(作り話です)

「それはあなたが全てを話す気になったときにお話しましょう」
「俺が日本に帰ったら、お前達の都合のいいように虚偽の宣伝や嘘っぱちを書けとでも言うのか?」
新政権を操るクメール・ルージュが情報統制を敷き他国を欺こうというのは分るが、それよりも増して、悪意にプロパガンダ手法を駆使して情報操作しようとしていたのではなかろうか。

「さあ、それはどうでしょうか。それよりあなたは今、私たちを信じるしか方法がないのでは?・・・」
「自分達を信じろと言いながらお前こそ俺達を信用していないだろう。何故、目隠しを取らせない?」
おそらく選択肢はこの二つに一つ、だが既に決意していた。
且つまた試すように言い放つ拓巳。

「あなた方のためです。では、ざっくばらんに言いましょう。見られて都合が悪ければここで始末すればいい話だから。まあ、よかろう、目隠しを外してあげましょう・・・。おい、二人に目隠しをとってやれ」
「・・・ふーっ・・・。んっ?!、ふーん・・・、まさかこんな所に居たとはなあ・・・」
只だだっ広いアールシー建物の薄暗い室内に、拓巳と紀子に向けられた投光照明だけが唯一灯りをともしていた。
拓巳の前にぼんやりと浮かび上がる人物は、ポルポトが書記長に就任して以来の上層幹部だった。

「ほほーっ、これはこれは、まさか私ごときのことをご存知とは、大分我が党の内部のことにお詳しいようですなあ・・・」
「ふっ、さっき、お前達のことを信用しないと、全てを失いかねないと言ったな」

「ええ、確かに言いましたが、それが何か?・・・」
「貴様らには分かるまいが、命がけで戦場に臨んでカメラのファインダーを覗き、真実を伝えようとする俺たちの意地が、一体何と引き換えられるっていうんだ」
張ったりなどではなかった。
銃弾や砲弾を掻い潜って、まったく訳も無く、命を落としてゆく人々の最後の生の声を聞きながら、各国で巻き起こる代理戦と化した内戦の実体を取材してきたのだ。

「ほーっ、これはこれは強気に出られましたなあ。では先ほどの、全て、の中にお隣のきれいな看護婦さんが入っているとしたらどうでしょう?」
「おい、勘違いしないでくれ。俺と彼女とは何の関係も無いんだ!」
拓巳が慌てふためくのも無理は無く、人の命さえ情け容赦ないクメール・ルージュの強硬派幹部なのだ。
紀子だけ例外であるはずがなかった。

「私どももあなた方のご関係など、どうでも良いのです。あなたがどう思うかです。それよりあなたが慌てるだけ大切な人のようですが・・・」
「いや、だから、昨日会ったばかりだって言ってるじゃないか。彼女が死のうが生きようが俺の知ったことじゃない。本当だ」
冷静に言い放つ幹部の男に対し、もう何をいい訳しても意味をなさなかったのかもしれない。

「いいえ、それは違う。私はずっとこの人と行動をともにしてきたわ。同じ日本の記者仲間なの。将来さえ誓い合った同志なのよ」
拓巳を押しのけるように一歩前に出て、壇上の男を睨みつける紀子。

「おい、何を馬鹿なことを言ってるんだ。君は自分の言っていることが分かっているのか!」
「ええ、分かっているわよ。私にだって何かと引き換えに出来ない女の意地くらい有るのよ。あなたこそ分かる?。そうでなければこんな所まで来てないわよ。そうでしょう・・・。それに・・・」
あまりに唐突だった。
拓巳には紀子の言っている意味が分らなかった。

「それに、何だって言うんだ」
「それに・・・、あなただったら信じられる」

「馬鹿な・・・。死ぬかもしれないんだぞ」
「ええ、もちろん分かってるわ。あなたとだったらどこにでも行ける」

「冗談じゃない。冷静になるんだ。命に代えられる何が有るって言うんだ」
その時拓巳には、紀子の気持ちが重荷にしか感じられなかった。

「いいえ、あなたはさっき、命にも変えられないものが有るって言ったじゃない・・・。いま私には、もうひとつ有るわ。捨てられないものが・・・。もう、失いたくない」
「言いか、良く聞くんだ。君の、今の仕事は人の命を救うことなんだ。自分の命を大切にしないでどうする。なあ、そうだろう」
そして、昨日合ったばかりの紀子の人生まで背負いたくないというのが本音だったのではないか。

「その前に、私は一人の人間よ。守りたいもののひとつやふたつ有ってもいいでしょう」
「君は馬鹿な女だ・・・」
心底、馬鹿な女だと思えた。
拓巳は、自身これまで馬鹿になれたことが有っただろうか、これまでの短い人生を振り返っていた。
それこそ賢明に生きようと思ったことなど無かったし、それに夕子のことこそ、その時々懸命に駆けてきた。
馬鹿になりきって・・・、そう、今こうしていることにしたって・・・

「貴方だって、馬鹿なひと・・・」
「ふっ、ふふふっ・・・、まあ、お二人ともおかしな方々だ。私には命より大切なものが有るとも思えないですがね。さあ、どうしますか。私を信じるか、それとも全てを失うか・・・。私はどちらでも構わないのですよ」

「先ず、お前達は信用できない。次に、命が惜しいからといって、真実を曲げてどうする。即ちそれは、命を張って、この争いを取材してきた意味がまったく無いということだ」
「ほう、本当に良いのですね・・・」

「当たり前だ。これまでに、やってきた努力が無駄になる」
はっきり言い切る拓巳に対し、せせら笑うように再度念を押す男。
既に最初から二人の運命の行方を知るかのように、運命の鍵を握る唯一の人間として。
どちらにしても、拓巳と紀子がプロパガンダとして利用できる人間ではないことがはっきりしたのである。

「あなたはどうですか?」
「私もこの人と同じよ」
男の問いかけに、紀子は覚悟は変わっていなかった。

「・・・紀子」
「・・・ええ」
初めて発する紀子の名前。
当然の如くただ答えるだけだった。

「そうですか。分かりました。あなた方のお望み通りにしてあげましょう。おい・・・。ふっ、ふふふ、ははははは、ほんとうに、馬鹿なやつらだ・・・」
はき捨てるように言い放つクメール・ルージュの幹部。

「はいっ」
二人の両脇を抱えると、引きずるようにして再び建物の外に連れ出す兵士達。
拓巳と紀子は感じていたものだろうか、先ほどからものの三十分と経っておらず昼時にもなっていなかった。
夕方でも有るまいに外はやけに薄暗く、片方の空が、夕焼けをもっと赤黒く不気味にして染まっていた。
髪を揺するでもなく、生暖かい風が辺り一体の酸化臭をかき混ぜて目と鼻を刺激し、そこかしこから湧き上がるどす黒い蒸気が勢いをつけて頭上に舞い上がってゆく。

「うっ!・・・」
広場を囲うようにして、多種多様な人間が立ち竦んでいた。
頬が扱け、血の気が失せて虚ろな目。
時折、見開いては瞳に大粒の涙を溜めて泣き叫ぶ人、人。

「(ねえ)・・・」
「(ああ)・・・」
暗示するように、遠くから叫び声に似た甲高い鳥の鳴き声が響き渡り、頭上では、肉食鳥が二羽三羽と飛び回っていた。
声を発することもなかったが、互いに顔を見合わせるのもこれが最後だった。
これから何かが始まり、ここで全てが終わろうとも、二人は既に何も恐れてはいなかった。
もっと確かなものを確かめ合えた拓巳と紀子。

「ほら、早く歩け!」
小銃の先で、二人の背中を突く兵士。
押し出されるように、先へ先へと歩み出る。

「あそこだ」
深く切り込まれた堰の手前に、横一列に盛土された小塚を指示。
十字に組まれた金属パイプが幾重にも、整然と埋め込まれていた。

「そこに立て!」
ちょうど中ほどの、二つの十字パイプを指差すのだった。

「ううっ!・・・」
「見るな!・・・」
促されるように上がった小塚から見える堰には、紀子が体を振るわすほどの堆く積まれた数々の遺体が放置されていた。
昨日今日の傷み具合は、察しられた。

「いいのか?」
「・・・」
紀子はそれ以上声を発することはなかった。

「なあ、このままで頼む」
十字管に二人の手足を括りつけようとする兵士。
拓巳は、少し離れて様子を伺う先ほどの幹部に、最後の願いを訴えた。

「ああ、いいとも・・・。おい、好きにしてやれ」
「すまない・・・」

「何か言っておくことは無いのか?」
「ふっ・・・」
最後に見せた、拓巳の自尊心と精一杯の抵抗だった。

「そうか・・・冥土の土産だ」
「・・・」
拓身の足元に身分証と取材道具一式入ったバッグを放り投げる幹部。

「覚悟は出来たか?・・・よしっ、放れろっ!」
彼の合図とともに、両脇の兵士等が全力で駆け出していった。
どんよりとした空は、まだ雨季でもないのに今にも泣き出さんばかりに厚く雲が垂れ込め、潮風を伴った黒い雨雲が足早に内陸へと通り過ぎてゆく。
二人はもう黙ったまま目を閉じていた。
この期に及んで今静かに何かを思い出そうとしても頭の中はただ真っ白で何一つ思い起こせず、それでいて気持ちは昂り、されど覚悟を決めて全てを忘れようと無心にもなれば嫌が応にも次から次へと楽しかったころの思い出が蘇ってくる。
溜息をするのももどかしく、しかし頭の中を過ぎる死への恐怖心が、エンジンポンプのような勢いで肺に酸素を供給してくる。
一度息を吐き出したら、もう二度と吸い込むが出来ないのではとばかりに息を吸い続けさせた。
紀子は目を閉じたまま隣の拓巳の腕を握るとふっと息を吐き出し、漸く覚悟を決めることができた。

(ウィキペディア、カンボジアジャーナル、三菱・com等、多くの文献を参考にさせていただきました)