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夜半まで降り続いた雪で、窓の外は一面銀世界だった。
暴れ大川を挟んで林立する工場の煙突からは黒煙が立ちのぼり、とうに満天の星空を覆いつくしていた。
まだ明け切らぬしじまの構内を、靴音を響かせながら駆け寄ってくる一人の若い工員。
ふっと我に返り、そのまま後ろを振り向く光恵。
被った手ぬぐいの下の襟髪をそっと直しながら、静かに男から視線を逸らしてゆく。
いよいよ湖面が東の空を朱色に映し出すころ、いきなり、そこかしこの工場から朝一番を知らせて汽笛が鳴り響いた。
場内はまるで堰を切ったように、隣接する宿舎からいま起きたばかりの女工等が、形振り構わむ格好で一斉になだれ込んで来る。
初雪の、吐く息も白い晩秋の冷え込みも、棟内はすでに釜に火がつけられ、蒸気と熱気でむせ返るほどだった。
慌しく行き交う工女等を尻目に、何食わぬ顔で光恵の腰を下ろす作業台の後方を通り過ぎ、機械の蒸気を調整してゆく若い男、高林賢三、二十歳。
越後の頚城から出稼ぎに来て早六年、その真面目さを買われてこの春から班長見習として社員に登用されていた。
自ら、小僧とともに繭車を牽き、窯に火を付け、機械に明かりを点してゆく。
馬鹿がつくほど真面目な性格で、仕事もほどよくこなし、会社にとっては将来有望な現場の幹部候補生。
自身、ようやく将来の希望が見出せて、仕事にも張りが出始めたころである。
賢三の実家は、米どころ越後頚城地方の極めて棚田が多い山間の農家で、御多分に漏れず、その狭いが故の苦労を強いられていた。
その上、先の関東大震災から続く景気低迷と相次ぐ大飢饉の煽りを食い、米生産農家にあって尚、今日明日の食い扶ちに事欠く有様だった。
家には両親と息子四人、娘三人の子供等、そして中風で寝たきりの祖父がいた。
すでに次兄と姉二人が出稼ぎで都会に出て働き、賢三も尋常小学校を卒業するや否や口減らしのため、愛知の機械問屋へと丁稚奉公に出されるのである。
雪国山間僻地の貧農の一家に生まれ、七人兄弟の中で質素に育った賢三は、幼いうちから何事にも辛抱強く、贅沢も望まず、貧困や差別に挫けることなど無かった。
この奉公先でも、陰日向無く、愚痴一つこぼさずに良く働いた。
他の誰よりも先に起き、先ず他人が嫌がる仕事から手をつけてゆくのである。
誰に教わったわけでもなかったが、この歳で最早、兄弟のなかの存在や社会との係わり合いを意識し、どんな状況でも自身の立ち位置を見出せるようになっていた。
だがそのことで周りの従業員からは疎まれ、誤解され、いつしか皆から後ろ指をさされる状態だった。
小学校を出たての丁稚の身で、大人たちの顔色を窺いながら、ずる賢く振舞っているように受け取られてしまう。
性格が大人しいうえに不器用で、また地方訛りが強い分だけ無口なため、ますますエスカレートする嫌がらせや誤解に対して、言い訳することも自身の気持ちを素直に伝えることさえ出来ずにいた。
何より、彼等の仲間に加わる術を、未だ幼い賢三が持ち合わせていよう筈も無かった。
そして半年も経たぬうちに有らぬ噂を立てられ、周囲には疑われ、それに対して反論することもなく、店を去ることになるのである。
さらに、すべての事情を知っていた店の主人でさえ賢三を慰留することをしなかった。
それは賢三の、朴訥として多くを語らず、自分の言い分さえ主張できない性格が、商人としての資質に欠ける事をその時すでに見抜いていたのだ。
その上、賢三の存在で、店の中の和が保てなくなっていたのも事実なのである。
それとて、越後人気質や賢三個人の性格、そして世間知らずの幼さからくる立ち振る舞いと周囲が理解し、配慮してやることで多少は問題を解決出来たのかもしれない。
賢三は明確な解雇理由さえ告げられずに店を追い出されてしまう。
いつしか迎えに来た父親に連れられ、姉の伝を頼って、山々が猛々しく四方を覆う盆地の、この美しい湖の畔に足を留めることを決意した。

今の光恵には、けたたましく鳴り響く始業のサイレンも、戦場と化した工場内の喧しささえも只の子守唄に過ぎず、何故かまた、うつらうつらとしてゆくのだった。

谷越しに、山一面が朱や黄金の色に燃え上り、なだらかな裾野の湖畔までをも焦がしていた。
黙ったまま、賢三の後についてゆく光恵。
岩肌から伸び出た漆の枝がまるで手招きでもするように、色鮮やかに、眼下の寺院の五重塔を大イチョウが今を盛りに彩を放っていた。
モミジやカエデの落ち葉を踏み分けて上る穏やかな坂の上には、四方が日本の名峰の小高い丘が見えてくる。
そして、立ち止まる賢三の大きな背中の向こうには、目も覆うほどの眩い太陽と澄み渡った群青の空、稜線に沿って麓に伸び広がる艶やかな木々の実りと紺碧の湖か。
光恵は息を飲むのも忘れたまま、眼前を空高く舞い上がる山の鳥を追うのだった。
合わせるように、振り向きざまに見上げる賢三。
故郷の、刈り入れの済んだ棚田から、天高く舞う一羽の山鳥を見詰めるようにして。
大きく息を吸い込むと、大空に向かって駆け出してゆく光恵。  
立ち止まり、賢三の顔を見つめて微笑んだ。
答えるように、陽光に映えて尚一層深みを増す赤や黄色や蒼さの峰々と、穏やかな稜線を縫って吹き渡る高原の風。
ゆっくりと歩み寄る賢三。
光恵は再び大きく息を吸い込むと、手に取るように浮かび上がる湖の辺の、多くが立ち並ぶ煙突の中の一本を指さした。
賢三は、振り向く光恵の視線に頷くと、眼下の街道沿に伸びた盆地をゆっくり上方から辿りながら、美しく青さを湛えた湖面に目を留めた。
周りを所狭しと立ち並ぶ工場やその煙突の中から、光恵の指さす先はすぐにも見当がついた。
そのマッチ棒ほどの細い煙突の、そのマッチ箱のような小さな工場の、見るからにちっぽけなその空間の中には、二人にとっての総てが有ったのだ。
ともに越後の貧農の家に生まれ、尋常小学校を出たてで口減らしのため出稼ぎに出され、朝から夜まで無心で働き通し、その給金一切を貯めて親元に仕送りを続ける親孝行の二人。
故郷の家族のため、自身のため、そして二人のための夢が詰まった小さなマッチの箱。
湖畔から伸びた大川沿いにまで多くの工場がひしめき合い、その工場の中でうごめき合う工員の一人ひとりはさぞかしちっぽけに見えることだろう。
だが光恵も賢三も、自身らと、その二つの家族の将来にはっきりとした希望を見出していた。
賢三の手を掴んで小さく歓声をあげる光恵の視線の先には、雪を頂く霊峰富士が東の彼方にくっきりと浮かび上がっていたものだ。
二人は腕を取り合い、麓の茶屋へと下って行くのだった。

むせ返る繭の異臭と多湿に騒音、次々に吹き出る額の汗が、痛いほどに目の中に染み入ってくる。
息苦しさに咳き込みながら顔を起こす光恵。
とうに工場内は、湿気と熱気で体中が汗ばみ、床をも濡らしていた。
どれ位の間こうしていたのだろうか、まどろむ光恵には、蒸気で霞む目の前の光景が果たして夢なのか現実なのかさえ分からなかった。
何故か調整もされないまま蒸気弁が異様に唸りをあげ、同時に繭箱からの糸がよれて絡み合い枠車が大きく異音を発している。
今までは絶対にこんなことは無かったし、悪夢だとしても気にはなる。
だが、今の光恵には気力も体力も萎え果てたほどに、もうどちらでも良かった。
ただ、ひとつだけ確かなのは、夢の終いの、賢三とともに連れ込み宿に入ってゆく女の後姿は、決して自分では無かったことだ。
おそらく、それら総てが現実だったのかもしれない。
目の前で機械が止まり、隣の女工が立ち上がり、班長が血相を変えて駆け寄ってきて怒鳴り声を発しようとも、光恵には何ら苦にならず、むしろ何から何までが心地よかった。
一瞬、息も止まるほどに夢見心地で、まるで走馬灯の如く、遠く離れた松之山の楽しかった思い出が脳裏に蘇り、優しき父母の笑顔や幼い妹の仕草が頭の中を駆け巡ってくる。
そこには恋焦がれる賢三も、この美しい都会の町も、優しき同僚達も、どのこの仕草や思い出の一遍たりとも姿を現すこともなく、いいや、もしかしたら、感じていたこと総ての事柄が妄想だったのかもしれない。
そして突然、雁字搦めに繭糸が絡みついた目の前の機械のように、光恵の心の中で湧き水の如く溢れ出る楽しかった記憶の総てが音を無く一瞬にして吹き飛んだ。
何度か軽く咳き込みながら、何故か意思を持たない夢遊病者のようにふらふらと立ち上がり、ゆっくりと口元を両手で覆う光恵。
この世のものとは思えない小さな唸り声を上げて背中を揺すり、青白くやせ細った頬を汚し、すでに濡れ切った前掛けを伝って土間に流れ落ちるおびただしい量の鮮血。
光恵は、周りの驚く女工のひとり一人の表情が冷静に読み取れるほどにゆっくりと、その場に崩れ落ちてゆくのだった。

「ウィキペディア」「豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」等を参考にさせていただきました