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      (作り話です)

集落から幾分離れた村境に、ひっそりと佇むように建つ沙耶の家。
木造平屋建ての古びた家の裏手を、清水の湧きいずる一本の小川が流れていた。
川幅を護るように連なるの木々の枝には多くの野鳥が戯れ、さらさらと弛まない渓流の音に紛れてカジカやアカショウビンが鳴き競い、時に田畑へ水を供し、時に人々の喉を潤した。
そして向かいの一寸高台には、盆暮れ正月、村の政の折々、人々が集い、祈り、感謝する、鎮守の祀られた小さな杜が有った。
境内を覆うように、真っ直ぐ伸びきった杉や桧の枝先から降り注ぐ強烈な陽射しが、所狭しと駆け回る子等を照らし出す。
恵みの川と燦燦と照り輝く恵みの太陽、かけがえの無い健康で明るい子供たち、家族四人が食べていくだけで精一杯だったが、ひょっしたらそれだけで十分だったのかもしれない。
贅沢なものは何一つ無かったが総てのものが揃っていたのではなかったか。
多くの物を失くす前に気付けたら、人々はどれほどまでに幸福だったのだろうか。

沙耶の父、尚一は幼くして両親を亡くし、その後親戚中をたらい回しにされながら幼少時代を過ごした。
叔父叔母、従兄弟の心無い言動や周囲の冷たい視線、或いは自身の気兼ねにしても、決して誰彼が悪かったということではあるまい。
当時、世間では世界的大恐慌の影響を受けて多くの会社が倒産し、輪をかけるように、慢性的な凶作が物価高とともに就職難を招いていた。
人々は仕事も無く、農家でさえ自らの食す米にさえ事欠く有様で、ある者は口減らしに我が子を身売りし、出稼ぎに出させ、終いには年老いた祖母などを泣く泣く背負って山奥に捨ててくるという話もある時代。
そんな時、跡取りのいない老夫婦に貰われて尚一はこの村にやってきた。
本来まじめな性格で、良くしてくれる心優しい義父義母に応えようと家のためによく働いた。
尋常小学校を卒業する頃には寝たきりの義父に代わって田畑を切り盛りし、何時しか二人の最後を看取る頃、尚一は隣の村から嫁を娶る。
地域社会に応えようとする、若い夫婦の一途でひたむきな想いは村人全員が認めるところだった。
光恵が生まれ、沙耶が生まれ、生活は苦しかったが、おそらくその時二人は、ほんの小さな幸福感を覚えていたにちがいない。

「・・・ミツエさー・・・、ミツエさーん・・・」
わたしはりえ先生に伴われて帰宅するとすぐさま昼食を摂り、母と祖母には黙ったまま村はずれの沙耶の家にやってきていた。
沙耶には声をかけることなく、家の裏手の作業場を手直しした光恵の部屋の外から小声で呼びかけた。
直ぐ脇を、まるで様々な人々の営みや感情などまったくお構いなしに、淀みなく清流が川音を響かせるだけだった。
「ミツエさー・・・、ミツエさー・・・。おら、トミコだあ」
それでもわたしは沙耶や家の者に気付かれぬよう、隙間だらけの土塀に顔を擦り付けながら呼びかけた。
「・・・えっ?、トミちゃん・・・。外に居るん?、・・・ううっ、ごほっ・・・」
締め切った薄暗い部屋に差込む一筋の光が、自身の定めを悟りきった光恵の、すでに生きる屍のように痩せ衰えた身体をおぼろげに照らし出していた。
部屋の隅に身を置き、小さくなった身をさらに丸めて、また、か細く息をすする。
すでに、病巣が全身に広がっていたことを物語る、湿った重苦しい咳が次々と晒を朱に染めてゆく。
息することも、咳さえも辛かったが、生きる希望を失ったわけでも、誰かを恨んでいたわけでもなかった。
塀の外側から、自身を呼ぶ声だけは聞こえていた。
母に似て美しかったであろう光恵の、もう、やつれきってしまった顔が凄まじいほどに陰影をつけて光の方に振り返る。
「・・・うん。ミツエさん、おらミツエさのかお見て・・・」
「・・・ううん。ねえ駄目よ、大変な病気がうつってしまう。お願い、早く家に帰って!」
光恵は切なくも、いやおそらくは腹の底から声を絞り出すように、全身の力を込めて訴えかけてくる。
「おら、ぜんぜんおっかなくね。ミツエさんのかお見てんだ!」
わたしは光恵の病気のことは祖母や母、そして村人たちから口喧しいほどに聞かされていた。
それは、人々がこの家の前を通るときこそ息を堪えて両手で手鼻を覆いながら足早に走り去り、恐怖心から口々に、この家や家族の一人ひとりのことを罵り合うのを観ていても分る。
だが光恵が持ち帰る手土産や都会の土産話は、当時ようやく物心のついた、わたしの心に強烈な衝撃として今でも鮮明に記憶の中にあった。

「ウィキペディア」「豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」等を参考にさせていただきました