「みかぐらうた」(第一節から第三節)
(第一節)
あしきをはらうて たすけたまへ
てんりわうのみこと [21回]
(第二節)
ちよとはなし
かみのいふこと きいてくれ
あしきのことは いはんでな
このよの ぢいとてんとを かたどりて
ふうふを こしらへ きたるでな
これハ このよの はじめだし
なむてんりわうのみこと
(第三節)
あしきをはらうて たすけせきこむ
いちれつすまして かんろだい [3回×3]
<みかぐらうたの神意>
天理教の教会で朝夕の礼拝の時に必ず唱えられる「みかぐら歌」。座り勤めをする際に手を振りながら、第一節のこの神言を繰り返し唱える。それが儀礼化、マンネリ化していたら、単なる宗教儀礼に堕してしまう。
善と悪の2つの対立する価値観があるとして、善とは続く理であり、悪とは持続性がない理と定義できる。天理教における悪理とは、「我さえよければ、今さえよければ」という利己主義、短期的思考の悪弊を意味している。
これは対照的に、本当の幸福、Well-Beingとは、善理の心そのものから来る。善理とは神の心のそのもので、広大無辺の神の心とは、親心そのものである。空間も時間も超えた超越的存在でありながら、人間の肉体を守護し、宇宙を支配する存在である。その大きなる存在を知れば、人間の心は喜び、誠の心となり、心は澄んでくる、謙虚にならざるをえなくなる。
悪理とは、八つの埃(ほこり)という倫理教説を具体的に意味していて、以下の八つの心が悪しき理を代表している。
1. 欲しい
2. 惜しい
3. 憎い
4. 可愛い
5. 恨み
6. 腹立ち
7. 欲
8. 高慢
これらは、神を知らず、神の貸し物借り物の世界を理解せず、心通りの守護という真理を知らずに、人間心だけに依存する通常の人間思案の心使いを意味する。
それらはすべて悪しき心使いなのである。悪しき心使いは、逆に人間が本当に自由な陽気暮らしをする可能性を阻んでいるのである。
神の心をしらねば、誰もが普通に使ってしまう人間心は汚れた心である。汚れていることすら自覚がないのが人間心であり、基準や標準としての神の心を知らないと、また信じないと人間心はいつまでも続く。
世界の平和より自国中心主義、覇権主義が世界政治のトレンドとなっているが、これは神様の心とは正反対の動きである。
どんな人間にも悪しき心使いは埃となって、魂の汚れとして蓄積されている。その汚れを自覚的に払う作業が、朝夕のお勤めの際に唱えられるのである。
喜べない心、澄んでいない心を神様の前に懺悔して、感謝・報恩の心で、より美しい心に、神の心に近づくように祈念するのが「あしきをはらうて(悪しきを払うて)」の趣旨である。
そして、神の自由用されるかしものかりものの世界であることが段々にわかって、深く自覚したら、喜びの心を同時にお供えすることとが出来る。
自由の心で、世のため人のため利他的に真の自己実現をすることに人間世界の喜びがある。
「たすけたまへ(救けたまへ)」とは、人間が、魂の親である神様に全面的帰依することを自己告白している局面である。人間の肉体は神からの借り物であり、神の守護なしには一息もできなくなるのである。「生きている」という神秘な現象は神様から人間への最大の賜物であり、人間は神様の子供なのである。神様は親であり、人類等しく愛されている。
「てんりわうのみこと」とは特定の神名である。天理王命という神名は教祖を通じて天保九年に世界で初めて顕現した唯一の至高の創造神である。既存のあまたの宗教や信条があるなかで、全く新しい神が啓示を通じて顕現したのである。『おふでさき』を通じて、その神は、「月日」「かみ」「をや」などとも呼称されいてるが、言葉(ことば)を通じて顕現する神である。ヘブライ語でもアラム語でもアラビア語でも中国語でもなく、日本語を通じて神は顕現された。
特定の神名なので、特定の宗教教団の神名となって制度的には成立している。しかし、それは人間世界での仮の姿であり、この神は地球も宇宙もすべてを創造した至高の唯一の永遠の神であることを自己開示している。
汎神論的なビジョンのもと、この世は神の体だともいう。見えて来る利益(りやく)、すなわち生かされいてる人間の守護のあり方そのものが神の力を示しているのである。
神の心を知り、神があらゆることを自由用されていること、その日々の守護に感謝して、いつまでも自由な陽気暮らしのスピリットで永遠の道を生きる。 日々に無時に生きている、生かされている。その神秘に対して、人間はただただ深甚の感謝の念を捧げる。それが第一節に込められた神意だと悟ります。
<合掌>