(作り話です)

「やれっ!」
居並ぶクメール・ルージュの幹部候補生。
整然と狙い構える狙撃兵に、かの幹部が指示を与えた。
銃声の余韻とともに処刑場内に響き渡るどよめきのなか、独りの兵士が、何食わぬ顔で、拓巳のバッグから抜き取った無線機の電源を入れた。
ざわつく場内の雑音に紛れて鳴り続ける衛星携帯電話の着信音。
男は、始めて見る携帯端末のスイッチを入れるのだった。
   
ルルルルルッ・・・ ルルルルルッ・・・
「拓巳君、拓巳くん?・・・。紀子は見つかったかねえ?・・・。拓巳くん・・・、聞こえるかい・・・。紀子ー・・・」



2011(平成24年)4月某日
   東京 拓巳の自宅・・・

   ルルルルルッ・・・ ルルルルルッ・・・
「・・・紀子っ・・・。ねえ紀子っ・・・」
隣でやすむ紀子の背中に声を掛ける拓巳。
目覚まし時計が鳴り続けているにもかかわらず、
一向に目を覚まそうとしなかった。
「・・・えっ?・・・」
「ああ紀子、大丈夫?・・・」
寝返る紀子の額に汗が光っていた。
「ふうっ・・・、えっ、何のこと?」
紀子自身、妙に喉が渇いていたのは自覚していた。
「急に悲鳴をあげるからさあ。それに目覚まし・・・」
「ええっ?、悲鳴・・・。何よ、それ・・・」
紀子は、今見た夢の中の内容さえ覚えていなかった。
「んん、まあ、良いんだ。それより早く目覚ましを止めたら・・・」
「えっ、ああ本当・・・。ごめんなさい」
目覚ましの音すら耳に入らぬほど、何かに興奮していたのだ。
「なあ、何か怖い夢でも見た?」
拓巳が隣で何事かと心配するほど、紀子はうなされていたのだ。
「えっ、どうして?・・・」
「んっ、ああ、額に汗がさあ」
「えっ・・・。ああ、拓巳君だって」
紀子は自身の額に手を当てながら、ちょうど拓巳の額にも光るものが有ることを認めていた。
「んん?、ああ・・・」
拓巳にしても体中が汗ばんでいることを意識しながら、自身の夢の中のことは一切覚えていなかった。
そして、拓巳も紀子同時に同じ夢を見ていたのだ。
深層心理学のユングの共時性と夢の解釈を借りれば、そう有り得ない話でもなかった。
「ふう・・・。何か目が冴えちゃったわねえ。よいしょっと、もう起きて支度でもしようかしら」
薄い羽毛掛け布団を跳ね除け、ベッドから起き上がる紀子。
大都会東京とはいえども未だ窓外は朝も明けず、人通りも少なかった。
「例の記者会見?」
文化部から、社を代表して質問をすることになっていた紀子。
この一週間、資料集めに奔走していたのだ。
「えっ、ええ」
「質問考えたかい?。あれだけカンボジア王国のことを調べたんだからさあ。それに中継が入るらしいから頑張れよ。紀子」
拓巳とて、紀子のことが気が気ではなかったからだ。
「ええっ、もう・・・。変なプレッシャーかけないでよね」
「んーっ、んー・・・。よいしょっと、俺も起きるよ」
「いいのに・・・。ねえ、もう少し寝てなさいよ」
「んっ、ああいいんだ」
二人が勤める新聞社から電車で三十分と程近い、駅前の1LDKマンション。
賃貸で単身仕様だったが間取りが広く、六畳、十畳と、特にリビングがゆったりとしていて使い勝手も良く、式を挙げるまでの間、引っ越す気にはなれなかった。


    新聞社 写真部・・・
「よいしょっと・・・」
「ようっ、拓、お疲れさん・・・。ほら、紀ちゃんが出てるよ」
外回りの取材から戻り、機材を確認する拓巳の背中に声をかけてくる先輩記者。
煙草を燻らせながら、記者会見の中継画面を食い入るように見ていた。
「えっ、何のことですか?」
ぶっきらぼうに答える拓巳。
「会見場だよ。どうせ適当に取材切り上げてそそくさと帰ってきたんだろうが?・・・」
話に乗ってこない拓巳に、冗談めかしに鎌をかけてくる。
「まさか、俺そんなんじゃないですよ。これから、もう一件打ち合わせが入ってるんです。まったく、もう・・・」
いかにも真剣な表情で怒ってみせた。
だが、おおよそ図星だった。
「そうか、それはそれは、恐れ入谷の鬼子母神・・・。あはははは・・・」
テーブルから足を下ろして手を突きながら、馬鹿丁寧に頭を下げてくる先輩記者。
「それで、あいつは?・・・」
拓巳は、その親父ギャグから身をかわしながらシートに腰を下ろすと、透かさずテレビ画面に見入った。
「ああ、それがまだでさあ。司会者がうちの社だけ無視してるって訳でもないんだろうけどなあ」
「そうですか・・・」
紀子にしてみれば、気合を入れて臨んだ記者会見だったが一向に指名されず、もう、やけっぱちで腕を上げるしかなかった。
一週間を費やして、カンボジアの歴史や文化、日本のとの関係をこと細かくまとめ上げ、国王に対してあらゆる質問を考えて抜いていたのだ。
そろそろ質問も出つくし、会見の終了時間が刻々と迫っていた。
紀子はすっかり諦めかけていた。
「では、時間の制限もございますので、これが最後の質問とさせていただきます。ええっと・・・、はい、そちらの方・・・。どうぞ・・・」
最後の最後、紀子に向けて発せられた女性司会者の声。
もう半ば、惰性だけの挙手だった。
質問のことなど何一つ、頭の中には無かったのである。
「えっ?!、あ、はい。大一日報のー、藤田と申します。どうぞよろしくお願いします。・・・えーっと・・・」
多くの記者達の目が紀子に注がれていた。
だが、用意した質問がすべて他社に出しつくされ、何一つ浮かんでこないのだ。
「はい、ご質問をどうぞ・・・」
「えっ、ああ・・・。えーっと・・・、国王は独身でいらっしゃいますが、日本の女性をどう思われますか?」
破れかぶれで、場当たり的に発した質問さえ臆面もなく、紀子は国王に対して微笑んでもみせた。
瞬間、場内爆笑の渦と化すも一転、しーんと静まり返り、広い館内のあちらこちらから冷ややかな嘲笑だけが湧上っていた。
「あちゃー・・・。紀ちゃん、やっちまったなあ」
それでも大きくテレビ画面に映し出される屈託の無い紀子の顔に、つい頭を抱えてしまう。
「ぷふっ・・・。あーあ、でもあいつらしくって良いよ」
拓巳は、どんな時でも紀子の味方だった。
「・・・エーット、アノー・・・」
唇を噛み締めながら、困惑した様子の国王の顔がテレビ画面に拡大されてゆくのだった。
ゆっくりと頭を上げ、いよいよ紀子の顔を凝視したものだ。
「おいおいっ、国王が日本語で喋り出すぜ。怒り出すんじゃないか。なあ、まずいよな。うん、これはまずいまずい。そうだ、遣りかけの仕事があったんだ。じゃあな、拓・・・」
「そんなあ。全く問題無いですよ」
気まずそうにして、慌しく休憩室を後にする先輩記者。
拓巳は、国王が紀子に何を話しかけるのか大いに興味があった。
「エーット・・・、アナタノオナマエ キカセテクダサイ。オーケイ?」
会場全体が、騒然とし始めていた。
「ええ、勿論ですとも・・・。私の名前は、藤田紀子と申します」
何食わぬ顔で、平然としていたのは紀子だけだった。
「オオ ソウデスカ ノリコサン。ワタシハ ニホンノ ジョセイヲ タイヘン ソンケイ シテイマス。オシトヤカデ ヒカエメデ シンボウヅヨク ソレデイテ アカルク タクマシイ。トクニアナタノヨウニ ウツクシク ウィット アフレル センスノ モチヌシガ ワタシハ ダイスキナノデス。シツレイデスガ アナタモ ドクシンデスカ?」
真っ直ぐに紀子の顔を見据えたまま、穏やかに話し始める国王。
日本語を交えたたどたどしい言葉だったが、その澄んだ瞳の優しい眼差しはテレビの前の誰をも魅了していた。
紀子も勿論そうだった。
「えっ、ええ。あっ、いいえ、もうすぐ結婚します」
紀子は一瞬、はいと言いかけたものだ。
「オオ ソレハ タイヘンザンネンデス。ソウデスカ。アナタノ パートナーガ ウラヤマシイ。ドウカ ヨロシク オツタエクダサイ。ドウモアリガトウ ノリコサン・・・」
ゆっくりとマイクを置くと丁寧に合唱し、頭を垂れる国王。
「そう言っていただき大変光栄です。もっと早くお会いしていれば・・・。私も大変残念です。どうもありがとうございました。ミスタートキオー・・・」
最大限の感謝の気持ちとリップサービスだった。
「オー メルシー・・・。メルシーボクーッ!」
「どういたしまして・・・。オークン、オークンチュラン、ふふふ・・・」
いつの間にか記者会見場全体が、大きな歓声と拍手に包まれていた。
「あいつ、ちょっと調子に乗りすぎだぜ。まったく・・・」
ほっと肩の荷をおろす拓巳。
実際のところ、心底心配していたのである。


「よいしょっと・・・」
一週間かけてまとめた手元の資料を整理し終えると、会見場を後にする紀子。
結局のところ、資料は何の意味も成さなかった。
「くしゅん・・・。あら、あいつの花粉症がうつったのかしら・・・。ふー、それにしても、もうあんなに陽射しが高いわ。よーし、昼からも頑張るぞーっ・・・」

今年は遅いといわれた春だったが、確実に日本列島を駆け上っていた。
至る所で眩い陽光を浴びて咲き乱れる春の草花。
紀子の周りはいつも春爛漫なのである。

そうそう、紀子のおなかの中には二人の愛の結晶が宿っていたことを未だ誰も知らない・・・。
                

(ウィキペディア、カンボジアジャーナル、三菱・com等、多くの文献を参考にさせていただきました)