「天理教」は宗教か、真実の教えか -3ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

トランプ政権でDOGE(政府効率化省:Department of Government Efficiency、自身の仮想通貨の名称DOGE Coinからとった)という省庁を立ち上げて、アメリカ政府の官僚組織をチェーンソーのごとく、ずたずたに解体したのが、イーロン・マスク氏だ。テスラのCEOであり、億万ドルの富豪の企業家である。政権を去った今はもDOGEは政府予算を切り刻んいるという。

 

目標額は、1兆ドル(156兆円)だという??? 

 

アメリ政府の海外支援機関、USAID(=アメリカ国際開発庁)が最初にターゲットにされた。1万人の職員が解雇されるという異常事態である。

 

 その他、あらゆる組織が標的となり、20万人がすでに解雇されたという。 

 

 

 

 マスク氏が政権に取り込めたのは、巨額な寄付からであり、彼らビリオネアに対する抗議でが5月にNYで起きている映像が流れた。 いわく、”These Billionaies are killing us” "Tax the Rich"の横断幕を掲げて。

 でもに参加した夫婦は、DOGEの予算カットによって、仕事をなくした民間人であった。医学系のジャーナリストの母と子供むけのTVのフリーランスのプロデューサーの父(セサミスリートの番組を作っていた)。子供たちがいるのに、突如として二人とも政府(教育省の予算カットのため)から委託されていた仕事を無くした。政府からは、WOKE(意識の高い系)のイデオロギーが支持できないという濡れ衣であった。

 

DOGEの組織は誰も知らない。秘密の組織である。

 

平和研究所(Unied States  Institute of Peace)という特殊法人が、DOGEのNate キャバノー(28歳の企業家)によって突如、閉鎖された。武装警官を率いて、鍵をもって、占拠し、サーバーをまず取り上げ、全員解雇のメールを出す。DOGEを訴えないよう、退職金はないかわりに、6393ドルが支払われた。 脅迫と不誠実な態度で、「テロリズムに資金を提供している」という濡れ衣をでっちあげての解体であった。 解雇された職員の意見ではあるが。  裁判の一審では、不法占拠された研究所側が勝訴し、今も係争中だという。 

 

DOGEは政府の機密文書にもアクセスしていることが、全米労働関係委員会のB氏から告発されている。

勇気ある告発である。

 

納税者の情報、医療データ、SSN,学生ローン、企業の内部告発、移民の個人情報・・ 

 

DOGEの職員を調査しているジャーナリスト(wired)のEliotによれば、SpaceX社の社員、シリコンバレーの企業家などが、その職員となり、政府のあらゆる省庁に配属されている。政府の人事委員会には100名も。

 

科学、健康、外交の組織がまずゼロベースで解体される。 シリコンバレー的手法だという。

 

告発した元職員は即刻解雇された。

 

1800億ドルの削減、入力間違いらしい、半分以下だと分析されている。

 

マスク氏は、5月にトランプ政権を離れ、アメリカ党を立ち上げる。  どんな未来を創るのか?

 

テックライトが集まる、ビットコイン2025の会議イベントが紹介。

David O. Sacks

Bance副大統領 「選ばれていない官僚が決めるのではなく、我々が未来の技術を決める」

アメリカ党 マスク氏の政策

1.国家債務の削減、責任ある財政支出のみ

2.AIとロボット技術による軍隊の近代化

3.テック中心、AIで勝利するために加速せよ

4.あらゆる分野、とくにエネルギー分野での規制緩和

5.言論の自由

6.産児増加主義者中心

 

ナタリスト(出生奨励主義者)でテック関係者と親しい、Collins夫婦の紹介。Malcom&Simon。 マスク氏も14人の子供がいるという。彼らは命を狙われていて、脅迫をいつも受けている。家には銃がおいてあり、迷路のような家の作りである。

「卵子を凍結して、優秀な子供を計画的に生む」。5人目を妊娠中であり、12.3人欲しいという。マルコムの弟のMilesがDOGEにつとめており、著名な人口受精クリニックを経営しているそうだ。

 マルコムは大学を全く信用しない。子供の将来のために、AI大学を自分で作った。未来はAIによって、経済も仕事も変わる。優秀な官僚よりAIは優秀である。1%の富豪がお金をだしたいようなスキルを子供たちに教育させたい。

 夫婦は、技術(AI技術)による未来を信じている。

 

 マスク氏の発言:Introducing GROAK4×AI:AIはあらゆる学問領域で大学院生より優秀だ。 GROAK4というAI技術で、国防総省と2億ドルの契約を締結した。すべての政府機関にAIを提供するという。

 AI agentを開発した、Flash IntelのCEOのイ・シ氏の発言「AIがすべての統治機能を担うことが可能である。」民主主義と効率性はトレードオフ関係にある。これは哲学的な問である。

 

NHK:「効率化を進めた先の国家とは?」

 

イーロンの語る思想の背後には、テックライトといわれる過激な政治思想家・ブロガーの Curtis Guy Yarvin が紹介されていた。

 

 

 「民主主義とは能力主義であり、大学と官僚と既存メディアという中世の大聖堂によって支配されている。このような民主主義の権威システムを壊すには、権力者に今より権力を持たせるべきである。」とトランプ大統領が王様的な行為とマスク氏のDOGEによる改革を支持する。

 「選挙しても何も変わらない。それは民主主義と呼ぶべきではない」と。「ルールや手続きよりも、柔軟に対応できる権力が必要である。民主主義やポピュリズムを強くするには、君主を選ぶことである。CEOと君主は似ている。最も効率的である点で似ている。「説明責任のある君主制」(accountable monarchy)と呼ぶものがベストである。」

 

 

 

NHK: マスクが描く未来は? 民主主義はどうなるのか? 

 

反トランプ政権のデモの映像。”No King”

 

マスク氏の発言:DOGEの改革は、ビーチでゴミを清掃するようなもの。ツナミでビーチを洗う。AIの超知性で今年か来年に大きな変革が起きるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 天理教の一般の信徒なら、ご本部の神殿を参拝して、東の回廊を経て、教祖殿に参拝することが習わしである。生前同様に教祖(おやさま)がご存命であるから、朝食、昼食、夕食、洗濯など、生前同様に本部婦人の方々が、目に見えない教祖に対して奉仕されているという。そして、不思議なお助けがあれば、教祖のお陰であると無垢な信徒なら発言するであろう。

 

 ただ、こうした「教祖存命の理」に対する現在の解釈には、限界がある。すなわち体制維持のロジックとして、ご都合主義の教理解釈をもたらす原因となり、一歩も踏み出せない真柱ワントップ体制を温存させる限界が次第に見えてきた。

 

 すでに何度も本ブログで解説してきたが、教祖存命の理とは、本席様の時代に作られた新たな教理であり、おさしづは教祖存命のお言葉であると、本部の権威者もすでに語っている。

 

 以下のように、『おさしづ索引』3巻が天理教教義及史料集成部で教祖百年祭を記念して出版され際の発言を再度引用する。

 

 

 

 教祖存命の理とは、本席様の刻限話など、飯降伊蔵さまを通じた肉声が神の詞を意味していた。お地場に、そのような神の詞を伝える天啓者(この道では機械と形容される)がいないという意味で、お地場には教祖はご不在であるという言説が生まれた。

 

 肉体をもった教祖はこの世にはおらず、扉を開いて世界の助けに出たと本席様が語っている。目には見えないが、働きの理として教祖は存命だという素朴な信仰を否定するものではない。 教祖殿にいけば、教祖のぬくもりが何となく感じられ、おさづけを取次がれる信徒の姿には心打たれるものがある。そうした素朴な信仰心を否定するものでもない。

 

 ただ、教祖が令和の今の時代に何を語っているのかという現実的な問題に、本部からは打ち出すことはできない。 本年が大変革の時旬だという教祖の思惑は、本来、総ての信徒が聞くべきご発言である。

 

 「扉は開かれた」ことに関して、「おさしづ」には以下の様なご発言があった。

 

さあ/\ろっくの地にする。皆々揃うたか/\。よう聞き分け。これまでに言うた事、實の箱へ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛い故、をやの命を二十五年先の命を縮めて、今からたすけするのやで。しっかり見て居よ。今までとこれから先としっかり見て居よ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いて、ろっくの地にしてくれ、と、言うたやないか。思うようにしてやった。さあ、これまで子供にやりたいものもあった。なれども、ようやらなんだ。又々これから先だん/\に理が渡そう。よう聞いて置け。」(明治20・2・18)

 

 この「理を渡す」とは、おさづけを渡すことだけなく、刻限話など神の詞そのものが含意されているという。「扉開いて」とは無形の教祖が永遠に語り、指導を続けることを意味しているのである。  

 

 「ろっくの地にする」とは、人間世界に差別や戦争を無くすことが語られている。令和の今の時代、世界には戦争があり、分断があり、教祖の思惑とは逆行する現象が起きている。教祖はこの様を悲嘆され、助けを急きこまれている。

 

 教祖と一緒に、「おつとめ」をする。

 

 そのつとめる人の心の仕込みが今の時旬においてもかなめとなる。 

 

 つとめを唱える唱え一条が仕込まれている。

 

 おふでさき、おさしづ、みかぐら歌に込められた神意を我心として、勤めて欲しい。

 

 ただ同じことを神様は伝えている。

 

 つとめが世界救済の要なのであり、そのつとめの人衆の魂が仕込まている。

 

 

 

 天啓の継承問題について、100年前には、以下のような説もあった。

 

 
 

 

 天理教の宗教儀礼に「みかぐら歌」があり、十二下りは数え歌として、日々に唱えられ、踊りを通じて、神様への感謝を表現する神と人とのつながりが現れされている。

 その意味内容には形を超えて、新たな神意が込められていることが今回明かされました。 誠に驚くべき内容として、届かぬながら書かせてもらいます。

 

みかぐら歌 三下り目

 

一ツ ひのもとしよやしきの つとめのばしよハよのもとや

[日の本 庄屋敷の つとめの場所は世の元や]

 

三下りの一ツから五ツは扇が利用されていて、これはこの下りが重要であることが暗示されている。

 

 御教祖おやさまによってこの道は、日本国の大和國庄屋敷村において、天保9年(1838)神が現れたという史実は変えられない。

 

 日本という国に特別な意義づけがあり、日本という国の長い歴史の意義も、実は、神様が守ってきた国柄があり、世界助けの順序として、日本に特別な役割があることが含意されている。

 

 インバウンド客が増えて米価が高騰したが、外国人が真に知らねばならないのは地場の理である。  

 

 トランプ関税15%の外圧があろうと、日本人は日本人として自覚と誇りを持たねばならない。天皇家が日本の象徴となっているが、これも神様が守ってきた家柄である。

 

 中山家は庄屋の家柄で庄屋の屋敷があるということで地名も庄屋敷になったと思われる。関西では庄屋、関東では名主、東北では肝いりなどとよばれ、幕藩体制のもとでは、在地の地主として支配者層の末端を担っている。

 

 荘園の荘とも関連する庄は「いなか・村里」をもともと意味している。

 

 屋敷(やしき)は本席様の時代に、神の屋敷、鏡屋敷といって、神様のお話が下される御用場として特別な意味付けがなされた。実は、この庄屋敷にもそれに匹敵する意味が込められているという。

 

 庄屋敷は「いなかの屋敷」であり、都からは離れたところにある、「汚れのない、荘重な屋敷」という含意だという。

 心の汚れがない、そのような屋敷で、つとめが勤められる。つとめ場所とは心の汚れが許されない場所であり、そのような所でおつとめがされるのである。

 そのつとめ場所は「世の元」というからには、創造原理が発揮されるというスピリチュアルな精神的次元が含意されている。

 

 神様が人間を作って、神と人が共に楽しむ陽気遊山を楽しみたいという甘露台世界が理想のユートピアとして求めらている。

 

つとめには神が出張って、神と人が共につとめるのである。

 

 さて。つとめ場所は地場の巨大な神殿の中にあり、また各地の教会や講であると普通に思われている。これが今の教団体制からの見立てである。しかしどんなに壮大な伽藍があろうと、つとめる人衆の心に汚れがあれば、何も変わらない。形だけの形骸化した儀礼がなされるだけである。

 

 そして今の地場には、存命の教祖はご不在である。神の詞が下される地場の別間が、つとめ場所の機能を令和の時代にその責務を追うことになった。形は小さな別間でも、存命の教祖からの期待は誠に大きく、一層精神を引き締めたいと思う。

 

 明治期までは奈良県三島市の地場に史実として確かにつとめ場所があった。

 其の勤め場所は、つとめ場所の機能を失って100年以上たってしまった。

 

 地場の別間で「刻限のつとめ」に参らせていただきます。

 

<合掌>

 

 

 

 

  永野記念館のある弘願寺(グガンジ)は上浦刈島(かみかまがりじま)にあります。 永野六兄弟は、戦後日本の財界・政界で一時期大変有名でした。

 

 記録のために残しておきます。

 

 

 

 

 

永野護  元運輸大臣、渋沢正雄の同級生で、渋沢栄一から学費の支援を受けて、永野兄弟の学費が賄われる。

     中島久万吉とともに帝人事件の被告となり監獄で暮らした。

     昭和20年の『敗戦真相記』に中島について言及あり。 

 

永野重雄 富士製鉄社長

 

 

<書きかけ>

教祖が執筆された『おふできさ』は人類に公開された最初の天啓録であり、だれもが読める日本語だ。しかし、その神意には時代と共にさらに明らかにされるべき普遍的な原理が隠されている。

 

 明治2(1869)年から『おふできさ』が執筆されてはじめ、この歌は第1号のものである。

 

このたびハやしきのそふじすきやかに

 したゝてみせるこれをみてくれ      (1-29)

 

[この度は屋敷の掃除すきやかに したてて見せるこれを見てくれ]

 

 「この度」とは、1869年の時点だけでなく、現在の2025年にも相当する真理が込められているとすれば、それは恐るべきほどに現在にも相当する意味内容を含んでいると言わざるをえない。  

 

 屋敷とは地場屋敷であり、存命の教祖がおられる地場を意味する。奈良県天理市の天理教の教会本部が立てられている神苑一帯、親里やかたの中、さらに詰所などがその屋敷を取り囲んでいるというのが屋敷のイメージであろう。

 

 屋敷はすきやかにされるべき場所であり、人が想像する以上に、ピカピカの屋敷が想定されている。形ではない、心の清浄さ、美しさ、誠の心が、神の心を信じる信徒集団が想定されている。 

 

 おさしづにも「鏡屋敷」(M28.5.12)にある通り、言行一致の信仰心が問われている。

 

 地場が治まらねば世界が治まらない。 

 

 今の世界の戦争も異常気象も、地場の汚れや人間一条を映している。

 

 さて、地場屋敷をきれいにするのは誰か。

 

 具体的な順序として、教祖の言うことを第一に聞かねばならないのは、教祖の長男の秀司さんであった。

 

 そのお方は、教祖の言う事、すなわち神様の言葉に対して、余り素直ではなかった。母親を通じて神が発言をしていても、老母が何か言っているのかと。 お筆先の表紙に「老母」と書いたのは秀司さんである。  

 

 教祖と苦労を共にして、もっとも身近にいた秀司さんであるが、老母を利用している無形の神という実在にまで信心が徹底していたとは言えない。 

  

 ここに形を超えた無形の神への信仰心というアポリアがある。 

 

 

そふじさいすきやかしたる事ならハ

 しりてはなしてはなしするなり      (1-30)

[掃除さいすきやかしたる事ならば 知りて話して話するなり]

 

これまでのざんねんなるハなにの事

 あしのちんばが一のさんねん       (1-31)

[これまでの残念なるは何の事 足のちんばが一の残念]

 

このあしハやまいとゆうているけれど

 やまいでハない神のりいふく       (1-32)

[この足は病と言うているけれど 病ではない神の立腹]

 

りいふくも一寸の事でハないほどに

 つもりかさなりゆへの事なり       (1-33)

[立腹も一寸の事ではないほどに 積もり重なりゆえの事なり]

 

りいふくもなにゆへなるどゆうならハ

 あくじがのかんゆへの事なり       (1-34)

[立腹も何故なると言うならば 悪事がのかん故の事なり]

 

 屋敷のトップである、秀司さんには「足のちんば」があった。「ちんば」とは足が不自由でひきずって歩くような恰好だったが、これは差別用語で今は使われない、当時の関西方面の方言である。 

 

 「足のちんば」は何を意味していたのか? 

 

 神様のある想いがあり、それがあらゆる形に現れているが、この「ちんば」は神の残念を意味しているという。このようなことが書き残されて、筆記されたことは、史実でもあり、本人がどのように悟ったかが問われる。また神の「残念」だけでなく、さらに「立腹」という強い表現も出てきている。

 

 秀司さんの心はどこまでも自由であり、神様に対して十分に逆らい続けているのである。

 

 大正3年12月31日に、突如出直された初代真柱の中山新治郎(真之亮)様は、茨木基敬さんのことばを神の詞として受け入れず、早すぎる出直しであった。 その「辞世二首」が新聞にも出ておりました。

 

 岩よりも固き心を結び合せて 道に盡せよ斯道の人

 

 通のため盡す心は唯一つ 己が誠の外なかりけり

 

  信仰一筋の尊い精神が伝わってきます。教祖在世時から養子として中山家にはいり、激動の明治期を教団形成に注いだ人生でした。

 

 秀司さんは生れ変わって、二代真柱様となる。中山家中心の神学を戦後に作った中山正善さんは、飯降家を格下扱いにして、本席の啓示を低く扱う。昭和初期の講習会では「おさしづ」の重要性を管長として語っていたが、まだ本席様のぬくもりが残っていて、筆取り人が生きていたからです。しかし、二代目の啓示者としての扱いを十分にしたとはいえない。また茨木家の三代目とも交流があったが、茨木基敬様の啓示を認めることもなかった。そして二代真柱様は早死にされた。

 

 三代目の真柱、中山善衛様には神がかりが現象が掛かってきたことがあったようだが、本人はそれに蓋をしたらしい。啓示者になるべき魂の持主として地場に昭和7年7月7日に再生されたが、この魂の摂理については、教える人がいないので、本人には自覚もなかった。

 高齢のため真柱の職を自ら引退して、真柱が普通の人間的行動を示す先例を残してしまった。高齢者の引退ブームとなった。天理教の世俗化をさらに推し進めた。

 

 そして4代目の今の真柱様は、まさに「足のちんば」のお姿となり、中山家の歴代の因縁をそのまま引きずっておられる。そのお姿は、「悪事がのかん」ことの証であり、存命の教祖のおことばを素直に聞けないことを『おふできさ』は預言しているのである。

 

 真柱とは独立した理ではない。「裏は鍛冶屋に表は大工」というセットでこそ生きてくる組織の要である。だれもそれを諭すものがいない。   

 

 足元に偉大な理をみる。

 

 届かぬながら、この究極の真理を公開の理のもと、探究して参ります。

 

 

 

合掌

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第一節が21回唱えられたあと、つぎに来るのが、以下の第二節です。

 

(第二節)
ちよとはなし
かみのいふこと きいてくれ
あしきのことは いはんでな
このよの ぢいとてんとを かたどりて
ふうふを こしらへ きたるでな
これハ このよの はじめだし
なむてんりわうのみこと

 

 第1節が天理王命の御守護に対する喜び、感謝に精神が集中するという、人から神への祈願であったとすれば、第二節は、神から人への語り掛けの側面が強い。

 

 神は人に初めてその思惑を教祖を通じて天保9年から開示された。だれも信じないなか、神からの問い掛けに教祖は得心し、日々の御守護を精一杯に感じ取られ、50年の雛形の道を通られた。

 神の声を聞こえたのは教祖唯一人であるなか、夫も子供たちには聞こえるわけではないので、ただ言われるままに、ハイハイと素直に聞けるものではない。そこにかしもの・かりものの自由用を見せら、目に見えない神の働き、守護の姿を段々に理解するようになってくる。

 

 神は悪しきではないと明言され、第一節における「悪しきはらい」の意味が重層的に敷衍される。 

 

 神が云う、神が語り掛ける、そのような語る、「啓示する神」が自己顕現された。

 

 啓示であり、天啓ともいう。シャーマン、巫女とも預言者という宗教用語があるが、類似した宗教現象だと思われるが、教祖を通じて初めて創造神が、お言葉を伝え始めたのである。

 

 そのご啓示は本席様へ継承されたことは、歴史的にある程度教団によって正式に教義となっている。しかし、本ブログで開示しているように、茨木さんなど裏の道として、歴代の機械とよばれる天啓者たちによって永遠に語り続けて今に至る。 

 

 神が語る根本的なお話は、元の理であり、人間は一列に神の子供として創造されてきたという、全く新しいお話である。創造神は啓典宗教にもすでに説かれていて、世界各地の民族の神話伝承の中にも創造神は出てくる。日本の古事記にも創造神らしき神は語られ、やおよろずの神々が語られている。古事記の原型とされる「ほつまつたへ」の伝承にも、口承的な伝承として神々のストーリーが語らえている。 

 

 そうしたあらゆる世界の啓示宗教、民間伝承などの神話を超えて、神が直接、教祖を通じて、元の神、実の神であるところの天理王命こそが人類の親であることが語りかけてくるのである。

 

 天地を創造して、人間の夫婦を創造してきたというのである。  

 

 空間概念、時間概念は、創造のグランドデザインのアイデアの中からでてきた、宇宙創成のプラットフォームである。 

 

 その創造は、天保9年から遡ること、9億9万9999年とされるが、これもシンボリックな表現であり、実際の宇宙の起源、ビッグバンは科学的には40億年以上前のことらしい。

 

 そうした、空間、時間を超えて、当初の神の思惑を今現在の私たちが認識することが大切であり、それが、「今がこの世の始まり」という以下のおふでさきにある通りである。

いまゝでも今がこのよのはじまりと
ゆうてあれどもなんの事やら
 (第七号35)

 
 元の理は過去のことではなく、今現在のこと、人間創造が永遠の始原から始まり、今に至り、未来に続くことを語っている。それが第二節の意義である。
 
 南無天理王命と、ここで、「南無」という伝統的な宗教用語が利用されている。ここには伝統宗教で使われていた既存の概念の上に新しい理を添えているというこの神の姿がある。
 
 神が初めて現れたが、そこに至るまではあまたの宗教の教祖、祖師がいて、その上に新たな教えが開示されたのである。
 
「南無」阿弥陀仏があり、「南無」妙法蓮華経があり、繰り返し唱えることは無いが、禅宗の「南無」釈迦牟尼仏というフレーズもある。
 
 南無とは、梵語(サンスクリット語)のnamas、namoを漢字にした音写語で、「ーーに帰依する」という意味だとされる。
 
 キリスト教のアーメンもヘブライ語で、誠に、確かに、その通りだという信心の決意を意味てしている。
 
 イスラームとは、アラビア語で神に絶対的帰依するという動詞的な意味である。 
 
 南無天理王命とは、イスラム教の「アラー、アクバル」(「神は偉大なり」)という唱え文句に匹敵する絶対的帰依の表現である。
 
 イスラム教の聖地はメッカであり、メッカへの巡礼はハッジとして尊ばれる。遠いとこからは一生に一度しかいけない、村の代表者が聖地ていく。 
 一方の、この道では、奈良県天理市の地場・甘露台という特定の聖地を信仰の対象とする。 地場の理が親の心であり、啓示の源泉である。地場という特定の地点は空間上の特異点であり、その地に神殿が建築された。だがその壮麗な神殿が神の心を意味すると考えたら、とんでもない。地場から発する神の心は空間を超えて、一人一人の人間の心の魂を目覚めさせる契機となる。それ故、地場の心とは日本を超え、地球上のあらゆる地点で、参り所ができて、信仰は実践できるのである。  
 
 

 

 

「みかぐらうた」(第一節から第三節)


(第一節)
あしきをはらうて たすけたまへ
てんりわうのみこと       [21回]


(第二節)
ちよとはなし
かみのいふこと きいてくれ
あしきのことは いはんでな
このよの ぢいとてんとを かたどりて
ふうふを こしらへ きたるでな
これハ このよの はじめだし
なむてんりわうのみこと

 

(第三節)
あしきをはらうて たすけせきこむ
いちれつすまして かんろだい  [3回×3]

 

<みかぐらうたの神意>

 天理教の教会で朝夕の礼拝の時に必ず唱えられる「みかぐら歌」。座り勤めをする際に手を振りながら、第一節のこの神言を繰り返し唱える。それが儀礼化、マンネリ化していたら、単なる宗教儀礼に堕してしまう。

 善と悪の2つの対立する価値観があるとして、善とは続く理であり、悪とは持続性がない理と定義できる。天理教における悪理とは、「我さえよければ、今さえよければ」という利己主義、短期的思考の悪弊を意味している。

 これは対照的に、本当の幸福、Well-Beingとは、善理の心そのものから来る。善理とは神の心のそのもので、広大無辺の神の心とは、親心そのものである。空間も時間も超えた超越的存在でありながら、人間の肉体を守護し、宇宙を支配する存在である。その大きなる存在を知れば、人間の心は喜び、誠の心となり、心は澄んでくる、謙虚にならざるをえなくなる。

 

 悪理とは、八つの埃(ほこり)という倫理教説を具体的に意味していて、以下の八つの心が悪しき理を代表している。

 

1. 欲しい

2. 惜しい

3. 憎い

4. 可愛い

5. 恨み

6. 腹立ち

7. 欲

8. 高慢

 

 これらは、神を知らず、神の貸し物借り物の世界を理解せず、心通りの守護という真理を知らずに、人間心だけに依存する通常の人間思案の心使いを意味する。

 それらはすべて悪しき心使いなのである。悪しき心使いは、逆に人間が本当に自由な陽気暮らしをする可能性を阻んでいるのである。

 

 神の心をしらねば、誰もが普通に使ってしまう人間心は汚れた心である。汚れていることすら自覚がないのが人間心であり、基準や標準としての神の心を知らないと、また信じないと人間心はいつまでも続く。

 

世界の平和より自国中心主義、覇権主義が世界政治のトレンドとなっているが、これは神様の心とは正反対の動きである。 

 

 どんな人間にも悪しき心使いは埃となって、魂の汚れとして蓄積されている。その汚れを自覚的に払う作業が、朝夕のお勤めの際に唱えられるのである。

 喜べない心、澄んでいない心を神様の前に懺悔して、感謝・報恩の心で、より美しい心に、神の心に近づくように祈念するのが「あしきをはらうて(悪しきを払うて)」の趣旨である。

 そして、神の自由用されるかしものかりものの世界であることが段々にわかって、深く自覚したら、喜びの心を同時にお供えすることとが出来る。

 自由の心で、世のため人のため利他的に真の自己実現をすることに人間世界の喜びがある。

 

「たすけたまへ(救けたまへ)」とは、人間が、魂の親である神様に全面的帰依することを自己告白している局面である。人間の肉体は神からの借り物であり、神の守護なしには一息もできなくなるのである。「生きている」という神秘な現象は神様から人間への最大の賜物であり、人間は神様の子供なのである。神様は親であり、人類等しく愛されている。

 

「てんりわうのみこと」とは特定の神名である。天理王命という神名は教祖を通じて天保九年に世界で初めて顕現した唯一の至高の創造神である。既存のあまたの宗教や信条があるなかで、全く新しい神が啓示を通じて顕現したのである。『おふでさき』を通じて、その神は、「月日」「かみ」「をや」などとも呼称されいてるが、言葉(ことば)を通じて顕現する神である。ヘブライ語でもアラム語でもアラビア語でも中国語でもなく、日本語を通じて神は顕現された。 

 

 特定の神名なので、特定の宗教教団の神名となって制度的には成立している。しかし、それは人間世界での仮の姿であり、この神は地球も宇宙もすべてを創造した至高の唯一の永遠の神であることを自己開示している。

 汎神論的なビジョンのもと、この世は神の体だともいう。見えて来る利益(りやく)、すなわち生かされいてる人間の守護のあり方そのものが神の力を示しているのである。

 

 神の心を知り、神があらゆることを自由用されていること、その日々の守護に感謝して、いつまでも自由な陽気暮らしのスピリットで永遠の道を生きる。 日々に無時に生きている、生かされている。その神秘に対して、人間はただただ深甚の感謝の念を捧げる。それが第一節に込められた神意だと悟ります。

 

                 <合掌>

   

 

 

 龍は伝説上の生き物か空想上の生き物と考えられていますが、その龍神様と語れる人が本当にいて、驚きました。お名前は、表題の通り、秀雲様です。 以下のサイトをご覧ください。 また波動も感じることができることが書かれていました。

 

 対談:宇都宮 秀雲氏×中西研二「先人の知恵を生かし、自然に合わせて生きる」 – NPO法人JOYヒーリングの会

 

 

 仏像作りの技術的なことだけに満足せず、シャカの生誕地のインドに武者修行(4380日)に出られて、草を食べて、土を掘って寝る生活を続けてこられたそうです。インターネットなど、HPなどによる紹介は、「自然派仏師」を継承する立場からしないとのことです。ご本人から許可を得てないので、恐れ多いですが、歴史家として記録にして残したいと思います。

 HPはないですが、関係先が以下のギャラリーを公開していました。

天然石パワーストーンと波動龍などの仏像・彫像を販売しています【ギャラリー龍】|GALLERY

 

 アジア各地で巨大像原型造形の設計も招待されて行ってきました。アジア各地に門下生は486名で芸術家活動の支援、福祉自立支援活動も行っていると奥様の名刺にありました。  

 

 茨城県牛久市の牛久大仏の原型造形にも関わったとのことです。高さ120メートルでギネスにも登録されている世界一高いブッダです。

 

 私は、茨城県に24年間も住んでいて、前任校ではアメリカ人の留学生の観光案内もしました。

 

 牛久市あたりをバスで通った時、牛久大仏をたまたま見たアメリカから来た留学生が、"Super Scarely"と叫んだことを覚えています。 

 

 インバウンドの海外旅行者はさらに増えるでしょう。 大仏の体内はお釈迦様の生涯をたどる展示物もあり、4・5階には何と!仏舎利(釈尊のご遺骨)もありました。親鸞聖人が教行信証を書かれたのは常陸國稲田であり、今の茨城県笠間市です。浄土真宗東本願寺派東本学寺が宗門を上げて、この大仏を建立されたそうです。

 

  牛久大仏概要|牛久大仏

 

 大仏師のご紹介で、インドからスジャータの78代目の子孫の方ともお会いできました。 餓死しかけた釈迦を救ったスジャータとは実在の女性だったようで、お釈迦さまも実在の仏教の創始者なのですね。

 

マイクをもつダルさん(スジャータの78代目の子孫)、その右が大仏師・秀雲様

@長野県南佐久郡佐久穂町余事 2025年5月5日 やすらぎの里開所式にて

 

 

一つ 広い世界のうちなれば 助けるところがままあろう

 

 

 この道が広がる以前に、この道が遅れているので、救済場所はまだまだ必要なのです。 

 

 

 

 

 

 

 以前書いたものを、増補しました。

 

 おふでさき9-6に関する、解説から、実は、最新の神様の御詞(おことば)も引用しておりました。

 

 その内容をさらに増補しました。

 

 本ブログの中での新しいカテゴリーとして「平成時代のをやの歌綴り」として初公開させて頂きます。

 

 

 

 

別間に集う、わずかな人衆への神様の大きな思惑が語れています。

 

しかし、この言葉を信じる万人に開かれた神様の言語化であり、本ブログにふれる各人の魂がいかに受け取るかで、各人の魂の運命が開かれていくはずです。

 

その目的は地場の掃除、地場の立て替えに大きな焦点がありますが、人類を救済することに本願があることに変わりはありません。

 

神の世界は広いつながり。 

 

本稿は、Y先生からお招きを受けた桜神宮での花見の集いから刺激受けて書きました。

 

 

 

『おふでさき』第15号は明治13年に書かれたもので、その年3月には大阪で米騒動があった。令和の米価急騰、米不足を彷彿させるものであり、存命の教祖の今なるの思惑から教えて頂いたこと書かせてもらいます。 

 

いまゝてハ四十三ねんいせんから あしをなやめたこれがしんはい(15-24)

(今までは四十三年以前から 足を悩めたこれが心配)

 

 従前の解説では、「足のちんばが一の残念」(1-31)と同様に、この足は特定の人物として、秀司さんの足が意味されていた。否。より普遍的にこの足は、人間一人一人の足を意味している。足は人間が進むべき方向、心の道を示している。43年以前とは、天保9年の立教の日まで、人類は本来の人間としての歩み方を知らなかった。しかし、この度、教祖を通じて本真実が明かされ、陽気暮らしの本通を通る心の道が初めて明らかにされた。

 神様は元始まり以来、人間世界の創造を続けてこられてきたが、誰も神の思惑を知らずにきたし、そのことを神様はずっと心配してきた。しかし約束の年限が来て、ようやく教祖を社(やしろ)として天下ることが出来たのである。これがこの道の始まりであり、人類の救済史的なターニングポイントが天保九年の中山家の屋敷で起きたのであった。

 

 神様が表に現れるという本真実(天啓の永遠性、教祖存命の理)の永遠性が心に治まることで、人類は救済の真理に触れて、心を開放されるのである。

 

このたびハなんでもかでもこれをはな もとのとふりにしてかやすでな (15-25)

(この度は何でもかでもこれをばな 元の通りにして返すでな)

このはなしなにを月日がゆうたとて  どんな事てもそむきなきよふ (15-26)

(この話何を月日が言うたとて どんな事でも背きなきよう)

これからのをやのたのみハこればかり  ほかなる事わなにもゆハんで (15-27)

(これからの神《をや》の頼みはこればかり 他なる事は何も言わんで)

この事をなにをたのむとをもうかな  つとめ一ぢよの事ばかりやで (15-28)

(この事を何を頼むと思うかな つとめ一条の事ばかりやで)

このつとめこれがこのよのはぢまりや  これさいかのた事であるなら (15-29)

(このつとめこれがこの世の始まりや これさい叶うた事であるなら)

 

「元の通りにして返すでな」とは、秀司の足を元通りにするという特定の個人を意味してはいない。より普遍的に、元始まりの神様の思惑通りの人間観を明らかにするという大宣言なのである。陽気暮らしのできる、元々の神の思惑の人間に戻ってほしいという思惑が込められているのである。もともとの神の思惑を知らずに、人間心一杯の欲のまみれた人間には、この神の思惑は余りにも美しく、誰も信じるものはいない。

 神は悪しきは言わない。どうか神の言うことを信じて欲しいという神(をや)の懇願が語られる。

 

 そして、陽気暮らしのできる人間とは、「つとめ一条」という一語に集約される、驚くべき真理がここで開示されるのである。

 

つとめとは人間創造であり、人間救済であり、人間の陽気暮らし世界の源泉となることが意図されているのである。

 そのつとめとは、かぐらづとめや十二下りという形のつとめ(形式的な儀礼)ができるよりも、そのつとめる心のつとめにより重点がある。日々の心作り、心磨き、心の通り方が本当のつとめである。 

 

 人間心でつとめても神様は受け取らない。日々のつとめには、心のつとめがあり、その上で、月次祭があり、地場のかぐらづとめがあるのである。

 

 

つづく