(作り話です)


心地よく振動を伝える列車の硬い座席。
光恵は身動き一つせず、宙を見据えたまま揺れに身を任せていた。
幾度となくトンネルを抜け、その度毎に汽笛が鳴り響き、ガラス窓を覆い尽くす機関車の吐く黒煙の向こう側に、今が盛りの頚城の秋の彩りを目の当たりにして一体そのとき光恵は何を思ったことか。
父と娘は終始向かい合い、されど言葉を交わすことも、互いに目を合わせることさえしなかった。
だが光恵には、夢半ばで突きつけられた不治の病という引導よりも、ひとりでは抱えきれないほどの恐怖と不安からようやく解き放たれ、こうして温かく、最も恋しい父母や妹や山深い松之山の懐に抱かれる喜びを体中で感じていた。
もう、己ひとりだけで思い悩むことも有るまい。
この得体の知れない難病のことや、冷ややかな世間の目、突然宣告された自身の逃げようのない運命を心底理解してくれる家族がいるのだ。
ああ、そうとも、やるだけは、やった。
頑張るだけは頑張った。
目の前には、黙ったまま目を閉じ、時折り咳き込む我が身を案じてくれる父がいる。
光恵が大量喀血したその日の夕刻には家族の元に電報が打たれ、事情が飲み込めないままにそれでもすぐさま迎えに来てくれたのだ。
希望に燃え、順風満帆だった光恵と光恵の家族に言い渡された残酷なまでの宣告。
(ムスメビョウキスグヒキトレ)
ただ、たった一枚だけの紙切れで、こうして一家の運命の判決が下されるのだった。

到着駅を知らせる車掌の甲高い声。
父と娘は意を決したようにゆっくりと立ち上がった。
列車はブレーキの金属音を響かせながら、滑り込むように単線ホームへと到着し大きく車体を揺らして停車した。
父が開ける重い手動扉からは息苦しいほどに、あれほど恋しかった故郷の景色と匂いが一斉に飛び込んでくる。
娘は、まどろむ虚ろな瞳を輝かせ、一瞬息をも吸い込んだ。
たしか一年ぶりの帰省だった。
つい昨日のことのように、自身の未来に思いを馳せ、希望を抱いて飛び立った故郷の駅に、まさかこのような形で引き戻されることを一体誰が予想したことだろうか。
おぼつかない足取りでホームに降り立つと、光恵は顔を上げて静かに周りの山々を見渡した。
小学校を出たてで多感な時期に、やはり周りを山々に囲まれた都会の街で過ごしたこの数年間が、何故か遠い昔の薄らごとのように脳裏に蘇ってくる。
仕事に対する嫉妬や妨害、死病におののき嫌い何時しか自分を避けるように噂しあう同僚たちの白い目、そして、さげすむように、或いは哀れむように落ちぶれ女工の背中を見送る工場の門番。
だが心身を蝕まれ、社会の片隅に追いやられてゆく自身の運命だけは、決して他人のせいではなかったのである。

澄み渡った空の下、汽笛も高らかに、黒煙を吐いて一気に勢いを増す蒸気列車のその後ろを、天水連峰から吹き降ろす秋風が音もたてずに追って行く。
残されたのは、傷を負った娘とその父親の二人だけだった。
父は、列車の行方を虚ろな眼差しで追う蒼白い娘の顔を眺めながら、不条理な神の掟を呪ってやることしか、もう何もしてやれなかったのかもしれない。
駅舎を出ても、父の勧める食堂の炉連を潜ろうともせず、ただ首を横に振るだけの光恵。
父はそれ以上、娘に何かを言うことも無く、黙ったままひとり店の中に入ってゆく。
光恵は店先の、深い庇の太い柱に背を凭れ、ぼんやりと、以前とは様変わりした街の風情を感じ取っていた。
だが変わってしまったのは光恵自身で、四方を覆う山々の景色や街の佇まい、目の前を通り過ぎる一人ひとりの意識や感情など、どれ一つとってみても、多分それほど変わってはいなかった。
出稼ぎに出て以来、何度と無くこの町の風情を感じながら、自身の夢の到達を意識していたはずだ。
それにしても、こうして光恵の姿に気づき、恐る恐るでも振り返ってくれるのは、周りをうろつく野良猫か、はたまた店の飼い猫くらいで、何しろ、まるで建物でも、背景にでも同化してしまいそうな、その存在すらを見失うほどに今の光恵は影が薄かった。
やつれた表情の、窪んで虚ろな瞳と蒼白く扱けた頬、一見老婆と見間違うほどに痩せ細り、落ちた細い肩と小さく丸まった背中。
ひょっとしたら、若い娘の背負った運命を悟り、知らぬ存ぜぬを決め込んでくれる心優しき街の衆だったとしても不思議では有るまい。
ゆっくりと瞼を上げ、見上げる先の鳶が獲物を見つけて急降下しようとも、驚き逃げ惑う野良猫が騒ごうとも、光恵は身動きもせず、瞬き一つすることも無かったであろう。
ようやく店の中から姿を現す父の顔。
笹の葉に包んだ握り飯二つを手に、後生丁寧に挨拶を済ませると振り返り、めし屋の暖簾を避けながら口元を綻ばせてくる。
差し出された掌の中の大きな塩結びを握り返した光恵は、ただ黙って小さく頷くだけだった。
今を合図のように、ゆっくりと山に向かって歩き出す、覚悟を背負った娘とその父親。

「ウィキペディア」「豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」等を参考にさせていただきました
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