『おふでさき』第15号は明治13年に書かれたもので、その年3月には大阪で米騒動があった。令和の米価急騰、米不足を彷彿させるものであり、存命の教祖の今なるの思惑から教えて頂いたこと書かせてもらいます。
いまゝてハ四十三ねんいせんから あしをなやめたこれがしんはい(15-24)
(今までは四十三年以前から 足を悩めたこれが心配)
従前の解説では、「足のちんばが一の残念」(1-31)と同様に、この足は特定の人物として、秀司さんの足が意味されていた。否。より普遍的にこの足は、人間一人一人の足を意味している。足は人間が進むべき方向、心の道を示している。43年以前とは、天保9年の立教の日まで、人類は本来の人間としての歩み方を知らなかった。しかし、この度、教祖を通じて本真実が明かされ、陽気暮らしの本通を通る心の道が初めて明らかにされた。
神様は元始まり以来、人間世界の創造を続けてこられてきたが、誰も神の思惑を知らずにきたし、そのことを神様はずっと心配してきた。しかし約束の年限が来て、ようやく教祖を社(やしろ)として天下ることが出来たのである。これがこの道の始まりであり、人類の救済史的なターニングポイントが天保九年の中山家の屋敷で起きたのであった。
神様が表に現れるという本真実(天啓の永遠性、教祖存命の理)の永遠性が心に治まることで、人類は救済の真理に触れて、心を開放されるのである。
このたびハなんでもかでもこれをはな もとのとふりにしてかやすでな (15-25)
(この度は何でもかでもこれをばな 元の通りにして返すでな)
このはなしなにを月日がゆうたとて どんな事てもそむきなきよふ (15-26)
(この話何を月日が言うたとて どんな事でも背きなきよう)
これからのをやのたのみハこればかり ほかなる事わなにもゆハんで (15-27)
(これからの神《をや》の頼みはこればかり 他なる事は何も言わんで)
この事をなにをたのむとをもうかな つとめ一ぢよの事ばかりやで (15-28)
(この事を何を頼むと思うかな つとめ一条の事ばかりやで)
このつとめこれがこのよのはぢまりや これさいかのた事であるなら (15-29)
(このつとめこれがこの世の始まりや これさい叶うた事であるなら)
「元の通りにして返すでな」とは、秀司の足を元通りにするという特定の個人を意味してはいない。より普遍的に、元始まりの神様の思惑通りの人間観を明らかにするという大宣言なのである。陽気暮らしのできる、元々の神の思惑の人間に戻ってほしいという思惑が込められているのである。もともとの神の思惑を知らずに、人間心一杯の欲のまみれた人間には、この神の思惑は余りにも美しく、誰も信じるものはいない。
神は悪しきは言わない。どうか神の言うことを信じて欲しいという神(をや)の懇願が語られる。
そして、陽気暮らしのできる人間とは、「つとめ一条」という一語に集約される、驚くべき真理がここで開示されるのである。
つとめとは人間創造であり、人間救済であり、人間の陽気暮らし世界の源泉となることが意図されているのである。
そのつとめとは、かぐらづとめや十二下りという形のつとめ(形式的な儀礼)ができるよりも、そのつとめる心のつとめにより重点がある。日々の心作り、心磨き、心の通り方が本当のつとめである。
人間心でつとめても神様は受け取らない。日々のつとめには、心のつとめがあり、その上で、月次祭があり、地場のかぐらづとめがあるのである。
つづく