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「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

『おふでさき』第六号十九~二十一に以下のお歌がある。

 

 それからはハどのよな事もたん/乀と 神のをもわくみなときゝかす  十九

 にち/乀に神の心わせゑたとて 人ぢう十人そろいなけねば      二十

 十人のなかに三人かたうでわ 火水風ともしりぞくとしれ       二十一

 どのような事でも神のする事や これをやまいとさらにをもうな    二十二

 

 第6号は、明治7年12月よりと、内扉に書かれてあり、また、第7号は、明治八年弐月と内扉に書かれてあり、その頃に教祖(おやさま)がご執筆されたものである。

 

 ここで、とくに21番目のお歌がで、「3人片腕」とは誰かについて、以下のような解釈が従来なされてきました。

 

東若井の松尾市兵衛

明治12年1月17日、45歳出直し

竜田の乾勘兵衛

 

大西の北野勘兵衛

中山秀司

明治14年4月8日、61歳出直し

中山まつゑ

明治15年11月10日、32歳出直し、

山澤良助

明治16年6月19日、53歳出直し

 

 

 こうした先人の解釈は、事後的にそうだったかも知れませんが、神意はもっと別のところにあるそうです。

 

 「火水風ともしりぞくとしれ」とは、人の出直しを意味するのではなく、神様の巨大な守護を意味しているのです。

 

 例えば、カリフォルニアのLA周辺の山火事を止めますよ。能登半島の洪水を止めますよ、またこの2月の暴風を止めますよというような巨大な天災、天変地異が治まることを預言しているらしいのです。 

 

 その治まる理由は、3人の片腕といわれる人衆たちの磨かれた、治まった心に神様がご褒美として、与える守護なのです。

 

 その3人とは、誠の中の誠の精神をもった人たちであります。

 

 十柱の中でも元の道具主8人の魂の中の3人かもしれないし、磨き抜かれた普通のどじょうの魂かもしれません。

 

 歴史にを残す宗教家、優れた偉人の魂が生まれ変わって、地場に寄せられています。神が見定めつけた3人の魂の心に乗って、大きな守護を見る変革の年となるかもしれません。

 

 自分がその一人になるという気概をもって、この3年千日の後半、教祖の年祭を意義あるものにしたいものです。

 

 「2025年、日本は再び蘇る兆しを見せるであろう。2050年になったら列強は日本の底力を認めざるを得なくなるであろう.」

  (森信三の言葉、『致知』2025年2月号、p.6)

 

 楽しみな巳年です。   

 

 

 

 

 

以前の記事を改訂しました。

 

 

 今の真柱様がリハビリで回復されてきたご様子で、身上を押して、おつとめに出られるお姿が信徒に勇気と希望を与えております。

 

 

 心の成人をするにはどうすれば良いのか。日々の与え、磨きの事情をどれだけ喜べるのか、しっかり心澄まして通りたいと思います。

 

 NTTは昔は、電信電話公社と称して公営企業体でした。電話も電信も国の独占企業体によって経営され、その後、中曽根内閣の時に民営化されたことは、有名な話です。海外に電話するのがかなり高額だったので、アメリカの親戚に話すときは急いで大変でした。

 

 米国から親戚が来るので、昔の写真を調べていたら、自分が生まれた時の御祝いの電報を発見。今から61年前のもので、以下の写真です。

 

  天理市からの発信で、マサノブとは恐らく、御分家の中山正信先生だろうと推測されます。

 

 

 

  

  私が昭和62年の夏季修養科の時、中山正信先生に一度だけ東回廊にてご挨拶したことがあります。その後、まもなくお出直しされました。その時、すでにご身上を抱えていたようです。  

 

  モトヒデとは父の元英(モトフサ)で、当時はまだ北区西ヶ原に住んでいたころです。私は東京都北区西ヶ原の須賀田病院で生まれました。

 

  父はアメリカのNYで天理教の教会で結婚式を挙げて、CPAの資格をとって、日本に帰国しました。当時はPWJapanで公認会計士の仕事していたようです。

 

 祖母が熱心な天理教の布教師で、東京教区の教務支庁によく出入りしたことから、本部直属の布教所?だったらしいです。 

 祖母には船場の詰所?に幼い頃、連れていかれたのがお地場の原体験です。どこかの魚屋でドジョウを三島の本通りで見た記憶があります。

 

 その後、昭和49年頃、父が天理教の東京教区の野球チームで監督だったN口会長と再会して、子供の私は荒川区のH分教会で小学5年生ころから、天理教と関係を持つようになりました。

 

 私の天理教への研究は、内面的欲求から自発的に教理関係の図書を読み進めたところから始まりました。

 

 

 以下の写真は、電報とともに張り付いていた、親里の写真です。恐らく、私が生まれたころのお地場だと思われます。

 

 

 

 

 

 以前に書いたものを、書き直しました。

国会デジタルでも見らえる、桝井孝四郎さんの書籍『道の秋』の一節「おさしづに就て」からの学びと考察を入れました。

 

 この論説は、『道の友』に寄稿されたものからの採録かも知れません。

 知人の00様から「おさしづに就て」のタイトルで一から六まで区分けされた桝井孝四郎「『おさしづ』に就て」を頂きました。

 

 

 

 なおこのエッセーには、「昨年末『おさしづ』、本年春『おふでき』の本部より公刊」の一節があるが、昭和14年には、両署とも回収となっており、戦時体制下の宗教弾圧=「革新」を天理教は受けた。

 

 

 

 

 

 2021年頃に書いたものを修正しました。 その頃は、コロナ禍のなか、本業での役職もなかったので、空いた時間が大量にあったようです。今は、書く時間もないですが、読まれている方がいた記事だったので、再度、ここに掲載します。

 

 真柱の理とは、最新のお話によれば、単に役職をあらわす言葉ではなく、信仰心の真実の心を建てるという、より次元の高い意味がありま。  それは、別稿で書きたいと思います。

 

 
 
 

中山善司様   画像は以下のサイトより転載

 

 

 

 2024年10月24日、御本部大祭にて真柱様が神殿講話されました。 短いお話でした。 天保9年の話が全くなく、能登の地震から、今の時代の深刻な世界情勢を説かれて、神の急きこみが何かをそれぞれに各自で判断しなさい、年祭の目的は自己の責任において立てなさいということで、本部からの目標開示が今の年祭にはない事が判明しました。

 

 喜びの信仰、喜べる理、この道の尊い教えが何か、これからつづって参ります。    

 秋の本部大祭が曇り空の中、奈良県天理市の教会本部の神殿にて執行される。

 

 

 

 真柱様のおつとめ後の神殿講話もありました。

 

  大変短いものでしたが、身体不自由のなか渾身の想いでお話されたようでした。三年千日の中間地点にあたる。年祭は各教会ごとに目標を定めるという新機軸とのことである。正月の能登半島で地震、さらに9月にも大雨による同地での被害。神様のからのお仕込みの意味は何か、心の成人が足りないことをしっかり悟り、残りの年祭期間を勇んでお通り下さいという趣旨でした。

 

 青年会の総会は、本日前夜祭があり、明日の10月27日にあるようです。

 

 「秋を合図に」と時代が変わる今、しっかり心をつくり、日々完結の理を見ている中、神様の与えを存分にたんのうし、埃をキレイに払っていきたいと思う。

 

 実際のお話は以下でも聞けます。

 

 

 

 

拙稿で表題のテーマに関して、概説的な論説を書いたことがあるので、

以下、紹介したい。 以前は有料でしたが、今ではJstageにて無料で見れます。

 

引用する際は、以下の様に表記下さい。

 

村山元理(2021)「宗教学・神学から見たサステナビリティ 天理教の「かしもの・かりものの理」の思想」『サステナビリティ経営研究』第 1 巻 、日本経営倫理学会、p. 39-42。

 https://doi.org/10.20664/jabesssb.1.0_39

 

 

 

テーマの英文表記

 Religoius and Theological Studies and Sustainabilty

 The thought of Tenkiyo's "things lent and things borrowed"

  天理教では秋季大祭が各地の教会で営まれており、ご巡教された先生のお話をヒントに復習してみたい。

 

 天保9(1838)年10月26日が天理教の立教の元一日と呼ばれていて、それを祈念して御本部におかれても秋の御大祭が令和6年10月26日(土)に執行されることは言うまでもない。

 

 講師の論点から立教の元一日に関連して、以下の史実が指摘された。

 

1.天保8年10月26日に秀司の足痛があり、長滝村の庄屋で修験道の行者として名高い中野市兵衛に依頼して救いが起きる。その後、救われても翌日に同じ様に善右衛門(秀司さん)の足痛があり、合計3回も依頼に行った。そして9回は、中山家で寄加持(よせかじ、加持祈祷)を行う。各回400目の出費となる散財であった。

 

1-1.  中山善右衛門(秀司さん)の足痛に関して

 

 みのうちにとこにふそくのないものに   月日いがめてくろふかけたで  (十二号118) 

       (身の内にどこに不足の無い者に 月日いがめて苦労かけたで)  

 ねんけんハ三十九ねんもいせんにて   しんばいくろふなやみかけたで    (十二号119)

  (年限は三十九年も以前にて 心配苦労悩みかけたで)

 

*参照資料:

  松原浩一郎(2011)「天理教教祖中山みきの障害者観」『吉備国際大学研究紀要』第21号,p.37−44. 

 

2.天保9年10月23日に秀司さん(17歳)の足痛が午後からおこり、さらに夜になって夫・善兵衛様の眼病、教祖の腰痛が起きた。翌日の24日に寄加持を実施する。

 加持台となる、そよが不在で、教祖が代わりに、御幣をもって巫女役となる。その際、教祖に初の神がかり現象が発生する。3日に及ぶ神人問答があった。

 

 「天の将軍なり。元の神である。此の屋敷因縁あり、みきの心見澄し世界の人を救くるために天降りた。此の屋敷、親子諸共神の社に貰ひ受けたい。返答せよ」 

    [上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』]

「我は国常立命という神なり。また代わりて来る。」

「我神は面足命と云う神なり。我姿現せば恐ろしき神なり、我は頭十二有る大蛇なり。」

   [「神懸略記」小松本の十ハ年本、 中山正善(1957)『”こふき”の研究』p.144.]

「誰が来ても神は退かぬ。今種々心配なすは無理でなけれども二十年三十年経たなれば皆の者成程と思ふ日限が来るほどに」

    [上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』]

 「もし不承知ならば、この家、粉もないようにする」

    [芹澤光治良(1978)『教祖様』]

「此屋敷と親子諸俱、貰受ければ三千世界を助けさす。さも無くば、此家断絶に及ぼす」

   [「神懸略記」小松本の十ハ年本、 中山正善(1957)『”こふき”の研究』p.144.]

 

 

2-1.  この3日間、教祖は飲まず食わず、大音声で、ものスゴイ形相をして、現代でいう精神異常者のごとき様相に見えただろう。普段とは違う母親の姿に、隣室の子供たち(おまさ13歳、おはる7歳)は震えあがったという。三女こかんさんは、生後10っか月の乳幼児。

 

2-2.夫婦の理と救済心

 突発的な天啓が中山家の中で起きたが、24日の天啓の一声によって、天理教が始まったのではなく、26日に夫の善兵衛が神の社として教祖を受諾した日が、立教の日である。神の一方通行によってではなく、神と人間の双方の合意形成、すなわち夫婦の対話という相談から同意形成が生まれた。決して専制的、独裁的な妥協とは異なる。神と人との相互対話から天理教という道が開始された。神意の伝達者である天啓者と神意をうける人間側の代表者との相互互恵の中から、この道が始まったのである。

 

 御幣を振りまくり、「幣をお持ちなされた手は荒びて、畳にすりつけ血の滴る程でございました」(上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』)という。3日間も不眠不休で飲まず食わずにいれば、通常の人間の健康的限界を超えていることは容易に想像できる。ここで、善兵衛は、妻の身体をおもんぱかって、妻を救うために、親神の命令に従うことに同意したのであった。

 

 親族や近隣の名主もこの騒動の相談にあずかったという。芹澤によれば、以下の人たちも来ていた。

 

 教組の父の前川半七(74歳)、兄の杏助(46歳)

 別所村 庄屋 荻村伊兵衛

 福住村 無足人 勝田新右衛門

 庄屋敷村 足立源右衛門 

 

2-3.貧に落ち切る道

 天啓受託後の中山家は神の命令によって貧に落ち切る道中があり、夫の善兵衛さんは、素直に神の言うことに従うというより、

妻の中にいる貧乏神を呪っていたと思われる。

  農家の普通の妻が、世界の救済者へとなる取り組みを始める。亡くなるまでの14年間の道中について、あまり多くの史実が伝わっていない。

 

  嘉永6(1853)年 夫の善兵衛さんは出直す。

 

  教理的には、中山家の悪因縁の掃除、屋敷の掃除という時間である。教祖の雛型の前半生は、珍しい助けも救済もなく、家族を犠牲にした日々である。しかし世界助けの布石が敷かれる道中であった。  

 

2-4.教祖の魂の理と旬刻限の理と屋敷の理

 なぜ中山みきという農家の主婦に神懸かりが起きたのか。それは、後づけで開示されるが、教祖の魂が人間創造の際の道具神の一柱である「いざなみの命」だったことによる。人類の母親となる魂である。

  山澤良助筆十四年本には、以下のように書かれている。

 

 なハしろにつこふたこれで一の神 いざなみの神いせてハげゑく

   (苗代に使うたこれで一の神 いざなみの神伊勢では外宮)

 このかみハにんげんなるのもとのをや このをやさまハどこにござると

   (此神は人間なるの元の親 この親様は何処に御座ると)

 をもうならとふねん巳の八十と 四才にてこそやまへのこふり

   (思うなら当年巳の八十と 四才にてこそ山辺の郡)

 しよしきなかやまうじとゆうやしき ぞんめいにてぞをハしますなり

   (庄屋敷中山氏と云う屋敷 存命にてぞ在はしますなり)

         [中山正善(1957)『”こふき”の研究』,p.60. ]

 

 お父様という初代真柱が書いたとされる説話体十四年本には、以下のよう簡潔に書かれている。

 平カナを漢字にする。

 

  この世界人間始めは、九億九萬九千九百九十九年以前に、泥海の中より月日両人見定めつけて、種苗代を拵えへ、外なる道具皆寄せて、それに月日入り込み、段々守護して、この屋敷にて、九億九萬九千九百九十九人を三日三夜さに宿仕込み・・・

         [中山正善(1957)『”こふき”の研究』,p.80. ]

 

 天保9年10月26日という時点から遡り、九億九萬九千九百九十九年以前に人間創造が親神と道具神との相談で始まり、その魂をもった元の道具の神々8名が人間として、中山家の屋敷に参集していたのである。

 

 魂の洗い替え、出変わりを経て、道具神のお一人、00様も地場に再生されて、大きな御役目を果たされます。

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月日よりたいないよりも入こんで

ぢうよぢざいのさしずしよこや   (おふでさき10-74)

(月日より体内よりも入り込んで 自由自在のさしず証拠や)

 

 『おふでさき』は教祖(おやさま)が執筆された、神の言葉であり、神直々の指図(さしず)でもある。God Command Theoryと倫理学的には分類される、倫理的理論が説かれる。

 

 月日とは元の神であり、実の神であるが、そのような超越的実在が一者として、中山みきの肉体、あるい飯降伊蔵という肉体を借りて、自由自在にその神意を伝える。夜中でも監獄の中でも、神は語りかけるのである。

 

 教祖の生の神の声はほとんど書き取られなかったが、本席様の時代には書き取り体制が構築されて、『おさしづ』として残されている。

 

 教組や本席様という生身の人間を通じて、神の言葉が下される。天啓であり、啓示ともいわれる。その生き神の姿が神の実在を明かす証拠となり、理の所在を明かす。

 

 甘露台が人間創造の原点の地に建てられる預言が下され、6月29日(陰暦5月29日)に教祖は、甘露台の地点が中山家の屋敷の中にあることを初めて明らかにされた。

 

それゆへにいまゝでどこにない事を

ばかりゆううてはじめかけるで   (10-75)

(それ故に 今までどこにない事を ばかり言ううて始めかけるで)

 

 人間には全く未知のことを神は伝えたい。それは永遠の取り組みであり、本席様の遺言の『百日さしづ』にもある通り、永遠に神の思惑を伝えていきたい。 

 

 甘露台は人間進化の理想を示すものであり、人類の魂を一列に澄ます起点であることも明かされている。

 

このやしきかんろふだいをすへるのハ

にんけんはじめかけたしよこふ   (10-79)

(この屋敷 甘露台を据えるのは 人間始めかけた証拠) 

 

 なに事もみなこのとふりはちめかけ

せかいぢううの心すまする     (10-80)

 (何事も皆この道理 始めかけ 世界中の心澄まする)

 

 日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を取られたことが10月11日に発表された。50年ぶりの意外なノーベル平和賞の受賞おめでとうございます。核兵器のタブーに挑戦する世界の政治情勢への警鐘である。

 

 関連施設の第5福竜丸展示館は都内にあり、無料です。

 

 

 

 

 真の世界平和とは人類の心が甘露台の前で澄むという理想をこの道は明かしている。

 

 壮大な甘露台一条への道、永遠の道の一里塚として、本日記す。