結論から行って、この食い違いは、ヘーゲルの論理学が「存在論」としての性格が強く、論理学は「思考」の従う形式であるという側面からも、単に「在る」が「量」をともなうときに「物質の占めるある空間」という限定を示す空間を指す。ところがヘーゲルの自然哲学は、対象一般の検討の前の宇宙の形式としての「時間」と「空間」を問題にする。このときは、物質以前の「ある」ではない普遍的空間の「連続量」にのみ着目するのである。
「宇宙空間」というときは、空間が空虚で、そこに部分としてある「諸物質」が占める「個々の空間」とは全く関係しない「無限空間」を指し示している。(ただし現宇宙は限界を持つらしいが?)
最初にお断わりしておきますが、量におけるヘーゲルの『論理学』と『自然哲学』を説明するのは「次回」になります。ただし「今回」はその前提になります。
余談
私のブログでも、「今回」はかなり難解だと思いますので「図解」を加えています。図解後の後半の「ヘーゲル『論理学』の真骨頂」のところが理解していただければ、少しはヘーゲルの面白さが感じられるのではないでしょうか。
引用
量は、まずもって直接に自己と関係し、牽引力によって自己同一性を保っているとき、「連続量」である。が、量のうちにふくまれる「一」という規定からすかると、「非連続量」である。連続量は、多くのものの連続にすぎないのだから、その点非連続である。非連続量は、多くの一が同じものとして統一され、一まとまりをなす点で、連続している。
《注解》 1.連続量と非連続量を、連続量は非連続ではなく、非連続量は連続でない、という意味での二種類の量と見てはならない。両者のちがいは、同じ全体がある場合には連続の規定のもとに、別の場合には非連続の規定のもとにおかれる。というちがいにすぎない。
2.空間や時間や物質が無限に分割できるのか、それとも分割不可能な分子からなるのか、といった二律背反(アンチノミー)は、量を連続量ととるか非連続量ととるか対立以外のなにものでもない。連続量の規定のみでとらえれば、空間や時間は無限に分割できるものとなり、非連続量の規定のもとにとらえれば、もともと分割されていて、分割不可能な一からなるものとなる。どちらも一面的なとらえかたである。
[口頭説明] 「そこにあるもの」注2のあとにつづいて出てきた量は(この文脈の主語)、「そこにあるもの」の運動の二側面たる反発と牽引を理念的要素として内にふくみ、したがって連続的であるし、非連続でもある。(述語で、SVC構文である) 注1この二つの要素はどちらも相手をふくむから、たんなる連続量も、非連続量も存在しません。この二つが、たがいに対立する別々の種類の大きさだと考えられるとしたら、それはわたしたちが抽象的に反省しているから起こることで、特定の大きさを考える際に、量の概念のうちに不可分に統一されている二要素のどちらか一方を、視野に入れていないのです。
そこで、たとえばこの部屋の占める空間は連続量だとか、そこに集まった百人の人間は非連続量をなす、といったいいかた出てくる。が、空間は連続量であると同時に非連続的であって、だからこそ空間点といったり、一定の長さの空間を何フィートや何インチに分割できるので、いずれも、空間がもともと非連続であるということを前提としなければ不可能なことです。その一方で百人の人間からなる非連続は、同時に連続であって、百人に共通の人間という類が、すべての個人をつらぬき、すべての個人をたがいに結びつけ、それを基礎にして量の連続性が成り立っています。
『論理学』 ヘーゲル著 長谷川 宏 訳
作品者 232~233頁
この、§100 の緑字(後に示す図に関係する)にしてある部分のうち、下線部、注1は英語的構文判断だが。英文にすると、
A quantity is sequential or nonsequential. ①
sequential という形容詞はちょっとしっくり来ないが、ここでは主語「量」は具体的ではないから、「量一般」を示す不定冠詞 a が欠かせない。
寄り道
ただし、ここでのヘーゲルの議論は揺らいでいて、この、注1の前の記述、注2の「そこにあるもの」という「質」の弁証法から導かれた「量」概念であるがゆえに、「そこに」という副詞が問題になる。これは限定であるから。英文①
The quantity is sequential or nonsequential here. ②
あるいは、 副詞 here を 指示形容詞 this に展開して。
This quantity is sequential or nonsequential. ③
であって、ここでは「量一般」ではなくて。「そこに」あるという「質」を止揚して生成した概念であるからです。この問題をあえて挿入したのは、ここに『論理学』と『自然哲学』における「空間」規定の食い違いの秘密があると考えるからです。
寄り道終わり
つまりヘーゲルは「量一般」を「連続量」でもあり「非連続量」でもあると述べ、すなわちヘーゲル的に語るならば、量は自分のうちに(相互に、連続量と非連続量という)否定体を抱えた存在だと言っているのです。
下の図1.の場合「ある空間の集合」として百人の人間という連続量を図化したとき連続量は、均質の赤として表現され、集合個々は人間に限定されている。よって「ある」空間の集合という「ある」、すなわち純粋存在ではないが、「あるなにか」としか言えない存在の集合体である。英語でいう、something、である。
そして不特定多数代名詞が分割可能な連続量の集合に、人間という均質でない「個性」を媒介として「百人の非連続量」を、この「ある」集合体自身は、連続量の集合体の性質を変えることなく、相互に自分の否定体を含み持って統一するのです。
図1
図2.はこれと逆に、人間を類概念(人類であるという共通項や、類=動物であるという抽象)を媒介せず、「そこに集まった百人の人間は非連続を量なす」という場合、「この部屋」という空間は先に成立しておらず、類とい媒介も示されていないから、ただ個性を持った人間の非連続量として集合体が形成される。これを分割しても、同質でない人間を分割できないし、交じり合っていない部分に「類概念」が分散されて隠れているようなものである。
図2
しかし分割できない、という非連続量を止揚するために、人間の思考は、個性のない人間の共通項を探そうとする。この弁証法の過程で「類概念」を思考が発見するのである。
図2、の白い部分は、個別人間を非連続に分断する「一」人間という差異を埋め合わせるべき課題として、わたしたち自身の思考にし働きかける。白い部分を全部赤にするには個別の人間から「具体性」という部分を取り去るしかない。「人間とは何か」という抽象論、一般論の回路を通して私たちの思考が「類」やもっといえば単なる「存在」にた還って行くのです。
ここに示した量における「非連続」と「連続」の相互対立の形態は、相互に「入って遊ぶ」(当ブログ 「哲学総論 つれづれ25より)という理念の歴史過程としてある。
「ヘーゲル『論理学』の真骨頂」
『論理学』とは人間の従うべき思考の形式である。
量における非連続量と連続量という概念の止揚の過程を、いまこの時、『論理学』を読んでいるわたしたちの観念自身が自分たちの思考の形式として「気がつかされる」という不可思議な力を持つのがヘーゲル論理学なのです。
それは「論証」=科学的姿勢ではなく、「弁証」=哲学的態度の賜物で、弁証法とは、その思考過程の中に反省が働く思考の「歴史過程」です。
ただし、量に関する非連続量と連続量のヘーゲルの語りは『自然哲学』では、若干の食い違いを示す。
そのことは『哲学総論 つれづれ26-②』 で浮き彫りにしたいと思う。
つづきます
追伸
英語における冠詞の役割は、哲学的思考にはに重要です。というか、英語の勉強は哲学者には大変避けて通れないものです。
a great lunch. すばらしい昼食
uncountable noun "lunch" に定冠詞 "a" が限定詞として名詞を修飾する時、①「一回のすばらしい昼食」 でもなく②「すばらしい昼食一般」でもない。この "a" は「もう二度とないようなすばらしい」「もう一度だけでいいから食べたい昼食」 "great" を強める副詞のような役割なのです。
①は直訳として間違ってはいないけれど、意訳としては0点です。