「みかぐらうた」(第一節から第三節)―第二節の神意とは? | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 第一節が21回唱えられたあと、つぎに来るのが、以下の第二節です。

 

(第二節)
ちよとはなし
かみのいふこと きいてくれ
あしきのことは いはんでな
このよの ぢいとてんとを かたどりて
ふうふを こしらへ きたるでな
これハ このよの はじめだし
なむてんりわうのみこと

 

 第1節が天理王命の御守護に対する喜び、感謝に精神が集中するという、人から神への祈願であったとすれば、第二節は、神から人への語り掛けの側面が強い。

 

 神は人に初めてその思惑を教祖を通じて天保9年から開示された。だれも信じないなか、神からの問い掛けに教祖は得心し、日々の御守護を精一杯に感じ取られ、50年の雛形の道を通られた。

 神の声を聞こえたのは教祖唯一人であるなか、夫も子供たちには聞こえるわけではないので、ただ言われるままに、ハイハイと素直に聞けるものではない。そこにかしもの・かりものの自由用を見せら、目に見えない神の働き、守護の姿を段々に理解するようになってくる。

 

 神は悪しきではないと明言され、第一節における「悪しきはらい」の意味が重層的に敷衍される。 

 

 神が云う、神が語り掛ける、そのような語る、「啓示する神」が自己顕現された。

 

 啓示であり、天啓ともいう。シャーマン、巫女とも預言者という宗教用語があるが、類似した宗教現象だと思われるが、教祖を通じて初めて創造神が、お言葉を伝え始めたのである。

 

 そのご啓示は本席様へ継承されたことは、歴史的にある程度教団によって正式に教義となっている。しかし、本ブログで開示しているように、茨木さんなど裏の道として、歴代の機械とよばれる天啓者たちによって永遠に語り続けて今に至る。 

 

 神が語る根本的なお話は、元の理であり、人間は一列に神の子供として創造されてきたという、全く新しいお話である。創造神は啓典宗教にもすでに説かれていて、世界各地の民族の神話伝承の中にも創造神は出てくる。日本の古事記にも創造神らしき神は語られ、やおよろずの神々が語られている。古事記の原型とされる「ほつまつたへ」の伝承にも、口承的な伝承として神々のストーリーが語らえている。 

 

 そうしたあらゆる世界の啓示宗教、民間伝承などの神話を超えて、神が直接、教祖を通じて、元の神、実の神であるところの天理王命こそが人類の親であることが語りかけてくるのである。

 

 天地を創造して、人間の夫婦を創造してきたというのである。  

 

 空間概念、時間概念は、創造のグランドデザインのアイデアの中からでてきた、宇宙創成のプラットフォームである。 

 

 その創造は、天保9年から遡ること、9億9万9999年とされるが、これもシンボリックな表現であり、実際の宇宙の起源、ビッグバンは科学的には40億年以上前のことらしい。

 

 そうした、空間、時間を超えて、当初の神の思惑を今現在の私たちが認識することが大切であり、それが、「今がこの世の始まり」という以下のおふでさきにある通りである。

いまゝでも今がこのよのはじまりと
ゆうてあれどもなんの事やら
 (第七号35)

 
 元の理は過去のことではなく、今現在のこと、人間創造が永遠の始原から始まり、今に至り、未来に続くことを語っている。それが第二節の意義である。
 
 南無天理王命と、ここで、「南無」という伝統的な宗教用語が利用されている。ここには伝統宗教で使われていた既存の概念の上に新しい理を添えているというこの神の姿がある。
 
 神が初めて現れたが、そこに至るまではあまたの宗教の教祖、祖師がいて、その上に新たな教えが開示されたのである。
 
「南無」阿弥陀仏があり、「南無」妙法蓮華経があり、繰り返し唱えることは無いが、禅宗の「南無」釈迦牟尼仏というフレーズもある。
 
 南無とは、梵語(サンスクリット語)のnamas、namoを漢字にした音写語で、「ーーに帰依する」という意味だとされる。
 
 キリスト教のアーメンもヘブライ語で、誠に、確かに、その通りだという信心の決意を意味てしている。
 
 イスラームとは、アラビア語で神に絶対的帰依するという動詞的な意味である。 
 
 南無天理王命とは、イスラム教の「アラー、アクバル」(「神は偉大なり」)という唱え文句に匹敵する絶対的帰依の表現である。
 
 イスラム教の聖地はメッカであり、メッカへの巡礼はハッジとして尊ばれる。遠いとこからは一生に一度しかいけない、村の代表者が聖地ていく。 
 一方の、この道では、奈良県天理市の地場・甘露台という特定の聖地を信仰の対象とする。 地場の理が親の心であり、啓示の源泉である。地場という特定の地点は空間上の特異点であり、その地に神殿が建築された。だがその壮麗な神殿が神の心を意味すると考えたら、とんでもない。地場から発する神の心は空間を超えて、一人一人の人間の心の魂を目覚めさせる契機となる。それ故、地場の心とは日本を超え、地球上のあらゆる地点で、参り所ができて、信仰は実践できるのである。