新興の神の教えを世界に広げるために、教祖は自ら、高貴な場所に行かれた。すなわち、弟子たちを連れて、徒歩にて山村御殿(奈良市上町)を訪問して、当局(奈良県庁社寺係)の稲田専造に説かれた。明治7年12月23日の日であった。この年は大和神社の神職が詰問に来るなど、対外的に動きの激しい節の年であった。
山村御殿(山村御所、圓照寺)とは、伏見宮文秀女王が在籍する大和3門跡寺院の一つで、天皇家とも関係する寺院であった。
訪問された方のブログが結構あり、以下も参考に。
Google Mapを利用すると天理市三島から山村御所へは、6.3kmで徒歩で1時半である。途中で教祖はつまずかれた。すなわち、「田部村の小字車返で、ふと躓いて下唇を怪我なさった。」という。教祖の身体のけがは、不吉な予兆ではなく、「下からせり上がる。」との仰せであった。
一種の高山布教に相当するイベントであった山村御殿の訪問であった。詳しくは、教祖伝 『第6章 ぢば定め』の箇所をお読みください。
https://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/402976002.html
また以下の解説も、黒住教に傾倒した伏見宮文秀女王の心情も分析していて秀逸です。
http://www.rendaico.jp/nakayamamiyuki/mikiryakuden/mikiryakuden_58yamamuragotenmondoco.htm
本稿では、この訪問の翌日にあった、3首の『おふでさき号外』と呼ばれる神意を読み解きたい。背景事情が明確な中での、3首のお歌である。
翌二十四日(陰暦十一月十六日)朝、教祖は、
にち/\に心つくしたものだねを 神がたしかにうけとりている
しんぢつに神のうけとるものだねわ いつになりてもくさるめわなし
たん/\とこのものだねがはへたなら これまつだいのこふきなるそや (おふでさき号外)
と、詠まれた。
ここには、信仰心のあり方の極意が説かれているように思われる。政治的な弾圧の中で、信仰心の維持は困難を極める。実際に、仲田儀三郎さんは、その後、獄舎で仕打ちを受ける中で、心を倒してしまわれた。教祖も獄舎に繋がれて、身体的な凌辱を受けたこともあった。信仰心をもてば、踏み絵で弾圧されたキリシタンたちと同様な目に合うのである。
目先の損得か、永遠の地平にたった正義を取るか。人間心は常に転ぶのである。
喜べない心、不足の心が人間にはつきものである。
信教の自由が保証されている現代日本において、どれだけ純粋無垢に教祖の心に従うことが出来ているか。コロナ禍があり、戦争があり、今夏も異常な猛暑が続く。神はあるのかないのか?
神、月日、おやと様々な呼称で呼ばれる、親神様が天保9年から教祖を通じて顕現された。
永遠に説き続ける教祖は存命の理として今現代もおふでさきの神意のままに説き続かれる。
これに対して受け取る人間のあり方が問われている。
本真実を求める心はすべて神の心の内にある。貸しもの借り物の守護の理、心通りの守護の理を心に治め、陽気で勇んだ精神が持続可能か。
日々悪しき心を払って、守護をすみずみまで感じられる敏感な心が肝要である。その喜びの種がいつ芽生えるのかは神のむねの内にある。
良き心の種を蒔き続け、やがて「末代のこうき」という永遠に語られるストーリーが残される。そして神様とのご縁のもとに魂は再生するのである。
一名一人の信仰心のあり方を説く、永遠の指標となる教えがこの3首に込めれている。
