「ひとのものかりたるならばりがいるで」(明治7年) | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

『おふでさき』第3号28は以下の有名なお歌でした。

 

 「ひとのものかりたるならばりがいるで、はやくへんさいれいをいうなり」(第3号28)

 「人の物 借りたるならば理がいるで 早く返済礼を言うなり」

 

 このお歌は、形の世界である人間関係の貸借関係を言っているではない。

 

 モノとは、貸しもの・借りもののモノであり、有限の形の世界一切は神様が創造され、貸し与えたモノである。

 

 一連のお歌を拝読すれば、この点は明確に分かってくる。 以下の方も似たような悟りに至っておられる。

 

 

 

 

 以下のお歌は『おふでさき』に同じお歌が二首出ていることも有名である。 

 

 「たんたんとなに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ」(第3号40)

 「段々と何事にてもこの世うわ 神の体や思案してみよ」

 

 人間は肉体を借りていることをを知らず、自分の体は自分のモノであると信じている。

 領土欲から戦争がおき、憎しみが増幅している。 すべて人間心である。

 

 貸しもの・借りものの理が真実であることが自覚できたなら・・・、おのずから神様に対して御礼や感謝の気持ちが湧いてくる。

 

 本当の感謝の心は、人間関係の感謝という小さいものではない。この世初めて、世界を維持されている大いなる存在への絶大なる感謝の念でなければならない。

 

 貸し物・借り物の理を悟らせるために、様々な与えを日々に見る。それは全て心を磨くための糧であり、与えである。

 

目に見えぬ神が形を通じて様々な与えを見せている。それを見て一層の心の磨きが必要である。

 

 明治7年も令和6年も同じ理の与えを見せている。 本日もありがとうございます。  

 

 合掌