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    (作り話です)

わたしは好物の唐豆をかじり回しながら屈みこんで、土の中のミミズを探している父の丸い背中に凭れかかった。
うず高く積まれた堆肥の下の藁を退かしては、次々と金箸で器用につまみ上げてゆく父。
丸々太った大人しいミミズは避けながら、小ぶりで自ら箸に絡みつくほど生きの良い獲物を見つけては満足そうな表情で宙にかざすのだ。
「とちゃん、さかなつりにいくんか?」
「あっ、あーそだ。ほれっ」
目を凝らして覗き込むわたしの鼻先に、ミミズの入った缶詰の空き缶を突き出してくる。
「うわーっ!、とちゃんやめれってーっ・・・。あっ!・・・」
暑さで干からびないよう土を入れた缶の中で、一塊になって絡みあい蠢きあう多くのミミズ。
わたしは思わず、まだ食いかけの蒸かし唐豆を地面に落としてしまった。
「あははは・・・。ほれっ、食うか?」
堆肥がたっぷり染込んだ土の上から拾い上げた唐豆を、父はからかいながらも、わたしに持たせようとするのである。
「きったねー。おら、いらねっ」
「ははは・・・そか・・・。とみ、お前も行くか?」
「つりかーっ?。うん、おらもいくっ」
当然断るのを見計らい、山と積もれた堆肥の最上部に唐豆を堆肥を放り上げながら、わたしを釣りに誘う父。
ミミズの詰まった缶をブリキのバケツに入れ、納屋の隅からつり道具と日除けの帽子を持ち出してくる。
自らスゲ笠をつけ、わたしに麦わら帽子を被らせながら、そのまま背もたれ付きのおんぼろ自転車の荷台に両脇を抱えて乗せると、自身手製の釣り竿を握らせた。
足元に置いた道具一式入ったバケツをハンドルにかけ、自転車のスタンドを起こすと、やおら自転車を押し出してゆく丸い背中。
父は、こうして大工の仕事がない休みの日でも、家の農作業を手伝うことは一切無かった。
決して父自身が野良仕事を嫌ったわけではなく、母が農繁期のどんなに忙しいときでも父を田畑に出さなかったからだ。
それは父への気兼ねだったのか、それともひょっとしたら、母の、世間に対する精一杯の体裁だったのかもしれない。
高々、家族四人が食す量を耕作するだけの自作農家だったのだが。
「・・・あはははは・・・」
「おっかなくねかーっ?」
「んーっ、あーっ」
家の前には隣の集落とを結ぶ一本道が通っていた。
その、なだらかな下り坂を風を切って走るおんぼろ自転車。
水溜りやわだちが出来ないよう全面敷かれた細かな砕石が、勢いをつけたタイヤに弾かれて弾け飛ぶ。
わたしは必死で父の背中に抱きついていた。
「とちーゃん」
「・・・あーっ?」
「・・・んん、んー」
県境を跨ぐ山々に覆われたこの地は、冬には驚くほどの降雪に外気は湿って痛いほど冷たく、それでいて夏は夏で、窪地に降り注ぐ強烈な日差しが澱んでむしむしと照り返ってくる。
じっとしていても汗が噴出すほどで、それでも、こうして自転車で風をきる心地よさは格別だった。
いよいよ下り坂にさしかかると、わたしは釣り竿を持ち替えながら父の丸い背中にしがみ付く。
麻の作務衣に染みついた、汗とタバコの父の匂い。
どれほどの悪路でタイヤが跳ねようと、わたしは怖いことなど全く無かった。
父は坂の途中の長い松林の中を、尚も勢いをつけてペダルを踏んだ。
汗ばんだ肌も日陰で幾らかひんやりとして涼しく、そして咽せかえるほどの松の香りが一瞬わたしを眠りの世界に誘ってくる。
すると今度は、鼓膜が張り裂けんばかりの蝉しぐれがいきなりわたしの脳裏を襲い、現実の世界に引き戻す。
それでも砂利道は、なだらかに大きく弧を描いてどこまでも続いた。
ようやく松林を抜ける頃、いきなり空気が変化するように、沢へと繋がるブナ林の中の細い道が姿を現わす。
父は自転車のスピードを緩めると、草薮に覆われた山道にハンドルをきった。
天に向かってすらりと伸びたブナの木々が、時折り沢伝いに吹き渡る風を受けてザワザワと空気を揺すり、濃淡鮮やかに彩る枝葉の隙間から、眩いばかりの初夏の光を差し向けてくる。
タイヤが進むごとに、草むらのバッタもコオロギも跳ね返り、野草に群れた、淡色のモンシロ蝶が一斉に舞い上がった。
頭上では、カシ鳥のだみ声がこだましている。
「とちゃん、あつくねか?」
「ああ、もうすぐだて」
ブナ林の長いトンネルを抜ければ、蒼々と、見渡す限り一面に笹の葉が生い茂る高台が、目を覆いたいほどに照り返っていた。
高原を吹き渡る風が何とも心地よく、真夏の蒸し暑さから一瞬にして解き放ってくれるのだ。
父は野っ原の真ん中まで来ると、ただ一本の黒松の木陰に自転車の置き場を定めた。
スタンドを立てて、わたしを自転車の荷台から降ろすとつり道具一式を片手に抱え、まるで獣道のような細い下り道を沢伝いに進んでいった。
程なく進むと蝉の鳴き声が止んで、突然V字型に削り取られた岩肌が眼前に現れてくる。
谷底の、白い石を敷き詰めた眩ゆいばかりの河原の中央を、海ほどの蒼さを湛えた川筋がくっきりと目の前に浮かび上がっていた。
いつものように思わず駆け出してしまう、わたし。
「とみっ、あぶねから!」
わたしは脇目も振らず一気に河原に降り立つと、短靴を脱いでその清流に足を浸からせた。
あれほど蒼かった水が間近では透明に透き通り、川底の岩魚の魚影がはっきりと見える。
それから、麦わら帽子をとって川の水を頭からかぶり、そのまま大きな石の上に大の字で寝そべった。
谷底の川面を吹きわたる風が火照ったわたしの頬を鎮め、実に爽快そのものである。
「ふーっ、とみは速えなあ。学校に上がっても、おめに勝てるもんは居ねぞー」
いつも同じことを言ってわたしを喜ばす。
確かに同い年の子と比べてもすでに一回り体が大きく、相撲や駆けっこでも負けたことがなかった。
父は、バケツと釣り竿を置くとわたしの隣に腰をおろし、バンドに付けたキセルと煙草入れを外しながら、ようやく周りの景色を眺め始めるのである。
煙をくゆらせながら煙草を旨そうに二服三服吸い終えると、いよいよ竿を伸ばして釣りの準備にかかる。
いかにも楽しそうに、自慢の竿を空にかざす父。
テグスを伸ばして先を手繰り寄せると、丁寧に浮きとオモリを結んでゆく。
最後に真新しい釣り針を付け替えると、バケツの中から餌の入った水煮の空き缶を取り出し、中でもとりわけ生きの良いミミズを誇らしげに宙にかざした。
身をよじって抵抗するミミズにとってはえらい迷惑な話だろうが、全くそんな事はお構いなしに、父は真剣な眼差しで淡々と作業を進めてゆくのである。
「ふーっ・・・」
餌を付け終えると、やおら立ち上がって川面を見渡す父。
もう既に当たりを付けた場所に竿を振って、餌で川の中の魚を誘うのだ。
わたしは父の表情と、川の中のミミズの動きから目が離せなかった。
「とちゃん。ほらっほらっ、エサくってる」
「あーっ・・・」
「ほらっ、きたきた」
「んーっ・・・」
「あーっ・・・、にげられたーっ」
「だなーっ・・・」
わたしは父の背後に立って肩越しに指図しながら腕を揺するものだから、だいいち魚が寄り付くはずもなかった。
それでも父は嬉しそうに、わたしの言う通り竿を振るのである。
「惜しかったなあ」と口では言いながら少しも悔しそうな素振りを見せず、また暴れまわるミミズを器用に釣り針に通す、父の白くて細いしなやか指。
わたしは父の太ももの上に身を乗り出して、苦痛でのた打ちまわるミミズを凝視するだけだった。
「メメズおっかなくねのか?」
「メメズーっ?・・・」
「寝むてか?」
「んんんっ・・・」
「そっかー、とみはまさに似て、べっぴんさんになるなー」
「かちゃんみてにーっ?・・・」
「ああ、おめのかちゃんは頭も良いし頑張りやだ。おめもそうなる」
「おれもーっ?・・・」
「ああ、そだ・・・。まさは俺なんかにゃ、もったいない嫁さまだ」
「・・・」
餌の付け終わった針を水面ぎりぎりに竿を動かしながら、川の中央のたまりにゆっくりと沈めた。
前屈みになって、さらに丸い背中を折りながら、黙ったまま、じっと水中を見詰める父。
穏やかに、ゆったりと流れ行く川面に、自身の遠い過去の思い出でも映し出すかのように、いつしか静かに瞼を閉じていった。

「豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」等を参考にさせていただきました