏法の微妙な変化は反映されない。息を使う管楽器には、音に加えるスタッカートのための独特の舌使いがあったり、弦楽器であれば弓の使い方に変化があり、それが様々な音響の音源になる。すべてを電子楽器の鍵盤を押す指に代わりをさせることはできない。よって電子オーケストラは「オーケストラに似ているが」違うものである。そのことはすぐ聴きることができる。ここが科学(人間思考)の限界で、芸術はそれを超越したところに成立している。つまり「精神」的な世界である。

 

  ロックやヒュームの人間の感覚不信にもとづく「経験論」の限界は、「表象」という「脳内」作用の感覚機能の出生が自然にあることを理解できていなかったことにある。厳密には彼らも自然を天地創造した「神」を信仰していたのであり、同じ素材のものを敲いてまったく別のの音がする「気圧」や「引力」の惑星が存在するかもしれない、などということを思い立ったことはほとんどななかったに違いない。

 

 ただし、空気がそのように、美術製作や音楽創作に「光」」や「振動」に関係し、思考の理解を超える神=芸術の調和としての感性で捕らえることを実現している。

 

 とすれば、わたしたちをして、そのような「心地よい」芸術を可能としてくれた地球の「環境」に感謝せねばならない。

 

 「真珠の首かかざり」の少女のあの瞳の崇高さは、実は神がくれた「地球」の豊かさと、そこに育まれた「種」の到達したその豊かさを直観で捕らえるわたしたちの「五感」と、その五感が捕らえている対象に(そこに解くことのできない位相があるとしてもその対象に)命を吹き込もうとするわたしたち自身の「技」との「予定調和」の賜物である。

 

 この不思議な「一致」を解くことはわたしたちにはできないであろう。、

 

 ひとまず筆をおく。また述べます。