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  (作り話です)

「なあ、サヤちゃん・・・」
「・・・んー?」
「サヤちゃん、絵、うめなあ・・・」
「んん、ん。トミちゃんのほうがじょうずだよ」
農繁期の田植えの時期を終えて久々に顔を合わす、りえ先生とわたしたち。
沙耶に至っては、小学校入学式当日から数日間、通学したきりだった。
「ふふっふ・・・、二人とも本当に上手く描けてるわよ」
麓から吹き上がる気流に乗った大柄な鳶が、いかにも心地よさそうに三人の頭上で鳴き声を響かせてくる。
師走に降り始めたボタ雪が根雪となって五か月間、大雪に阻まれ一歩も村の外に出られず、それでも辛抱強く穏やかな春の訪れを待つ松之山の人々。
恋焦がれる愛しい人にようやく会える喜びのように、彼らは完全に消雪する五月の声を待たずして、春爛漫の山里の風情に思いを馳せていた。
遅れてやってきた分だけ春は赫々たる輝きを増しながら、そちらこちらから聞こえくる溶け落ちた雪解けの音とともに小川が姿を現し、せせらぎ、柳の枝がしなって雪を撥ね退け、そして田圃の畦道からからふきのとうが顔を覗かす頃には逸る気持ちも押さえきれずに棚田へと駆け走って、田おこし、代掻き、田植えと遅れを取り戻すように一気に終えると一息、今こうして里山の、猛烈な初夏の息遣いを感じ取っていた。
「・・・サヤちゃーん・・・」
「・・・んんー・・・」
「・・・ミツエねちゃん・・・ゲンキかあ?・・・」
「・・・」
わたしの問いかけに顔を曇らす沙耶。
「おら、ミツエねちゃんにあいて・・・」
帰省するする度に輝きを増す沙耶の姉、光恵の印象はわたしの記憶の中の大きな存在になっていた。
「・・・んん、ん、だめだよ。おこられるんだ・・・」
沙耶は絵筆を持つ手を休めると悲しそうに顔を背けた。
「ねえ富子さん、光恵さんは病気なのよ。光恵さんが良くなるまで我慢しなさい。良い?」
「・・・うーん・・・」
光恵が岡谷の製糸工場を解雇されてはや七ヵ月。
家族のための、ほんの小さな身の丈の夢を抱いて都会に出で、自身精一杯働き、そしていつしか夢破れて持ち帰った国民病と恐れられる結核病、その診断こそが死の宣告だった。
開国以来、西洋に追いつけ追い越せとばかりに富国強兵の大命題の下、殖産興業政策が推し進められ、主に製糸紡績産業による生糸や絹の輸出外貨は、鎖国で立ち遅れた産業経済基盤を下支えしていた。
なかでも地方の貧困農村部から出稼ぎにやってくる若い女性たちの働きが、いかに重要な役割を担っていたことか。
それにしても締め切った工場内は繭を煮た異臭と高温多湿の劣悪な環境と化し、さらに睡眠時間以外休憩さえままならない過酷な労働条件等など、まるで結核の温床と言わざるを得なかった。
希望に燃えて自身や家族、会社や国のために精一杯働き通し、そして何時しか病に蝕まれて工場から解雇され、紙切れ一枚で家元に引き取られてゆく運の悪い働き者の女工たち。
ストレプトマイシンによる、抗生剤内科療法が認知される一昔前の当時では気胸療法が関の山で、それとて医者に掛かっての療養では法外な治療費がかかってくる。
それでも光恵の父は、毎月律儀に送られてくる仕送りを貯めて買い求めた家族の夢の田畑を再び二束三文で売り払い、懸命に結核治療を施してやるのだった。
つてを探ってようやく長岡の結核病院内療養室の空きを待って取り急ぎ入院させたのが一週間後、だが、その後の病状は十分な治療効果も認められずに一進一退を繰り返していた。
ところが、有る事柄を期に想像を絶する劇的な回復力をみせるのである。
焦点の定まらない虚ろな眼差し、蒼白く扱けた頬、骨と皮のように痩せ細った四肢の光恵にようやく生気が蘇り、紅色の唇で微笑む姿が見られるようになったのが入院して二カ月もした頃だ。
家族にとってもどれだけ喜ばしかったことか。
時期はすでに師走の中旬で、これから根雪になるであろう舞い落ちるぼた雪を目の前にして父親は決断していた。
本格的な降雪にもなれば半年は陸の孤島と化し、容易に山を降りることもままならず、それではこの際とばかりに沙耶が学校にあがる春先までの間、長岡市内の病院近くに見舞いのための安価なアパートを借りて妻と娘を住まわせよう。
光恵にとっても身内の者が近くにいることで心強いに違いあるまい。
一気に病も快方に向かって、今度こそ家族が離れ離れになることなく一緒に暮らすことが出来るのではないか。
その時こそ、改めて家族への想いと神への感謝の気持ちを携えて迎えに行こう。
二度と光恵を出稼ぎには出すまい、絶対に手放すまいと心に誓って。
そして、雪解けを待たずに長岡の病院から退院して松之山の自宅に光恵が帰ってきたのは三月も半ばだった。
未だ雪深く容易な帰路ではなかったが、それでも一家四人力を合わせるようにようやく玄関の木戸を開けてほっと一息ついたのが陽もかげる夕刻だ。
ただ、当初の願いと大きく違ってしまったのは、父の背中からゆっくり下ろされる光恵の姿が以前にも増して極度に衰弱し、もはや見る影もないほどに痩せ細った骨と皮だけの体躯や血の気の引いた蒼白い無表情の顔、諸々。
それは光恵自身の事情が急変し、全てを失くした娘のたって願いを叶えようと、父が病院側の引き止めるのも聞かずに松之山の自宅に連れ戻したのだ。
もう、これ以上手の施しようの無い娘の最後の時間を微塵も無駄にすることなく、差し替えることの出来ない辛い定めを背負わせてしまった自身がこれ以上悔いることの無いように、今、可能な限り出来ることはしてやろう、残された最後の時間をともに過ごしてやろうと。
世間からみたらどんなに非常識で、どれほど罵られようとも、運から見放された極貧農家の出の糸引き女工の末路が覆えらずとも、だからとてこの期に及んで他にしてやれる事が有っただろうか。
光恵にしても自身の運命を他者に身代わりになってもらおうとか、父や母や妹や、大切なこの小さな家のせいにしようなどとは決して思ってはいなかったのである。

「あらあら、もうこんな時間・・・。二人といると楽しくって時間の経つのも忘れてしまう。今日は本当にありがとうね、富子さん、沙耶さん・・・」
「ううん、おらこそ・・・」
「わたしも・・・」
「ふふふ・・・。二人とも、とっても絵が上手よ・・・。今日は先生をこんなにきれいな所に連れてきてくれたお礼にその絵の具をあげるから、これからもお絵かきを続けてちょうだいね。あとで、お父さん、お母さんにも話しておくから・・・。さあ、じゃあ片付けましょうか」
「んーっ?、んん・・・」
「ほらほら富子さん、また来れば良いじゃない?。ねっ、早く早く・・・。御家族の方にはあなたたちをお昼にはお返しするって約束してあるのよ。ねっ・・・」

「ウィキペディア」「豪雪を生き抜いた農民たち」「国史大事典」「あゝ野麦峠」等を参考にさせていただきました