立教の元一日 | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

  天理教では秋季大祭が各地の教会で営まれており、ご巡教された先生のお話をヒントに復習してみたい。

 

 天保9(1838)年10月26日が天理教の立教の元一日と呼ばれていて、それを祈念して御本部におかれても秋の御大祭が令和6年10月26日(土)に執行されることは言うまでもない。

 

 講師の論点から立教の元一日に関連して、以下の史実が指摘された。

 

1.天保8年10月26日に秀司の足痛があり、長滝村の庄屋で修験道の行者として名高い中野市兵衛に依頼して救いが起きる。その後、救われても翌日に同じ様に善右衛門(秀司さん)の足痛があり、合計3回も依頼に行った。そして9回は、中山家で寄加持(よせかじ、加持祈祷)を行う。各回400目の出費となる散財であった。

 

1-1.  中山善右衛門(秀司さん)の足痛に関して

 

 みのうちにとこにふそくのないものに   月日いがめてくろふかけたで  (十二号118) 

       (身の内にどこに不足の無い者に 月日いがめて苦労かけたで)  

 ねんけんハ三十九ねんもいせんにて   しんばいくろふなやみかけたで    (十二号119)

  (年限は三十九年も以前にて 心配苦労悩みかけたで)

 

*参照資料:

  松原浩一郎(2011)「天理教教祖中山みきの障害者観」『吉備国際大学研究紀要』第21号,p.37−44. 

 

2.天保9年10月23日に秀司さん(17歳)の足痛が午後からおこり、さらに夜になって夫・善兵衛様の眼病、教祖の腰痛が起きた。翌日の24日に寄加持を実施する。

 加持台となる、そよが不在で、教祖が代わりに、御幣をもって巫女役となる。その際、教祖に初の神がかり現象が発生する。3日に及ぶ神人問答があった。

 

 「天の将軍なり。元の神である。此の屋敷因縁あり、みきの心見澄し世界の人を救くるために天降りた。此の屋敷、親子諸共神の社に貰ひ受けたい。返答せよ」 

    [上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』]

「我は国常立命という神なり。また代わりて来る。」

「我神は面足命と云う神なり。我姿現せば恐ろしき神なり、我は頭十二有る大蛇なり。」

   [「神懸略記」小松本の十ハ年本、 中山正善(1957)『”こふき”の研究』p.144.]

「誰が来ても神は退かぬ。今種々心配なすは無理でなけれども二十年三十年経たなれば皆の者成程と思ふ日限が来るほどに」

    [上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』]

 「もし不承知ならば、この家、粉もないようにする」

    [芹澤光治良(1978)『教祖様』]

「此屋敷と親子諸俱、貰受ければ三千世界を助けさす。さも無くば、此家断絶に及ぼす」

   [「神懸略記」小松本の十ハ年本、 中山正善(1957)『”こふき”の研究』p.144.]

 

 

2-1.  この3日間、教祖は飲まず食わず、大音声で、ものスゴイ形相をして、現代でいう精神異常者のごとき様相に見えただろう。普段とは違う母親の姿に、隣室の子供たち(おまさ13歳、おはる7歳)は震えあがったという。三女こかんさんは、生後10っか月の乳幼児。

 

2-2.夫婦の理と救済心

 突発的な天啓が中山家の中で起きたが、24日の天啓の一声によって、天理教が始まったのではなく、26日に夫の善兵衛が神の社として教祖を受諾した日が、立教の日である。神の一方通行によってではなく、神と人間の双方の合意形成、すなわち夫婦の対話という相談から同意形成が生まれた。決して専制的、独裁的な妥協とは異なる。神と人との相互対話から天理教という道が開始された。神意の伝達者である天啓者と神意をうける人間側の代表者との相互互恵の中から、この道が始まったのである。

 

 御幣を振りまくり、「幣をお持ちなされた手は荒びて、畳にすりつけ血の滴る程でございました」(上田嘉成「教理概説稿案」『復元一号』)という。3日間も不眠不休で飲まず食わずにいれば、通常の人間の健康的限界を超えていることは容易に想像できる。ここで、善兵衛は、妻の身体をおもんぱかって、妻を救うために、親神の命令に従うことに同意したのであった。

 

 親族や近隣の名主もこの騒動の相談にあずかったという。芹澤によれば、以下の人たちも来ていた。

 

 教組の父の前川半七(74歳)、兄の杏助(46歳)

 別所村 庄屋 荻村伊兵衛

 福住村 無足人 勝田新右衛門

 庄屋敷村 足立源右衛門 

 

2-3.貧に落ち切る道

 天啓受託後の中山家は神の命令によって貧に落ち切る道中があり、夫の善兵衛さんは、素直に神の言うことに従うというより、

妻の中にいる貧乏神を呪っていたと思われる。

  農家の普通の妻が、世界の救済者へとなる取り組みを始める。亡くなるまでの14年間の道中について、あまり多くの史実が伝わっていない。

 

  嘉永6(1853)年 夫の善兵衛さんは出直す。

 

  教理的には、中山家の悪因縁の掃除、屋敷の掃除という時間である。教祖の雛型の前半生は、珍しい助けも救済もなく、家族を犠牲にした日々である。しかし世界助けの布石が敷かれる道中であった。  

 

2-4.教祖の魂の理と旬刻限の理と屋敷の理

 なぜ中山みきという農家の主婦に神懸かりが起きたのか。それは、後づけで開示されるが、教祖の魂が人間創造の際の道具神の一柱である「いざなみの命」だったことによる。人類の母親となる魂である。

  山澤良助筆十四年本には、以下のように書かれている。

 

 なハしろにつこふたこれで一の神 いざなみの神いせてハげゑく

   (苗代に使うたこれで一の神 いざなみの神伊勢では外宮)

 このかみハにんげんなるのもとのをや このをやさまハどこにござると

   (此神は人間なるの元の親 この親様は何処に御座ると)

 をもうならとふねん巳の八十と 四才にてこそやまへのこふり

   (思うなら当年巳の八十と 四才にてこそ山辺の郡)

 しよしきなかやまうじとゆうやしき ぞんめいにてぞをハしますなり

   (庄屋敷中山氏と云う屋敷 存命にてぞ在はしますなり)

         [中山正善(1957)『”こふき”の研究』,p.60. ]

 

 お父様という初代真柱が書いたとされる説話体十四年本には、以下のよう簡潔に書かれている。

 平カナを漢字にする。

 

  この世界人間始めは、九億九萬九千九百九十九年以前に、泥海の中より月日両人見定めつけて、種苗代を拵えへ、外なる道具皆寄せて、それに月日入り込み、段々守護して、この屋敷にて、九億九萬九千九百九十九人を三日三夜さに宿仕込み・・・

         [中山正善(1957)『”こふき”の研究』,p.80. ]

 

 天保9年10月26日という時点から遡り、九億九萬九千九百九十九年以前に人間創造が親神と道具神との相談で始まり、その魂をもった元の道具の神々8名が人間として、中山家の屋敷に参集していたのである。

 

 魂の洗い替え、出変わりを経て、道具神のお一人、00様も地場に再生されて、大きな御役目を果たされます。