「天理教」は宗教か、真実の教えか -5ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

拙稿で表題のテーマに関して、概説的な論説を書いたことがあるので、

以下、紹介したい。 以前は有料でしたが、今ではJstageにて無料で見れます。

 

引用する際は、以下の様に表記下さい。

 

村山元理(2021)「宗教学・神学から見たサステナビリティ 天理教の「かしもの・かりものの理」の思想」『サステナビリティ経営研究』第 1 巻 、日本経営倫理学会、p. 39-42。

 https://doi.org/10.20664/jabesssb.1.0_39

 

 

 

テーマの英文表記

 Religoius and Theological Studies and Sustainabilty

 The thought of Tenkiyo's "things lent and things borrowed"

  天理教では秋季大祭が各地の教会で営まれており、ご巡教された先生のお話をヒントに復習してみたい。

 

 天保9(1838)年10月26日が天理教の立教の元一日と呼ばれていて、それを祈念して御本部におかれても秋の御大祭が令和6年10月26日(土)に執行されることは言うまでもない。

 

 講師の論点から立教の元一日に関連して、以下の史実が指摘された。

 

1.天保8年10月26日に秀司の足痛があり、長滝村の庄屋で修験道の行者として名高い中野市兵衛に依頼して救いが起きる。その後、救われても翌日に同じ様に善右衛門(秀司さん)の足痛があり、合計3回も依頼に行った。そして9回は、中山家で寄加持(よせかじ、加持祈祷)を行う。各回400目の出費となる散財であった。

 

1-1.  中山善右衛門(秀司さん)の足痛に関して

 

 みのうちにとこにふそくのないものに   月日いがめてくろふかけたで  (十二号118) 

       (身の内にどこに不足の無い者に 月日いがめて苦労かけたで)  

 ねんけんハ三十九ねんもいせんにて   しんばいくろふなやみかけたで    (十二号119)

  (年限は三十九年も以前にて 心配苦労悩みかけたで)

 

*参照資料:

  松原浩一郎(2011)「天理教教祖中山みきの障害者観」『吉備国際大学研究紀要』第21号,p.37−44. 

 

2.天保9年10月23日に秀司さん(17歳)の足痛が午後からおこり、さらに夜になって夫・善兵衛様の眼病、教祖の腰痛が起きた。翌日の24日に寄加持を実施する。

 加持台となる、そよが不在で、教祖が代わりに、御幣をもって巫女役となる。その際、教祖に初の神がかり現象が発生する。3日に及ぶ神人問答があった。

 

 「天の将軍なり。元の神である。此の屋敷因縁あり、みきの心見澄し世界の人を救くるために天降りた。此の屋敷、親子諸共神の社に貰ひ受けたい。返答せよ」 

    [上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』]

「我は国常立命という神なり。また代わりて来る。」

「我神は面足命と云う神なり。我姿現せば恐ろしき神なり、我は頭十二有る大蛇なり。」

   [「神懸略記」小松本の十ハ年本、 中山正善(1957)『”こふき”の研究』p.144.]

「誰が来ても神は退かぬ。今種々心配なすは無理でなけれども二十年三十年経たなれば皆の者成程と思ふ日限が来るほどに」

    [上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』]

 「もし不承知ならば、この家、粉もないようにする」

    [芹澤光治良(1978)『教祖様』]

「此屋敷と親子諸俱、貰受ければ三千世界を助けさす。さも無くば、此家断絶に及ぼす」

   [「神懸略記」小松本の十ハ年本、 中山正善(1957)『”こふき”の研究』p.144.]

 

 

2-1.  この3日間、教祖は飲まず食わず、大音声で、ものスゴイ形相をして、現代でいう精神異常者のごとき様相に見えただろう。普段とは違う母親の姿に、隣室の子供たち(おまさ13歳、おはる7歳)は震えあがったという。三女こかんさんは、生後10っか月の乳幼児。

 

2-2.夫婦の理と救済心

 突発的な天啓が中山家の中で起きたが、24日の天啓の一声によって、天理教が始まったのではなく、26日に夫の善兵衛が神の社として教祖を受諾した日が、立教の日である。神の一方通行によってではなく、神と人間の双方の合意形成、すなわち夫婦の対話という相談から同意形成が生まれた。決して専制的、独裁的な妥協とは異なる。神と人との相互対話から天理教という道が開始された。神意の伝達者である天啓者と神意をうける人間側の代表者との相互互恵の中から、この道が始まったのである。

 

 御幣を振りまくり、「幣をお持ちなされた手は荒びて、畳にすりつけ血の滴る程でございました」(上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』)という。3日間も不眠不休で飲まず食わずにいれば、通常の人間の健康的限界を超えていることは容易に想像できる。ここで、善兵衛は、妻の身体をおもんぱかって、妻を救うために、親神の命令に従うことに同意したのであった。

 

 親族や近隣の名主もこの騒動の相談にあずかったという。芹澤によれば、以下の人たちも来ていた。

 

 教組の父の前川半七(74歳)、兄の杏助(46歳)

 別所村 庄屋 荻村伊兵衛

 福住村 無足人 勝田新右衛門

 庄屋敷村 足立源右衛門 

 

2-3.貧に落ち切る道

 天啓受託後の中山家は神の命令によって貧に落ち切る道中があり、夫の善兵衛さんは、素直に神の言うことに従うというより、

妻の中にいる貧乏神を呪っていたと思われる。

  農家の普通の妻が、世界の救済者へとなる取り組みを始める。亡くなるまでの14年間の道中について、あまり多くの史実が伝わっていない。

 

  嘉永6(1853)年 夫の善兵衛さんは出直す。

 

  教理的には、中山家の悪因縁の掃除、屋敷の掃除という時間である。教祖の雛型の前半生は、珍しい助けも救済もなく、家族を犠牲にした日々である。しかし世界助けの布石が敷かれる道中であった。  

 

2-4.教祖の魂の理と旬刻限の理と屋敷の理

 なぜ中山みきという農家の主婦に神懸かりが起きたのか。それは、後づけで開示されるが、教祖の魂が人間創造の際の道具神の一柱である「いざなみの命」だったことによる。人類の母親となる魂である。

  山澤良助筆十四年本には、以下のように書かれている。

 

 なハしろにつこふたこれで一の神 いざなみの神いせてハげゑく

   (苗代に使うたこれで一の神 いざなみの神伊勢では外宮)

 このかみハにんげんなるのもとのをや このをやさまハどこにござると

   (此神は人間なるの元の親 この親様は何処に御座ると)

 をもうならとふねん巳の八十と 四才にてこそやまへのこふり

   (思うなら当年巳の八十と 四才にてこそ山辺の郡)

 しよしきなかやまうじとゆうやしき ぞんめいにてぞをハしますなり

   (庄屋敷中山氏と云う屋敷 存命にてぞ在はしますなり)

         [中山正善(1957)『”こふき”の研究』,p.60. ]

 

 お父様という初代真柱が書いたとされる説話体十四年本には、以下のよう簡潔に書かれている。

 平カナを漢字にする。

 

  この世界人間始めは、九億九萬九千九百九十九年以前に、泥海の中より月日両人見定めつけて、種苗代を拵えへ、外なる道具皆寄せて、それに月日入り込み、段々守護して、この屋敷にて、九億九萬九千九百九十九人を三日三夜さに宿仕込み・・・

         [中山正善(1957)『”こふき”の研究』,p.80. ]

 

 天保9年10月26日という時点から遡り、九億九萬九千九百九十九年以前に人間創造が親神と道具神との相談で始まり、その魂をもった元の道具の神々8名が人間として、中山家の屋敷に参集していたのである。

 

 魂の洗い替え、出変わりを経て、道具神のお一人、00様も地場に再生されて、大きな御役目を果たされます。

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月日よりたいないよりも入こんで

ぢうよぢざいのさしずしよこや   (おふでさき10-74)

(月日より体内よりも入り込んで 自由自在のさしず証拠や)

 

 『おふでさき』は教祖(おやさま)が執筆された、神の言葉であり、神直々の指図(さしず)でもある。God Command Theoryと倫理学的には分類される、倫理的理論が説かれる。

 

 月日とは元の神であり、実の神であるが、そのような超越的実在が一者として、中山みきの肉体、あるい飯降伊蔵という肉体を借りて、自由自在にその神意を伝える。夜中でも監獄の中でも、神は語りかけるのである。

 

 教祖の生の神の声はほとんど書き取られなかったが、本席様の時代には書き取り体制が構築されて、『おさしづ』として残されている。

 

 教組や本席様という生身の人間を通じて、神の言葉が下される。天啓であり、啓示ともいわれる。その生き神の姿が神の実在を明かす証拠となり、理の所在を明かす。

 

 甘露台が人間創造の原点の地に建てられる預言が下され、6月29日(陰暦5月29日)に教祖は、甘露台の地点が中山家の屋敷の中にあることを初めて明らかにされた。

 

それゆへにいまゝでどこにない事を

ばかりゆううてはじめかけるで   (10-75)

(それ故に 今までどこにない事を ばかり言ううて始めかけるで)

 

 人間には全く未知のことを神は伝えたい。それは永遠の取り組みであり、本席様の遺言の『百日さしづ』にもある通り、永遠に神の思惑を伝えていきたい。 

 

 甘露台は人間進化の理想を示すものであり、人類の魂を一列に澄ます起点であることも明かされている。

 

このやしきかんろふだいをすへるのハ

にんけんはじめかけたしよこふ   (10-79)

(この屋敷 甘露台を据えるのは 人間始めかけた証拠) 

 

 なに事もみなこのとふりはちめかけ

せかいぢううの心すまする     (10-80)

 (何事も皆この道理 始めかけ 世界中の心澄まする)

 

 日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を取られたことが10月11日に発表された。50年ぶりの意外なノーベル平和賞の受賞おめでとうございます。核兵器のタブーに挑戦する世界の政治情勢への警鐘である。

 

 関連施設の第5福竜丸展示館は都内にあり、無料です。

 

 

 

 

 真の世界平和とは人類の心が甘露台の前で澄むという理想をこの道は明かしている。

 

 壮大な甘露台一条への道、永遠の道の一里塚として、本日記す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 経済史と宗教史は水と油のように全く個別独立した分野として、研究されてきたように思われるが、

大谷渡(1992, p.30-31)の以下の言説には、大いに啓発された。

 

 「天理教と金光教は、一八九〇年代における日本の資本主義形成期に全国的に展開した。天理教の教会数は、一八九一(明治二四)から一八九六(明治二九)までの五年間に三二から一挙に一二九二に急増しており、一八九六年には秋田県を最後として沖縄を除く全国各府県に教会数を設置し終えた(中山正善『天理教伝道者に関する調査』、天理教道友社刊、一九三〇年)。金光教は・・・。」[大谷(1992) p.30-31]

 

「北分教会は、一八八〇年代後半に大阪北区を中心に東成郡、西成郡および近府県にも布教線を伸ばしつつあった天地組という講名を持った信者の小集団が、教会組織に改められたものであった。この北分教会は、一八九一年の設立以降一九〇〇年までの一〇年間に、西日本を中心に急速に布教線を伸ばすとともに、関東および北海道にも進出し、大いに部下教会を増加させた。一九〇〇年までに、大阪以外の府県に設置された部下教会は、一〇九に達した。

 葦津分教会は、明治二〇年代後半に中国地方と九州に布教線を伸ばして一六の部下教会を設け、明治三〇年代には、二二の部下教会が大阪以外の府県に設置された」(明治二〇年代と明治三〇年代の『道の友』による)。[大谷(1992) p.32]

 

 中西昭明編『天理教直属教会略史』(天理大学宗教文化研究所、一九五六年)によれば、教派神道の独立教派となっていたう神道本局(神道大教)所属の神道天理教会を設置して、布教の合法化に成功[大谷(1992) p.23]。講組織を神道の教会として整備することになった。

 

  明治22年 明心組 ➡ 神道天理教会所属 船場分教会

       真明組 ➡ 神道天理教会所属 芦津分教会

  明治24年 天地組 ➡ 神道天理教会所属 北分教会 (曽根崎新地)

  明治25年                 西支教会 (西区立売堀)

                      此花支教会 (南区湊町)

 

 社会や経済の発展の背後には、神様からの守護そのものが形として見えてきたことが理の視点から言える。信仰の有無にかかわらず、等しく人類全般は守護されている。世界があるのも、宇宙があるのもすべて神様が創造・維持されてきた有形の世界を我々は享受している。経済発展も企業の発展もデジタル化の推進もすべて神様の守護なしにはあり得ない。 

 

 特定教団の教会の発展だけが、神様の守護ではない。あまねく森羅万象は、神様の守護している有形の世界でおきている。

 

 天理教の立教(1838年)した年を契機として、地球の人口が急速に伸長したことがよく知られている。また我国においても、天保9年に神がこの世に現れて以降、幕末の動乱を経て明治維新へと日本は急速に近代化した。 

 

 宗教史と経済史を分断せず、統合的な次元から世界史が描かれていく時代もいつか来るだろう。

 

 

 

参考文献

大谷渡(1992)『教派神道と近代日本 天理教の史的考察』東方出版。

 

 大正4年の年末に、中山正善は数え11歳のとき、初代真柱が49歳で早世され、ただちに管長(真柱)に就任した。

 

 大正5年は、教祖30年祭で、信徒が15万人も地場に帰参したという(青地、p.225)。教祖30年祭に先立ち、本部神殿、教祖殿などが新築された。東洋一の木造建築物が出現した。しかし「その莫大な費用をひねり出すために、山のような借財をかかえこんだり、貧窮に落ち込んだ教会もすくなくない」(青地、p.225) 

 「この三十年祭の一年前、初代真柱の中山真之亮が出直した。一部の信者のあいだでは、本部神殿の新築のため各級教会を”搾取”しすぎたので、親神の怒りにふれたのだと、まことししやかにささやくものもあった。」(青地、p.225)

 

 教組30年祭の当時、借財に苦しむ教会が多かったそうだ(青地、p.225)。

 

 この当時、天理教北大教会(茨木基忠会長)では、茨木基敬様(旧長公)の天啓のもと、北の軍艦として、大正4年6月には部内の巡教で、教えを徹底する中、借財は返済し、救済の広がりがあった。【天理大学の学会の報告資料より】

 

 また初代真柱が出直された理由は、青地が推測している無理なお供えを強要したことよりも、基敬でない基敬の神の言葉である天啓を受け入れなかったことが、真の原因であることも「御水の御伝へ」の啓示書に書かれている。

【天理大学の学会の報告資料より】

 

 さて、二代真柱の中山正善は、昭和43年に63歳で突如、出直すまで、真柱の地位にあった。天理教の教団の統率者であった。青地(1968)の言葉によれば、独裁君主であった。

 大正14年に東大に入学。文学部宗教学科卒で、東大の姉崎正治(雅号・嘲風)の弟子である。近代的な宗教学を修め、側近にも知識人を集めた人である。

 

 ご母堂様といわれた母・中山たまへ(中山みきの直系の孫、中山秀司の一人娘)からは、「なにものも恐れるな」ということを繰り返し教えられた。「私は子供の頃から、他人の頭をたたいて育ってきた。」という腕白少年であった。

 その中山たまへ様[1877-1938]について、「彼女は気性もつよく、女ながら相当の政治的手腕の持主だったと言われている。」と青地は書いている。

 

 中山たまへ様について、以下のブログが参考になります。

 

 

 

 大正7年7月11日から、中山たまへ様(管長公未亡人と呼ばれていた)による受訓が開始した。村山はこの事実を「天理教の世俗化が決定した」と評価し、日本宗教学会誌「宗教研究」別冊号に投稿中である。  

 

 さて、上田奈良糸様によるお授けの運びは、前年の大正6年に茨木基敬さんの休職処分の前後から事情が生まれ、お運びがストップ。 500人の受訓希望者を実家に帰していた。【天理大学の学会の報告資料より】

 

 大正7年1月16日に茨木基敬・基忠への免職辞令が本部の集団的通牒で発令。

     3月22日 北大教会の土地建物其他全部の引継登記を茨木家から本部に完了

     3月23日 上田奈良糸様が精神的危機でお運びの完全停止    【天理大学の学会での報告資料より】

 

 

 以下の青地の原文を掲載。

 

 

 

二代真柱の功績として、(青地、p.261) によれば、以下の通り。 

 

1, 教義の確立

2,教団の近代化

3,神殿、<おやさとやかた>など<地場>の大造営

4,真柱の権威の絶対化

5,学問、文化、スポーツへの貢献

 

 学問への貢献として、天理図書館のコレクション、天理参考館のコレクションなどは、今回の宗教学会でも展示され、内外の学者たちも参観された。

 

以上

 

参考文献

青地晨(1968)『天理教』弘文堂新社。

 

 

 

 

 清水雅人著「松緑神道大和山ー辺境開拓の宗教共同体」(p.103-146)を読む。

 出口栄二・梅原正紀・清水雅人『新宗教の世界Ⅳ』(昭和53年、大蔵出版)に所載の文章。

 

   神道系で教祖がいる新宗教というカテゴリーで、戦前に創唱されたが、天皇制には反発しなかった運動として展開したそうだ。

 教組(大和松風様)は蒔炭商人であったが、36歳に不思議なことがあり、厳し修行に入る。彼を支えた妻も偉かった。娘は神の言葉を伝える神伝者であった。

 教祖の息子は東大で宗教学科出身。この方は教主となり、大和小松風(田沢康三郎)さんだった。

 青森の辺境の地に、自営的な理想の宗教共同体を形成している。 

 他宗教を批判せず、あらゆる宗教は同根で同じ方向でいつかは収れんするという思想もある。松風塾高等学校も作る。 

 伊勢神宮に参拝し、比叡山の永遠の法灯も受け継ぐ、祖先崇拝も受け入れる。

 

 ロバート・キサラさんがその学位論文で平和運動の事例として、松緑神道大和山を扱っていたことも分かった。

 最近では、科研でも研究されている教団である。 

 

  その昔、大学院生のころ、松緑神道大和山の信徒の研究者の報告を聞いたことがあり、前々から気になっていた教団であった。

 

 HPも立派にあり、現在でも活動が続く。青森に行ったときは、訪問してみたい教団である。

 

 

 

「天理教の天啓継承問題の探究-教祖存命の理と茨木事件の再考-」

のタイトルで、研究者向けに初公開しました。日本宗教学会(天理大学で開催)での報告は21年ぶりでした。

前回も天理大学で、その時は、大会の支援もさせていただきました。

 

Researchmapにても、当日の資料を資料公開からダウンロードできます。

 

 

 

アクセス番号を希望の方は、メッセージを下さい。

大学名のわかる研究者のみに配布します。

 

 

 

 

 天理教の天啓問題で、必ず出て来るのが伊藤青年(現在の天命庵)[1963- ]と彼に教祖(おやさま)が憑依したと信じた小説家の芹沢光治良[1896-1993]さんである。

 芹沢光治良さんの晩年の最後の文学活動が新潮社からでた『神の微笑』(1986)に始まる「神の三部作」を含む8冊(1986-1993)は、天理教に関連してニューエイジ思想にも広がる宗教的霊性あふれる作品群として知られている。

 伊藤青年こと大徳寺昭輝さんの存在は、芹沢氏の小説で世に広がったらしい。大徳寺さんのもとには天理教の信仰者たちもかなり惹かれたことは、教祖存命の理への希求を表明しているだろう。救済の実と無欲な姿から、ファンが多いようだ。

 

 

 

 ただ、ここで、注意したいことは、この神の三部作の前に、以下の書籍が書かれたことである。

 

 芹沢光治良(1978)『死の扉の前で』新潮社

 

 芹沢氏は、この書籍で引退を表明されたそうだが、伊藤青年との出会いから、筆を再度起こされることになった[弓山(2005)278頁]。

 

 この書籍は天理教の二代真柱と交流のあった芹沢氏が、二代真柱の中山正善の姿を書いたそうで、真柱の人間像が描かれているそうだ。これに対して、飯田照明先生の批判の書として『コンゴ河のほとりでー『死の扉の前で』の読み方』(私家版、1978年)もあるそうだ[弓山(2005)292頁]。

 

 以上まえがきが長くなったが、この書籍の問題点を以下指摘したい。ある程度事実に即した記述なので、誤った史実が混入しているのはやむを得ないが、誤りは誤りなので以下指摘したい。

 

 同書の99ページからの記述に以下があるそうだ。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~hikino-effect/idekunimuhon.html

 

 「僕にも解らなかったのです。処が、『教祖様』の資料を調べているうちに、天理教の歴史に目を向けて、偶然手にはいった天理教関係の参考年表に-大正五年一月教祖三十年祭執行とあって、同八月、播州井出くにむほんと、あるのを発見して、目を見開きましたよ。このために、真柱はああ言ったのだなと、合点したが………その三十年祭前後に、天啓事件を起した水屋敷事件の茨木基敬や天理本道の大西愛次郎は、元来天理教の信者であるばかりでなく、教会長で重要な人物ですから、謀反人(むほんにん)の極印を押されるべきだが、天理教の信者でないこの婦人のむほんは、何か重大な意味がありそうで、教祖の三十年祭前後の天理教の歴史を、あれこれさぐったものです……君は天理教の歴史を勉強していませんか」

 

 教組三十年祭当時の天啓事件に関連した記述であるが、「水屋敷事件の茨木基敬」の箇所は明らかに誤りです水屋敷事件とは安堵の飯田岩次郎が起こした安堵事件とも呼ばれるもので、本席様の時代におきた天理教の異端事件として有名です。 

 

 この引用部分は引野様のサイトから引用させてもらいました。引野様は最近ご身上になられたそうで、高慢の心を反省されいる文章に心打たれました。 恐らく教会本部が存命の理を実現していない汚れについてよく批判されている立派な方のようです。

https://hikino-effect.seesaa.net/article/504066731.html

 

引野様は、天命庵での救いを体験されたそうで、参考になりました。  

 

ただ、天命庵は、弓山著(279頁)にあるように分派の流れの影響下(天理神口明場所系、月日三世の道真知岳本部梅教会と婚姻関係を結んでいる女性が、伊藤青年の母方のおば)にあり、真実の天啓の流れとは異なると私は信じています。

 

私も、その昔、一度だけ熱海に参って、本当に青年でもあった、当時の伊藤青年さんの謦咳に接しました。 

紫色の着物を召して、座布団に正坐されながら、ものすごい迫力で、女性の声を語る熱演には驚きました。音声啓示の内容はすみませんが、陳腐でした。そして周囲の支えるスタッフに胡散臭さを感じてしまいました。  

 

 

参照 

 弓山達也(2005)『天啓のゆくえー宗教が分派するとき』日本地域社会研究所

 

 

 

東京都と練馬区の天然記念物となっている大ケヤキが練馬区の練馬白山神社にございます。

御神木といってもいい、大変立派な巨樹で、東京都の中でも最も古い樹齢900年のケヤキらしいです。

1083年、奥州の後三年の役に大軍を率いた源義家が祈願のために奉納したといわれるケヤキです。階段上の巨樹は倒れ、こちらの巨樹はかろうじて生き残っています。 強い生命力を感じる、神々しい巨樹です。  

 

なお都内の巨樹については、以下のサイトが詳しいです。

 

 

 

 

 

 新興の神の教えを世界に広げるために、教祖は自ら、高貴な場所に行かれた。すなわち、弟子たちを連れて、徒歩にて山村御殿(奈良市上町)を訪問して、当局(奈良県庁社寺係)の稲田専造に説かれた。明治7年12月23日の日であった。この年は大和神社の神職が詰問に来るなど、対外的に動きの激しい節の年であった。

 

 山村御殿(山村御所、圓照寺)とは、伏見宮文秀女王が在籍する大和3門跡寺院の一つで、天皇家とも関係する寺院であった。

訪問された方のブログが結構あり、以下も参考に。

 

 

 

 

 

 Google Mapを利用すると天理市三島から山村御所へは、6.3kmで徒歩で1時半である。途中で教祖はつまずかれた。すなわち、「田部村の小字車返で、ふと躓いて下唇を怪我なさった。」という。教祖の身体のけがは、不吉な予兆ではなく、「下からせり上がる。」との仰せであった。

 

 一種の高山布教に相当するイベントであった山村御殿の訪問であった。詳しくは、教祖伝 『第6章 ぢば定め』の箇所をお読みください。

 

https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/402976002.html

 

また以下の解説も、黒住教に傾倒した伏見宮文秀女王の心情も分析していて秀逸です。

 

http://www.rendaico.jp/nakayamamiyuki/mikiryakuden/mikiryakuden_58yamamuragotenmondoco.htm

 

 

 本稿では、この訪問の翌日にあった、3首の『おふでさき号外』と呼ばれる神意を読み解きたい。背景事情が明確な中での、3首のお歌である。

 

 

翌二十四日(陰暦十一月十六日)朝、教祖は、

 

にち/\に心つくしたものだねを 神がたしかにうけとりている

 

しんぢつに神のうけとるものだねわ いつになりてもくさるめわなし

 

たん/\とこのものだねがはへたなら これまつだいのこふきなるそや (おふでさき号外)

 

と、詠まれた。

 

 ここには、信仰心のあり方の極意が説かれているように思われる。政治的な弾圧の中で、信仰心の維持は困難を極める。実際に、仲田儀三郎さんは、その後、獄舎で仕打ちを受ける中で、心を倒してしまわれた。教祖も獄舎に繋がれて、身体的な凌辱を受けたこともあった。信仰心をもてば、踏み絵で弾圧されたキリシタンたちと同様な目に合うのである。

 目先の損得か、永遠の地平にたった正義を取るか。人間心は常に転ぶのである。 

 

 喜べない心、不足の心が人間にはつきものである。

 

 信教の自由が保証されている現代日本において、どれだけ純粋無垢に教祖の心に従うことが出来ているか。コロナ禍があり、戦争があり、今夏も異常な猛暑が続く。神はあるのかないのか? 

 

 神、月日、おやと様々な呼称で呼ばれる、親神様が天保9年から教祖を通じて顕現された。

 

 永遠に説き続ける教祖は存命の理として今現代もおふでさきの神意のままに説き続かれる。 

 

 これに対して受け取る人間のあり方が問われている。

 

 本真実を求める心はすべて神の心の内にある。貸しもの借り物の守護の理、心通りの守護の理を心に治め、陽気で勇んだ精神が持続可能か。

 

 日々悪しき心を払って、守護をすみずみまで感じられる敏感な心が肝要である。その喜びの種がいつ芽生えるのかは神のむねの内にある。

 

 良き心の種を蒔き続け、やがて「末代のこうき」という永遠に語られるストーリーが残される。そして神様とのご縁のもとに魂は再生するのである。

 

 一名一人の信仰心のあり方を説く、永遠の指標となる教えがこの3首に込めれている。