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「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 

 以前に書いたものを、書き直しました。

国会デジタルでも見らえる、桝井孝四郎さんの書籍『道の秋』の一節「おさしづに就て」からの学びと考察を入れました。

 

 この論説は、『道の友』に寄稿されたものからの採録かも知れません。

 知人の00様から「おさしづに就て」のタイトルで一から六まで区分けされた桝井孝四郎「『おさしづ』に就て」を頂きました。

 

 

 

 なおこのエッセーには、「昨年末『おさしづ』、本年春『おふでき』の本部より公刊」の一節があるが、昭和14年には、両署とも回収となっており、戦時体制下の宗教弾圧=「革新」を天理教は受けた。

 

 

 

 

 

 2021年頃に書いたものを修正しました。 その頃は、コロナ禍のなか、本業での役職もなかったので、空いた時間が大量にあったようです。今は、書く時間もないですが、読まれている方がいた記事だったので、再度、ここに掲載します。

 

 真柱の理とは、最新のお話によれば、単に役職をあらわす言葉ではなく、信仰心の真実の心を建てるという、より次元の高い意味がありま。  それは、別稿で書きたいと思います。

 

 
 
 

中山善司様   画像は以下のサイトより転載

 

 

 

 2024年10月24日、御本部大祭にて真柱様が神殿講話されました。 短いお話でした。 天保9年の話が全くなく、能登の地震から、今の時代の深刻な世界情勢を説かれて、神の急きこみが何かをそれぞれに各自で判断しなさい、年祭の目的は自己の責任において立てなさいということで、本部からの目標開示が今の年祭にはない事が判明しました。

 

 喜びの信仰、喜べる理、この道の尊い教えが何か、これからつづって参ります。    

 秋の本部大祭が曇り空の中、奈良県天理市の教会本部の神殿にて執行される。

 

 

 

 真柱様のおつとめ後の神殿講話もありました。

 

  大変短いものでしたが、身体不自由のなか渾身の想いでお話されたようでした。三年千日の中間地点にあたる。年祭は各教会ごとに目標を定めるという新機軸とのことである。正月の能登半島で地震、さらに9月にも大雨による同地での被害。神様のからのお仕込みの意味は何か、心の成人が足りないことをしっかり悟り、残りの年祭期間を勇んでお通り下さいという趣旨でした。

 

 青年会の総会は、本日前夜祭があり、明日の10月27日にあるようです。

 

 「秋を合図に」と時代が変わる今、しっかり心をつくり、日々完結の理を見ている中、神様の与えを存分にたんのうし、埃をキレイに払っていきたいと思う。

 

 実際のお話は以下でも聞けます。

 

 

 

 

拙稿で表題のテーマに関して、概説的な論説を書いたことがあるので、

以下、紹介したい。 以前は有料でしたが、今ではJstageにて無料で見れます。

 

引用する際は、以下の様に表記下さい。

 

村山元理(2021)「宗教学・神学から見たサステナビリティ 天理教の「かしもの・かりものの理」の思想」『サステナビリティ経営研究』第 1 巻 、日本経営倫理学会、p. 39-42。

 https://doi.org/10.20664/jabesssb.1.0_39

 

 

 

テーマの英文表記

 Religoius and Theological Studies and Sustainabilty

 The thought of Tenkiyo's "things lent and things borrowed"

  天理教では秋季大祭が各地の教会で営まれており、ご巡教された先生のお話をヒントに復習してみたい。

 

 天保9(1838)年10月26日が天理教の立教の元一日と呼ばれていて、それを祈念して御本部におかれても秋の御大祭が令和6年10月26日(土)に執行されることは言うまでもない。

 

 講師の論点から立教の元一日に関連して、以下の史実が指摘された。

 

1.天保8年10月26日に秀司の足痛があり、長滝村の庄屋で修験道の行者として名高い中野市兵衛に依頼して救いが起きる。その後、救われても翌日に同じ様に善右衛門(秀司さん)の足痛があり、合計3回も依頼に行った。そして9回は、中山家で寄加持(よせかじ、加持祈祷)を行う。各回400目の出費となる散財であった。

 

1-1.  中山善右衛門(秀司さん)の足痛に関して

 

 みのうちにとこにふそくのないものに   月日いがめてくろふかけたで  (十二号118) 

       (身の内にどこに不足の無い者に 月日いがめて苦労かけたで)  

 ねんけんハ三十九ねんもいせんにて   しんばいくろふなやみかけたで    (十二号119)

  (年限は三十九年も以前にて 心配苦労悩みかけたで)

 

*参照資料:

  松原浩一郎(2011)「天理教教祖中山みきの障害者観」『吉備国際大学研究紀要』第21号,p.37−44. 

 

2.天保9年10月23日に秀司さん(17歳)の足痛が午後からおこり、さらに夜になって夫・善兵衛様の眼病、教祖の腰痛が起きた。翌日の24日に寄加持を実施する。

 加持台となる、そよが不在で、教祖が代わりに、御幣をもって巫女役となる。その際、教祖に初の神がかり現象が発生する。3日に及ぶ神人問答があった。

 

 「天の将軍なり。元の神である。此の屋敷因縁あり、みきの心見澄し世界の人を救くるために天降りた。此の屋敷、親子諸共神の社に貰ひ受けたい。返答せよ」 

    [上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』]

「我は国常立命という神なり。また代わりて来る。」

「我神は面足命と云う神なり。我姿現せば恐ろしき神なり、我は頭十二有る大蛇なり。」

   [「神懸略記」小松本の十ハ年本、 中山正善(1957)『”こふき”の研究』p.144.]

「誰が来ても神は退かぬ。今種々心配なすは無理でなけれども二十年三十年経たなれば皆の者成程と思ふ日限が来るほどに」

    [上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』]

 「もし不承知ならば、この家、粉もないようにする」

    [芹澤光治良(1978)『教祖様』]

「此屋敷と親子諸俱、貰受ければ三千世界を助けさす。さも無くば、此家断絶に及ぼす」

   [「神懸略記」小松本の十ハ年本、 中山正善(1957)『”こふき”の研究』p.144.]

 

 

2-1.  この3日間、教祖は飲まず食わず、大音声で、ものスゴイ形相をして、現代でいう精神異常者のごとき様相に見えただろう。普段とは違う母親の姿に、隣室の子供たち(おまさ13歳、おはる7歳)は震えあがったという。三女こかんさんは、生後10っか月の乳幼児。

 

2-2.夫婦の理と救済心

 突発的な天啓が中山家の中で起きたが、24日の天啓の一声によって、天理教が始まったのではなく、26日に夫の善兵衛が神の社として教祖を受諾した日が、立教の日である。神の一方通行によってではなく、神と人間の双方の合意形成、すなわち夫婦の対話という相談から同意形成が生まれた。決して専制的、独裁的な妥協とは異なる。神と人との相互対話から天理教という道が開始された。神意の伝達者である天啓者と神意をうける人間側の代表者との相互互恵の中から、この道が始まったのである。

 

 御幣を振りまくり、「幣をお持ちなされた手は荒びて、畳にすりつけ血の滴る程でございました」(上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』)という。3日間も不眠不休で飲まず食わずにいれば、通常の人間の健康的限界を超えていることは容易に想像できる。ここで、善兵衛は、妻の身体をおもんぱかって、妻を救うために、親神の命令に従うことに同意したのであった。

 

 親族や近隣の名主もこの騒動の相談にあずかったという。芹澤によれば、以下の人たちも来ていた。

 

 教組の父の前川半七(74歳)、兄の杏助(46歳)

 別所村 庄屋 荻村伊兵衛

 福住村 無足人 勝田新右衛門

 庄屋敷村 足立源右衛門 

 

2-3.貧に落ち切る道

 天啓受託後の中山家は神の命令によって貧に落ち切る道中があり、夫の善兵衛さんは、素直に神の言うことに従うというより、

妻の中にいる貧乏神を呪っていたと思われる。

  農家の普通の妻が、世界の救済者へとなる取り組みを始める。亡くなるまでの14年間の道中について、あまり多くの史実が伝わっていない。

 

  嘉永6(1853)年 夫の善兵衛さんは出直す。

 

  教理的には、中山家の悪因縁の掃除、屋敷の掃除という時間である。教祖の雛型の前半生は、珍しい助けも救済もなく、家族を犠牲にした日々である。しかし世界助けの布石が敷かれる道中であった。  

 

2-4.教祖の魂の理と旬刻限の理と屋敷の理

 なぜ中山みきという農家の主婦に神懸かりが起きたのか。それは、後づけで開示されるが、教祖の魂が人間創造の際の道具神の一柱である「いざなみの命」だったことによる。人類の母親となる魂である。

  山澤良助筆十四年本には、以下のように書かれている。

 

 なハしろにつこふたこれで一の神 いざなみの神いせてハげゑく

   (苗代に使うたこれで一の神 いざなみの神伊勢では外宮)

 このかみハにんげんなるのもとのをや このをやさまハどこにござると

   (此神は人間なるの元の親 この親様は何処に御座ると)

 をもうならとふねん巳の八十と 四才にてこそやまへのこふり

   (思うなら当年巳の八十と 四才にてこそ山辺の郡)

 しよしきなかやまうじとゆうやしき ぞんめいにてぞをハしますなり

   (庄屋敷中山氏と云う屋敷 存命にてぞ在はしますなり)

         [中山正善(1957)『”こふき”の研究』,p.60. ]

 

 お父様という初代真柱が書いたとされる説話体十四年本には、以下のよう簡潔に書かれている。

 平カナを漢字にする。

 

  この世界人間始めは、九億九萬九千九百九十九年以前に、泥海の中より月日両人見定めつけて、種苗代を拵えへ、外なる道具皆寄せて、それに月日入り込み、段々守護して、この屋敷にて、九億九萬九千九百九十九人を三日三夜さに宿仕込み・・・

         [中山正善(1957)『”こふき”の研究』,p.80. ]

 

 天保9年10月26日という時点から遡り、九億九萬九千九百九十九年以前に人間創造が親神と道具神との相談で始まり、その魂をもった元の道具の神々8名が人間として、中山家の屋敷に参集していたのである。

 

 魂の洗い替え、出変わりを経て、道具神のお一人、00様も地場に再生されて、大きな御役目を果たされます。

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月日よりたいないよりも入こんで

ぢうよぢざいのさしずしよこや   (おふでさき10-74)

(月日より体内よりも入り込んで 自由自在のさしず証拠や)

 

 『おふでさき』は教祖(おやさま)が執筆された、神の言葉であり、神直々の指図(さしず)でもある。God Command Theoryと倫理学的には分類される、倫理的理論が説かれる。

 

 月日とは元の神であり、実の神であるが、そのような超越的実在が一者として、中山みきの肉体、あるい飯降伊蔵という肉体を借りて、自由自在にその神意を伝える。夜中でも監獄の中でも、神は語りかけるのである。

 

 教祖の生の神の声はほとんど書き取られなかったが、本席様の時代には書き取り体制が構築されて、『おさしづ』として残されている。

 

 教組や本席様という生身の人間を通じて、神の言葉が下される。天啓であり、啓示ともいわれる。その生き神の姿が神の実在を明かす証拠となり、理の所在を明かす。

 

 甘露台が人間創造の原点の地に建てられる預言が下され、6月29日(陰暦5月29日)に教祖は、甘露台の地点が中山家の屋敷の中にあることを初めて明らかにされた。

 

それゆへにいまゝでどこにない事を

ばかりゆううてはじめかけるで   (10-75)

(それ故に 今までどこにない事を ばかり言ううて始めかけるで)

 

 人間には全く未知のことを神は伝えたい。それは永遠の取り組みであり、本席様の遺言の『百日さしづ』にもある通り、永遠に神の思惑を伝えていきたい。 

 

 甘露台は人間進化の理想を示すものであり、人類の魂を一列に澄ます起点であることも明かされている。

 

このやしきかんろふだいをすへるのハ

にんけんはじめかけたしよこふ   (10-79)

(この屋敷 甘露台を据えるのは 人間始めかけた証拠) 

 

 なに事もみなこのとふりはちめかけ

せかいぢううの心すまする     (10-80)

 (何事も皆この道理 始めかけ 世界中の心澄まする)

 

 日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を取られたことが10月11日に発表された。50年ぶりの意外なノーベル平和賞の受賞おめでとうございます。核兵器のタブーに挑戦する世界の政治情勢への警鐘である。

 

 関連施設の第5福竜丸展示館は都内にあり、無料です。

 

 

 

 

 真の世界平和とは人類の心が甘露台の前で澄むという理想をこの道は明かしている。

 

 壮大な甘露台一条への道、永遠の道の一里塚として、本日記す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 経済史と宗教史は水と油のように全く個別独立した分野として、研究されてきたように思われるが、

大谷渡(1992, p.30-31)の以下の言説には、大いに啓発された。

 

 「天理教と金光教は、一八九〇年代における日本の資本主義形成期に全国的に展開した。天理教の教会数は、一八九一(明治二四)から一八九六(明治二九)までの五年間に三二から一挙に一二九二に急増しており、一八九六年には秋田県を最後として沖縄を除く全国各府県に教会数を設置し終えた(中山正善『天理教伝道者に関する調査』、天理教道友社刊、一九三〇年)。金光教は・・・。」[大谷(1992) p.30-31]

 

「北分教会は、一八八〇年代後半に大阪北区を中心に東成郡、西成郡および近府県にも布教線を伸ばしつつあった天地組という講名を持った信者の小集団が、教会組織に改められたものであった。この北分教会は、一八九一年の設立以降一九〇〇年までの一〇年間に、西日本を中心に急速に布教線を伸ばすとともに、関東および北海道にも進出し、大いに部下教会を増加させた。一九〇〇年までに、大阪以外の府県に設置された部下教会は、一〇九に達した。

 葦津分教会は、明治二〇年代後半に中国地方と九州に布教線を伸ばして一六の部下教会を設け、明治三〇年代には、二二の部下教会が大阪以外の府県に設置された」(明治二〇年代と明治三〇年代の『道の友』による)。[大谷(1992) p.32]

 

 中西昭明編『天理教直属教会略史』(天理大学宗教文化研究所、一九五六年)によれば、教派神道の独立教派となっていたう神道本局(神道大教)所属の神道天理教会を設置して、布教の合法化に成功[大谷(1992) p.23]。講組織を神道の教会として整備することになった。

 

  明治22年 明心組 ➡ 神道天理教会所属 船場分教会

       真明組 ➡ 神道天理教会所属 芦津分教会

  明治24年 天地組 ➡ 神道天理教会所属 北分教会 (曽根崎新地)

  明治25年                 西支教会 (西区立売堀)

                      此花支教会 (南区湊町)

 

 社会や経済の発展の背後には、神様からの守護そのものが形として見えてきたことが理の視点から言える。信仰の有無にかかわらず、等しく人類全般は守護されている。世界があるのも、宇宙があるのもすべて神様が創造・維持されてきた有形の世界を我々は享受している。経済発展も企業の発展もデジタル化の推進もすべて神様の守護なしにはあり得ない。 

 

 特定教団の教会の発展だけが、神様の守護ではない。あまねく森羅万象は、神様の守護している有形の世界でおきている。

 

 天理教の立教(1838年)した年を契機として、地球の人口が急速に伸長したことがよく知られている。また我国においても、天保9年に神がこの世に現れて以降、幕末の動乱を経て明治維新へと日本は急速に近代化した。 

 

 宗教史と経済史を分断せず、統合的な次元から世界史が描かれていく時代もいつか来るだろう。

 

 

 

参考文献

大谷渡(1992)『教派神道と近代日本 天理教の史的考察』東方出版。

 

 大正4年の年末に、中山正善は数え11歳のとき、初代真柱が49歳で早世され、ただちに管長(真柱)に就任した。

 

 大正5年は、教祖30年祭で、信徒が15万人も地場に帰参したという(青地、p.225)。教祖30年祭に先立ち、本部神殿、教祖殿などが新築された。東洋一の木造建築物が出現した。しかし「その莫大な費用をひねり出すために、山のような借財をかかえこんだり、貧窮に落ち込んだ教会もすくなくない」(青地、p.225) 

 「この三十年祭の一年前、初代真柱の中山真之亮が出直した。一部の信者のあいだでは、本部神殿の新築のため各級教会を”搾取”しすぎたので、親神の怒りにふれたのだと、まことししやかにささやくものもあった。」(青地、p.225)

 

 教組30年祭の当時、借財に苦しむ教会が多かったそうだ(青地、p.225)。

 

 この当時、天理教北大教会(茨木基忠会長)では、茨木基敬様(旧長公)の天啓のもと、北の軍艦として、大正4年6月には部内の巡教で、教えを徹底する中、借財は返済し、救済の広がりがあった。【天理大学の学会の報告資料より】

 

 また初代真柱が出直された理由は、青地が推測している無理なお供えを強要したことよりも、基敬でない基敬の神の言葉である天啓を受け入れなかったことが、真の原因であることも「御水の御伝へ」の啓示書に書かれている。

【天理大学の学会の報告資料より】

 

 さて、二代真柱の中山正善は、昭和43年に63歳で突如、出直すまで、真柱の地位にあった。天理教の教団の統率者であった。青地(1968)の言葉によれば、独裁君主であった。

 大正14年に東大に入学。文学部宗教学科卒で、東大の姉崎正治(雅号・嘲風)の弟子である。近代的な宗教学を修め、側近にも知識人を集めた人である。

 

 ご母堂様といわれた母・中山たまへ(中山みきの直系の孫、中山秀司の一人娘)からは、「なにものも恐れるな」ということを繰り返し教えられた。「私は子供の頃から、他人の頭をたたいて育ってきた。」という腕白少年であった。

 その中山たまへ様[1877-1938]について、「彼女は気性もつよく、女ながら相当の政治的手腕の持主だったと言われている。」と青地は書いている。

 

 中山たまへ様について、以下のブログが参考になります。

 

 

 

 大正7年7月11日から、中山たまへ様(管長公未亡人と呼ばれていた)による受訓が開始した。村山はこの事実を「天理教の世俗化が決定した」と評価し、日本宗教学会誌「宗教研究」別冊号に投稿中である。  

 

 さて、上田奈良糸様によるお授けの運びは、前年の大正6年に茨木基敬さんの休職処分の前後から事情が生まれ、お運びがストップ。 500人の受訓希望者を実家に帰していた。【天理大学の学会の報告資料より】

 

 大正7年1月16日に茨木基敬・基忠への免職辞令が本部の集団的通牒で発令。

     3月22日 北大教会の土地建物其他全部の引継登記を茨木家から本部に完了

     3月23日 上田奈良糸様が精神的危機でお運びの完全停止    【天理大学の学会での報告資料より】

 

 

 以下の青地の原文を掲載。

 

 

 

二代真柱の功績として、(青地、p.261) によれば、以下の通り。 

 

1, 教義の確立

2,教団の近代化

3,神殿、<おやさとやかた>など<地場>の大造営

4,真柱の権威の絶対化

5,学問、文化、スポーツへの貢献

 

 学問への貢献として、天理図書館のコレクション、天理参考館のコレクションなどは、今回の宗教学会でも展示され、内外の学者たちも参観された。

 

以上

 

参考文献

青地晨(1968)『天理教』弘文堂新社。

 

 

 

 

 清水雅人著「松緑神道大和山ー辺境開拓の宗教共同体」(p.103-146)を読む。

 出口栄二・梅原正紀・清水雅人『新宗教の世界Ⅳ』(昭和53年、大蔵出版)に所載の文章。

 

   神道系で教祖がいる新宗教というカテゴリーで、戦前に創唱されたが、天皇制には反発しなかった運動として展開したそうだ。

 教組(大和松風様)は蒔炭商人であったが、36歳に不思議なことがあり、厳し修行に入る。彼を支えた妻も偉かった。娘は神の言葉を伝える神伝者であった。

 教祖の息子は東大で宗教学科出身。この方は教主となり、大和小松風(田沢康三郎)さんだった。

 青森の辺境の地に、自営的な理想の宗教共同体を形成している。 

 他宗教を批判せず、あらゆる宗教は同根で同じ方向でいつかは収れんするという思想もある。松風塾高等学校も作る。 

 伊勢神宮に参拝し、比叡山の永遠の法灯も受け継ぐ、祖先崇拝も受け入れる。

 

 ロバート・キサラさんがその学位論文で平和運動の事例として、松緑神道大和山を扱っていたことも分かった。

 最近では、科研でも研究されている教団である。 

 

  その昔、大学院生のころ、松緑神道大和山の信徒の研究者の報告を聞いたことがあり、前々から気になっていた教団であった。

 

 HPも立派にあり、現在でも活動が続く。青森に行ったときは、訪問してみたい教団である。