(作り話です)
 
周りの木々が色とりどりに鮮やかで、天空に舞う鳶の鳴き声が周囲の山々に響き渡り、眩いほどに燦々と陽射しが降り注いだとして、この親子にとって一体何の慰めになっただろうか。
知り合いなのか、或いは全くの他人か、時折り行き交う人が足を緩めても、二人の尋常でない様子を窺い知ると、また何毎も無かったように足早に立ち去ってゆく人、ひとり、ふたり。
前を歩いて後ろを気遣い、後ろに退いては娘の歩調に合わせ、なだらかな上りの坂道を踏みしめる父。
娘とて、咳き込む口元を押さえながら、父には心配かけまいと額の汗を隠して上ってゆく。
もう、駆け足のように蒸し暑い窪地の夏が過ぎ去って、見下ろす限り裾野に繰り広がる棚田や段々畑の実りの取り入れは、とうに終わっていた。
季節はすでに晩秋の、初雪も降って、朝晩めっきり冷え込む頚城の峰々。
暑くも寒くも無かったが、胸の病を負った光恵には、どれほどの勾配の坂道にしても難儀なことだけは確かだった。
大きく弧を描いて曲がりを過ぎる毎にいよいよ視界が開け、周りの木々が益々色鮮やかに照り輝こうとも、今の光恵にはそれを愛でる余裕など既に無かった。
時折り口元を両手で覆い、痩せ細った両肩を小刻みに揺すって咳き込む娘の後ろ姿を、まさか父親は、何事もなかったように平然と見過ごせるはずも有るまい。
帰省する度に、驚くほど眩く成長を続ける我が娘の背中が、一体如何してこんなにも早く小さく萎んでしまったのか、父には目の前の現実が未だに信じられなかった。
突然の、容赦の無い一方的な電報にしても、他人と見間違うほどに変貌した光恵の容姿にしても、病気になって、まるでごみのように使い捨てにされてゆくことも、そして、この期に及んで泣き言ひとつ溢さず、気丈なまでに歯を食いしばり畝った山道を上る我が娘の背中が・・・。
何故だ、如何してこうなる前に言ってくれない。
痛いとか、辛いとか、もう辞めてしまいたいとか。
昨年の盆休暇の帰省から一年と三ヶ月、父親は光恵の変わり果てた姿を目の前にして、どこをどう探しても本人に問いかける言葉など見当たらなかった。
せめて正月でも盆休暇にでも実家に帰省してさえいれば、家人の誰かが気付いてあげられただろうに。
何故なんだ、如何して帰ってこなかった。
好い人でもできて帰れないとか。
仲間と旅行で帰れなかっただとか。
ああ、それならば頷ける。
だとしたら、これほど無残な娘の姿を絶対に目の当たりにすることもなかっただろうに。
ふらつきながら、いよいよ歩幅も縮み今にも倒れそうな光恵。
己の病に覚悟を決めてそれでも必死に前に進もうとしていた。
そしてこんな時でさえ心配かけまいと気丈に振舞う光恵の背中に、一体何を言うべきことがあろうか、何がしてあげられるというのか。
時折り深く溜息をついて、その場に立ち止まる光恵を労わりながら父は考えあぐねていたのだ。
そして、息も絶え絶えに今にも前のめりで倒れ込みそうな娘の前に背中を向けてしゃがみこむと、振り向きざまに両腕を後ろ手に差し出した。
一瞬、驚いたように首を振ると大きく後ずさりをする光恵。
不治の病と嫌われ恐れられる、はやり病に冒された娘の、必死の形相で拒む姿が何を言わんとするかは分かっていたが、それでも無言のまま近寄りながら更に催促の視線を投げかける父。
光恵はその執拗なまでの大きく深い気持ちに意を決し、後ろ手に手招きをする父の背中に黙って頷くと、か細い肢体を折りながらそのままゆっくりと体を凭れ掛けてゆくのだった。
安堵したような、背中に負ぶった娘の体を両腕でしっかりと抱え、片膝をついて静かに立ち上がろうとする父の穏やかな表情が一転にわかにかき曇ったのはその時だ。
背負い込んだ娘の体がこれほど軽く、まさかこんなにまで細く華奢になっていたことを改めて認めざるを得ない父親の心境は果たして幾許のものだったか。
余りにも大きく、独りでは抱えきれない恐怖と不条理な現実に苛まれた娘の代弁者は、その時自身の、前途を悲観した絶句か、溜息か、言葉すら発することも出来ないこの状況を背中の娘に悟られまいと、何事も感じなかった素振りで静かに立ち上がった。
ああ、これが天の下した裁定なのか。
もう逆戻りも、差し替えることさえ出来ない家族の運命。
瞼こそ見開いてはいても、父と娘の目の前には一点の希望の灯すら見えず、頭の中こそ絶望の淵を知らせる半鐘が鳴り響いていたに違いない。
これこそが貧農の出の娘の、生まれながらに背負った宿命なのだと諦めるしかない運の悪い人間だということか。
父は、娘の総てを背負い込むと、曲がりくねった小石の坂道を、一歩一歩噛み締めるように上ってゆく。
ここまでくると周りでは、ブナやカエデの木々が陽射しに映えて眩く光り輝き、風に揺れる白いススキの穂の群れが道端から四方の峰々を束ねていた。
ブナ林の木漏れ日の中を、番の山リスが足元を小走りに通り抜け、頭の上では渡りの野鳥が涼しい声を響かせる。
もう既に、遅れてきた赤とんぼが父娘の都合などお構いなしに目の前を飛び回り、終いには二人の肩口で翅を休めた。
ゆっくりと瞼を開く光恵。
如何にも自然の恵みを受けて、鮮明に、顔まで朱に染めたアキアカネ。
それほど気候も良かったのか、今年の山の取り入れはさぞかし豊作だったろうに。
ああ、ひょっとしたら、ここにも真の生き方が有ったに違いない。
とうに覚悟を決めた父娘は、何かに取り付かれたように生き急いだこの数年間を、透明な翅の向こう側に透かして振り返える。
誰が悪かったわけでもなく、だが、ただ運が悪かっただけでは済まされない貧困農村地帯の現状は、一大凶作による飢餓や娘の身売り、果ての一家心中、そして都会で働いた娘達が持ち帰る不治の病という名の土産物。
噎ぶように息を吸い込む光恵の、手にした握り飯が潰れるほどに細い腕が撓り、痩せ細った小さな肩が小刻みに震え出すと、父はもう、どうにも抑えきれない感情を、唯一出来る娘の為ぞとばかりに何憚ることなく、この世のものとも思えぬ形相で嗚咽するのだった。
それでも涙で霞んで前が見えぬまま足を緩めることなく、既に骨と皮だけの娘の両腕を握り締めながら、こんなになるまで分かってやれなかった自身の不甲斐無さをただただ悔い続けてやるしかなかった。
だが光恵には、自分を背負って共に大きく肩を震わす、父の背中の温もりだけでもう十分だったのだ。
実は、最初から総てを分かっていたのは光恵自身だったのかもしれない。
都会に出て家族のために背伸びをしようとしすぎたことを、夢など叶うはずもなく、いつしかはかなく消え失せてしまうことを、山懐に抱かれた村々の風情や人々の心情が以前と少しも変わることなく、夢破れ、満身創痍の己をも何事もなかった如く自然体のままで受け入れてくれることを、そしてこここそが自身の総てであり、何よりかけがいの無い唯一無二の場所だったということを・・・。
父娘は、互いに語ることなく、いよいよ上りの急坂を何気張るでもなくただ淡々と歩を進めていった。
これから訪れるであろう困難にでも立ち向かえるかのように。
もうそこには峠が控え、後は下りだけの、愛しい母と妹の待つ家へと繋がる一本道。
沢伝いに聞こえる川のせせらぎや、アカショウビンの絶え間ないさえずりが脳裏にまで染み渡る深い黄金色のブナ林を抜けるころには、辺りを吹き渡る風が忙しなくザワザワと笹や葦の葉を揺すりながら出迎えることは分かっている。
開けた視界の先の、いよいよ頂を知らせる鳶の物悲しい鳴き声だけが暮れなずむ大空に響いていた。
振り返る父と娘。
ふもとの町から吹き上がる気流に任せて、大きく弧を描く勝手気ままな鳶の姿をどんなつもりで見つめたものか。
息苦しいほどに天高く澄み渡るしじまの空は刻々と紫がかった朱色に染まり、向こう側に聳える峰々は、任せるようにその灯りの輪郭を映し出した。
今こうしているのが不思議なくらいに心穏やかで、今ぞとばかりに光恵は父の耳元に合図を送るのだった。
静かに父の背中から降り立つ光恵の傍らには、ひっそりと大地に佇む一輪のカワラナデシコが遅咲きの可憐な花びらを風に靡かせていた。
しっかりと、眩いばかりの夕日に映えて、訪れるであろう未来に思いを馳せて・・・。

「ウィキペディア」「豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」等を参考にさせていただきました