夕映えのはな 16
(作り話です)「・・・ミツエさー・・・」「・・・トミちゃん・・・」父母と沙耶は昼食を取り終え早々、野良仕事に出ていたのだ。光恵は覚悟を決めたように、静まり返った家の端の作業小屋の、自身の部屋の隙間だらけの硬い木戸を一寸二寸、陽射しが差込む程度に押し開けた。何故開けて、何故それ以上開けなかったかは、最後の別れにこちらの顔を一目見ようとか、自身の変わり果てた姿を覚られたくなかったとかではなく、ただその時、自分を想ってくれる最後の人間にせめても応えてやるのに他に方法が見当たらず、これしかないと思ったからではなかろうか。「・・・ミツエさー?・・・」「・・・うぐっ・・・」光恵は木戸の影から光を避けながら、丸めた晒で必死で口元を覆うしかなかった。「ミツエさー、だいじょうぶかあ?・・・。ほら、はやくビョウキ治して、また、きれいなトカイにもどって、はたらけ・・・」「・・・ううん、富ちゃん・・・。私はもう岡谷の工場には戻らないの。・・・ごめんね」少しだけ開けられた木戸の隙間から、光恵の苦しそうな息遣いがはっきりと捉えられていた。「・・・なんでだあ?」「本当はね・・・、良いことなんかひとつも無かったの・・・。ううん、そうじゃない・・・。それでも色々有ったから・・・。ひょっとしたら幸せだったのかもしれない・・・。でも・・・ねえ富ちゃん・・・、ここにだって良いものがこんなに沢山有るじゃない・・・。こんな体になってやっと分ったのよ、わたし・・・」「・・・いいもの?」「・・・ええ・・・。こんなにも綺麗で多くの恵みを与えてくれる自然・・・。本当に大切な家族・・・。そしてとみちゃん・・・。あなたの未来・・・」か細く息絶え絶えに、だが、それでもしっかりとした語り口の光恵の話を、わたしはその時、わたしたち家族を捨てた父の居る見知らぬ都会の街の情景と重ね合わせていた。「・・・おらのみらいって?・・・」「・・・そう、とみちゃんの将来・・・。女だって真剣に生きれば何だって出来るの。もう、男にだって負けない・・・」けだし菌が身体全体の組織を蝕み、立っているだけでも辛かったはずである。それでも最後の力を振り絞るように、光恵はたどたどしくしくも強い口調で言い放った。「・・・けんかしてもかあ?・・・」「ふふ・・・ぷっ、ぐぶっ!・・・」そして、苦しそうに咳き込みながら板の間に崩れ落ちる光恵。少しだけ開けられた、木戸の隙間から垣間見える薄暗い室内を照らし出す陽射しが、痩せ細った蒼白い足首と迸る多量の鮮血を浮かび上がらせた。わたしは、未だかつてこれほどの恐怖感を覚えたことが有っただろうか。ただ呆然と立ち竦み、光恵の名前を呼び続けるしかなかった。「・・・ミツエさあ・・・、ミツエさあ・・・」「・・・ち・か・よ・ら・な・い・でっ・お・ね・が・い!・・・。かえって・・・、は・や・く!・・・」わたしにはそれ以上何も為す術が無かった。時折振り返り、泣きながら必死に駆け走るわたしの脳裏を、光恵の最後に発した、もう男にだって負けない、の言葉だけが駆け巡っていた。優良糸引き女工の人生仕舞いの誇りか、はたまた自身を慕うわたしに一瞬みせた、女としての人生一人愛しく想う人への悲痛の叫びだったのか。わたしは一切から逃れるように夢中でブナ林を走り抜けた。息せき切っていよいよ自宅の厩にたどり着くと無心で牛に餌をやるも、果たして心中穏やかではいられなかった。光恵のたっての約束通り、その日のことは周りの者に一切口外することはなく、そして、彼女ともそれが最後になったのである。それは、例年に比べて遅れてやってきた長雨がやけに冷たく、ひょっとしたら梅雨の走りだったのかもしれない。雪国のひとたちさえ凍りつく大ぶりの雨が、天水連峰の窪地を濡らし続けていた。光恵が逝ったのが朝方だったという。異変を感じた家族が夜通し看病、身体を捩って苦しむ光恵が一瞬向き直り、母親が口元の血反吐を拭ってやったのが最後。鳴り止まぬ雨音に紛らわせて、微笑むように。健気な光恵が終いに、家族に向かって何を言わんとしていたかは想像に難くない。大粒の雨が、何事も無かったように、多くの感情を清流に押し流してゆくだけだった。数日続いた冷たい雨が嘘のように止んで、おそらく、梅雨の中休みであろう向こう側の空が朱色に染まり、幾重にも連なる山並みの稜線やら穏やかに麓に伸び広がる田植えの済んだ棚田一枚一枚やら、目にも鮮やかに浮かび上がらせていた。光恵の葬儀が村の総代と数人の男衆の手でひっそりとしめやかに執り行われて、わたしはもう二度と彼女に会えないことだけを自覚していた。 何ら変わることもなく、窪地に降り注ぐ陽射しは高温にして多湿で、やはり旧盆も終わればこぞって若い人たちは、多くの手土産と土産話を残して足早に都会の街へと去ってゆく。そんな頃、祭りの後の静まり返った村に、ひょっこりと一人の若者が訪れた。 男の名は高林賢三。自身の故郷、中頚城に帰省中、人伝に光恵の消息を聞きつけて意を決するように取り急ぎやってきた。光恵とは同じ岡谷の製糸工場勤めで、方や売出し中の優良工女、方や小僧から社員になって間のない班長候補ながら、何時しか互いに意識し合い、心引かれてゆくのである。地方の村々から様々な夢や希望を描いて都会の街に出で、多種多様な人々とその思いの交錯する工場内で、光恵と賢三は際立って純粋だった。それは、何飾らない仕事への取り組みや家族、同僚への想いなど、共通するように越後人気質の自身を上手く表現する術を持たない分、ただただ真っ直ぐに邁進するふたり。だが、光恵にしては一流糸引き工の名と引き換えに死の病を引き受け、賢三こそ現場の班長昇進とともに他社の優良工女の引き抜き役を担わされてゆく。そのとき賢三は、総てをなげうってまで光恵の運命を引き受ける気にはなれなかったのかもしれない。「ウィキペディア」「豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」等を参考にさせていただきました