「天理教」は宗教か、真実の教えか -6ページ目

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

『おふでさき』第3号28は以下の有名なお歌でした。

 

 「ひとのものかりたるならばりがいるで、はやくへんさいれいをいうなり」(第3号28)

 「人の物 借りたるならば理がいるで 早く返済礼を言うなり」

 

 このお歌は、形の世界である人間関係の貸借関係を言っているではない。

 

 モノとは、貸しもの・借りもののモノであり、有限の形の世界一切は神様が創造され、貸し与えたモノである。

 

 一連のお歌を拝読すれば、この点は明確に分かってくる。 以下の方も似たような悟りに至っておられる。

 

 

 

 

 以下のお歌は『おふでさき』に同じお歌が二首出ていることも有名である。 

 

 「たんたんとなに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ」(第3号40)

 「段々と何事にてもこの世うわ 神の体や思案してみよ」

 

 人間は肉体を借りていることをを知らず、自分の体は自分のモノであると信じている。

 領土欲から戦争がおき、憎しみが増幅している。 すべて人間心である。

 

 貸しもの・借りものの理が真実であることが自覚できたなら・・・、おのずから神様に対して御礼や感謝の気持ちが湧いてくる。

 

 本当の感謝の心は、人間関係の感謝という小さいものではない。この世初めて、世界を維持されている大いなる存在への絶大なる感謝の念でなければならない。

 

 貸し物・借り物の理を悟らせるために、様々な与えを日々に見る。それは全て心を磨くための糧であり、与えである。

 

目に見えぬ神が形を通じて様々な与えを見せている。それを見て一層の心の磨きが必要である。

 

 明治7年も令和6年も同じ理の与えを見せている。 本日もありがとうございます。  

 

 合掌  

仙台市にて、会食。 記念に投稿します。ディナーのお任せコースにて、貸切りで、他に一組だけ。ゆっくりと御馳走を頂きました。フランス仕込みのオーナーシェフさんで、こだわりの味わいでした。 

 

 

店舗のHP:

 

 
 
 青葉通りの第七十七銀行銀行本店の横にある、ホテル京阪仙台さんに宿泊。少し広めの御部屋で清潔なホテルでした。

 第15回目の、平成時代のご啓示は、以下の11首のお歌からなっていました。

 大変神秘的な言辞で、驚くべき理の次元が更新された内容です。

 

  本来は、縦書きでした。漢字の読み仮名は漢字の横に表記できなかったので、

  ( )の中に入れました。番号は私が付けました。 00の実名は外しました。

 

平成二年十二月二十八日 午前三時


1. 今日の日は  別間(べつま)へだての意味を説く
    心澄まして  良く聞いてくれ

2. 別間とは  所が違う  形にて
    心は一つ  これがもとやで

3. 心はな  元のやしきが  ふるさとや
    帰ってきたら  神(をや)に会うのや

4. 親慕う 心があれば  何にても

    力を貸さぬことがあろうか

5. それゆえに  親を慕うて  来たものに
    詞(ことば)を答えに  出しているやろ

6. 慕うとは  形で慕う  これ違う
    魂の慕い  表(おもて)ではない

7. 今ここで  場所は形と  教えおく

    親の目には  一つのところ
 
8. 心さい  親を求めて  おったなら
    どこへでも出る  それが神やで

9. 別間とは  人がしきった  形やで

    神の世界は  広いつながり

10. もう何も  不思議に思うことはない

     求める者に  教えるだけや

11. 魂は  もう親元に  来ているで

     はやく気付いて  身体(からだ)追いつけ

                            00    拝す合掌

 

<理の思案>

 『おふでさき』にも別間という言葉が出てきて、特定の場所が暗示されています。中山家の屋敷の中か、本席様の時代は、

南の理とか呼ばれていて、存命の教祖が発話される場所を意味します。地場の元の屋敷から神の発話が始まり、その場所

が歴史的変遷した経緯を知らないと、この別間の意味することは理解できないでしょう。

 

 存命の教祖が発話される場所として別間が今回、明言されました。

 地場でも、別間でも場所は異なっても、神の心は一つなのです。

 

 神様からは、全く未知の新しいことが説かれるので、人間は心澄まして、余計な人間心を排して虚心坦懐に聞かないと

いけません。

 

場所は形で、目にみる有形の場所をさしていますが、その有形を超えた理の世界が語られているのが特色です。

 

 地場で語るべき、神の声、天啓ですが、地場では受け取る人がいません。そこで、地場の別間を神様が用意されました。

 

 教組時代、本席時代と地場で天啓が続き、地場の人衆は魂を磨き続けることが可能でした。金銀分けるとまで言われる厳しい仕込みが啓示を通じて、縁ある人々が仕込まれました。霊性あふれる地場は神屋敷というにふさわしい場所でした。明治40年までは。  深夜でも刻限話があれば、教長も本部員も本席邸の御用場に集められたのでした。  

 

 地場を磨くことが救済の根源にあり、地場の人衆は世界救済の大責任を帯びるのです。地場が治まり、日本が治まり、世界が治まっていくという理の道を教祖ははじめられました。その地場が曇れば、世界が治まらず、戦争が続くのです。 

 

 その地場で、受け取る人がいないので、神様は仕込むべき魂を寄せて、別の場所で啓示を連続させてきているのです。

 神様に落ち度はなく、受け取る側の人間に落ち度があり、このような裏の道が用意されました。裏の道でも寄せられたそれぞれの魂はしっかりと磨かれねばなりません。地場に代わって、大変な責務を負うのです。    

 

 天理教の末端組織で起きた、天啓現象で、天啓継続を信じる人達の中で、起きた天啓現象でした。  

 

 人間の心の故郷は、元の屋敷=地場の心=神様の心であります。

 神様は、「をや」と称されています。 

 人間と神との関係性は親子関係で、切ることのできない関係性があります。  

 

 地場には、もともと天啓が必要なのです。  

 天啓なき地場は、単なる宗教施設です。 赤字続き、リストラ続きの今の御屋敷の惨状があります。 

 

 人間は真実の心を求める。本真実はすべて神様の心にある。

 真実を求める心に神様は、このようにして詞(ことば)として答えを出されているのです。  

 

 神様の想いは、『おふできさ』にも残されていますが、平成時代にもこのように、発話されたのでした。

 

 神の声が魂に届き、魂が目覚めたのです。魂は神様の求める心であり、人間の本心は魂そのものであるのです。

 

 この神の詞(ことば)を書きとった若き女性は外面的には普通の女性ですが、彼女の魂は親元に来ていると認められたのでした。33年たって、初めて気が付きました。 私の心は今でも、低劣で、人間心一杯のままです。しかし、すでにその女性の心は、1990年(平成2年)の時点で、はるか高みの精神的レベルに達していたのでした。

 

 また「身体(からだ)追い付け」には、有形世界で、この道が実際的に広がる未来のことが預言されています。

 その時は、軽く読み流していましたが、驚くべき神様からのご期待を感じます。

 

 天啓現象は、本人の気持ちに関わらず、天から降ってきた仕事で、科学的には精神異常などと誤解される可能性があります。しかし、日常的に繰り返され、14度目の天啓において、「不思議に思うことはない」だろうと言われていたのです。

 

 14回のご啓示で、理の大よその角目は説かれてきて、本人も納得し、周囲もそうだと納得した上で、

このような新しい次元が切り開かれたのです。 

 

 これまでの神様は、一人の女性を雛型として仕込んでこられました。

 そして、公開された詞を通じて、その思惑は共有化された理念として実践

 されるのです。

 

 この一連のお歌では、「形」=かたちが、心と対比さているのが特色です。 

 歴史的教祖の時代には、形の概念は難解だったでしょうが、今の時代には大変分かりやすい表現です。

 

  神の世界は「広いつながり」とも称されていて、神が形を超えた存在であることが暗示されています。

 

  信仰心は形の世界を超えること、これが問われているのです。 

 

  巨大な神殿も、大量の資金も関係ありません。評価軸は、心の世界なのです。 

 「形で慕うこれ違う」と六首目にある通りです。 

  無理な集金で巨大な神殿をつくることが求められている訳ではありません。    

 

 4首目にあるように、神様を真から求める心に、神様は力を貸して下さる。 

 大変ありがたい詞です。

 

 日々神様との対話しながら、かしもの・借り物の守護を喜んでいきたいと思います。

 

 磨いて磨いて、大きな理を見せて頂きましょう。  変革の令和六年で世界は変っていきます。

 

 合掌  

 

 

 

 

 

 
 

 

 以前書いたものを、一部改訂して再掲します。

 

 

 
 
 当時の教会本部員筆頭の松村吉太郎が茨木事件にいかに対処したのかは、本人の自伝『道の八十年』に詳しい。
 
 モリジロウさんが、以下の中で引用されていました。 中々良識のあるサイトで、大変関心しました。私と同じ年齢位の方が書かれたようです。
 
 私も還暦となりました。 天理教団の未来に憂いを感じ、教祖の本当の教えを求める精神で共感致しました。
 

 

 

 

 

 

 

 

  Hirofumi Nakatsuchiなる人物が、天理教の聖典の英語版を自らの解釈のもと、アマゾンで自費出版されている。

 

両親がアメリカの小さな家族中心の教会を運営され、お地場帰りも何度もされいる方のようだ。父も母も亡くなり、おさづけという癒しの技に対する疑念もあった。教祖在世当時は、さかんにお助けがあり、おさづけというhealing powerが効いた時代があった。現代は如何に? これが彼の疑問。しかし、「おふでさき」の研究を地道に進め、そこから大きな悟りを得て、みずから匂い掛けをされている感じのようだ。

以下のYoutubeに自己紹介があった。

 

 

 

またFace Bookでも盛んに英語による教理解釈を展開されている。 

 

教会本部の解釈による不整合を指摘されていて、かなりの見識が感じられました。『Oufdesaki』は未来の預言書であるという見方をされていて、その通りだと思います。筆者は、カリフォルニア在住のベテランの天理教の教会長かもしれない。 

 

 Face Bookでは、図解の解説も日々だされていて、英語、またスペイン語でも書かれていて、発信力は抜群です。

Facebook

 

 今後、このように理の道を世界に発信する人が現れて来るのでしょう。 

 

Amazon.co.jp: Mikagura-uta: Curing illness : Nakayama, Miki, Nakatsuchi, Hirofumi: 洋書

 

 ただ、「みかぐら歌」は「おふでさき」の要約であるとの言説には問題があります。

 

 また厳格に十二下りの手踊りを正確につとめることは外国人には不可能であるとして、やや懐疑的な解釈をされている。 

 

 海外布教の現場で、おつとめがいかに受容され、変容していくのかが感じられました。

 

 おつとめの意義について、海外の方には真実のつとめの意義が伝道しきれていないことが感じられました。

 

 つとめが形骸化し、心作りがおろそかになれば、理を振ることの意味がますます軽く扱われることになる。

 

 つとめは、神人一体の最高の喜びを神様に捧げる場である。

 神と人をつなぐ場、神と人の共同の場がつとめである。

 

 そして、日々の労働、社会生活も、かしものかりものを感じる喜びのもと、陽気暮らしを構成する大切な場である。

 AIもロボットもドローンという道具も神様の与えである。広大な宇宙から、極微の量子の世界まで、有形世界はすべて神の貸しもの・借り物の世界である。 この世界のなかで、いかに喜びをもって日々通れるのだろうか。

 魂の進化の遅れが、世界に不安を生んでいる。 

 

 「だんだんと何事にもこの世は 神の体や思案してみよ」(3号―40)

 

 

 

 

啓示書である『おふできき』第15号は明治13年1月から教祖が御執筆になるものだが、その最後のほうに驚くお歌があり、その意味を本日は深めたい。

 

このたびのつとめ一ちよとめるなら

    みよだいなりとすぐにしりぞく   (15-88)

 

 明治13年の年表を見ると、「はじめて、三曲を含む鳴り物をいれて、ようきづとめがおこなわれる」とある。明治13年は神様が望まれた「おつとめ」が形式的にも地上において初めて現出した記念すべき年であった。

 

このはなし四十三ねんいせんから

    むねのざんねんいまはらすてな   (15-81)

この話四十三年以前から 胸の残念いま晴らすでな

 

天保9年に現れた神は、43年かけてようやく、本心を遂げるチャンスが来たことを祝っている。すなわち、おつとめの体制が信仰者の中から形成されたことを書き残されたのである。

 

 つとめ、鳴り物などが「おふでさき」にも頻出用語として出て来るが、その中の一節が冒頭のお歌であった。

 

 漢字を入れて、書き直すと以下のようになる。

 

 この度のつとめ一条止めるなら

    名代なりとすぐに退く   (15-88)

 

  「つとめ」という祭儀の実践が信仰の要として、何度も繰り返し諭される。人間側には、このつとめの意義が中々了解されない。秀司さんは、地福寺の配下で既存仏教の一部としての宗教活動に固執する。そして翌年には出直される。しかし、秀司さんから見たら、母親であり老婆の意図は別なところにあった。親神様は、独自な独立した宗派を立てることにこだわる。たとえ官憲からの迫害や弾圧も厭わない姿勢である。 

 

 その「つとめ」は、人間の成人、魂の進化と一体した何か重要な意味が内蔵されている。しかし、当時の人々は形式面で言われたように、おつとめをすることで精一杯だったろう。

 

 従来、名代とは、秀司の庶子の音次郎だとされていたが、これは何かの間違いであるらしい。

 

 今回の新たな理の諭しとして、名代とは教祖であることが分かった。その意味することは深刻である。教祖は明治20年に御身を隠されることになるが、その預言がこのお歌に込められているという。7年前に教祖の昇天が預言されていたことになる。 

 

 明治20年正月26日に教祖が御身を隠されたが、115歳の定命を縮められたことになった。それは、子供可愛いゆえから、つとめを急きこむために命を賭したとされている。  

 

 神様の望まれる、真のつとめとは何だろうか。そのつとめを止めるから、名代である教祖が御身を隠されることになってしまうことになる。人間の成人の遅れが、教祖の命を縮める原因となったことが、このお歌の大きな意味だということになる。

 

 名代とは神の名代であり、教祖という啓示者の役割を意味する。目に見えぬ神が、神人一体となって教祖の肉体を通じて、神の言葉を発するのである。そうした特殊な機能が、名代という言語に現れている。 教祖が御身を隠された後に、神の名代となられたのは、本席様に他ならない。  

 

 「かしものかりもの」の理に目覚め、すなわち神様の守護を真から喜ぶことが信仰の基盤にある。その喜びや報恩感謝の精神を祈念するのが「おつとめ」という日々の祭儀である。

 

 日々、月々、年々と勤められる「おつとめ」。

 

 教祖140年祭に向けて、つとめの意味が深化されないといけない。

 

 神と人を繋ぐ、神人和楽の世界観がつとめに体現されている。

 

 さらに、私達の日常活動そのものも「つとめ」であり、日々の労働や仕事そのものを意味する。

 

 生きていくことの喜びを味わい、日々元気に勤められることは人間の喜びである。 

 

 仕事の意味(meaning of work)、祈りの労働(Labour as prayer)、祈りの経営(management as prayer)がつとめの意味を深めるために考究されねばらない研究課題となる。    

 

  

Youtubeで、天理教の教えを広める教会長や個人が段々と増えてきているようです。

 

一時期、教会本部から禁止されたこともあったようです。しかし、堂々と公開している良いサイトが結構あることが分かりました。

 

以下の加古大教会・松尾太郎先生のチャンネルを拝見して、これはExcellentだなと思いました!

 

KAKO Channel 天理教加古大教会公式チャンネル

 

 

 加古大教会さんは、平成3年に兵神大教会から分離独立したことを知りました。兵庫県にある大教会です。

 

 

 

 

 

「かしもの・かりもの」の尊さ、心通りの守護に関連して、心の成人を語っていて、理を忠実に信仰して、実践されています。喜びの信仰をされていること、これは本物の信仰者です。 

 

たん/\とよふぼくにてハこのよふを

   はしめたをやがみな入こむで      (15-60)

 

松尾太郎という教会長さんの真実の心にのって、心通りに神様が守護され、大きなお助けの道が広がりつつあると思われました。

 

教会本部から音声講話も、元医師とは優秀です。

 

 

 

 以下の書籍も出されております。取りよせて読みたいと思います。

 

かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本 | 天理教加古大教会 |本 | 通販 | Amazon

 

 教祖140年祭を目指して、諭達第4号(https://wobiya.tokyo/wp-content/uploads/2022/11/yutatsu_4_185_b5.pdf

 

)が、昨年真柱様から公開され、今回の祭典でも強調されておられました。

 

年祭活動の盛り上がりは、加古部内では大変に広がることでしょう。  ご苦労さまです。

 

 かしもの・かりものの理の教えこそ、世界が知るべき究極の真理です。 

 

人間が生きている、生かされていることの有難さ、感謝の根源、信仰の根源として、この「かしもの・かりものの理」を徹底的に信じることから、信仰は始まります。  

 

 

 

 

 

 天理教では、10月26日は特別な祭典の日、祝祭の日です。

 

 コロナ禍により2020年~2022年の大祭は、一般の信徒は立ち入り禁止であり、参拝は出来ませんでした。

 

 4年ぶりのお地場帰りで、帰参させて頂けました。

 

 いつもと変わらぬ地場の光景、天候も澄み渡り、心のお地場帰りができました。

 

 ありがとうございます。

 

 

 

 

 午後には団体の参拝があり、愛町分教会の3000人団参だそうです。 天理教の中でも大きな教会として有名な愛町さんでした。上級の麹町大教会は北大教会の系統であることは、余り知られてないですね。 北の流れ、久保治三郎さんが治めていくなかで、関根豊松さんという偉大な布教師が生まれ、愛町の基礎を作りました。  

 

天理駅から神殿に向かう中大路にある湖東大教会の信徒詰所。天理教の各大教会は信徒詰所をお地場にもっていて、帰参者の宿泊施設、修養科生の修行道場となります。  

 

 11月には青年会総会が開かれるそうです。善亮さんが青年会の会長かもしれません。頑張ってください。

 

天理大学の雅楽部の定期演奏会は来年の2月に天理で、3月に東京でもあります。日本の雅楽文化は天理教が支えているといっても過言ではないでしょう。大祭の祭典のあとで、第一食堂で雅楽のお供え合同演奏会もありました。

 

天理時報オンラインでも10月26日の祭典について記事が出ました。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 前回の平成2年、12月24日は、2首のお歌がありましたが、それぞれ別の時間帯にあったようです。

 

 13回目、14回目と分けてもいいですが、それをまとめて13回目とします。

 

続く、第14回のご啓示は、以下です。 番号は私が恣意的につけました。

 

 

平成二年十二月二十七日 午前一時

 

 

1. ゆるぎなく 心の奥で 呼ぶ声は

 

 

    今日も明日(あした)も ないと思えよ

 

 

2. 今日の日は明日(あした)のためにと教えおく

 

 

    今日をおろそか 明日(あした)は立たん

 

                      00拝す 合掌

 

<理の思案>

  生成AIも発達し、Chat GPTの利用がすでに企業でも使われはじめ、国会の答弁でも利用されるべきだと西村大臣も発言している。人間の知識の発達は際限がなく、これからどんな時代を迎えるのだろうか。

  AIに神様はあるか?とたずねても、答えは「分からない」と出るらしい。 

 

  言語を伝える神、それはロゴスとしての神であり、語り掛けてくる神である。

  当時、19歳の女性の魂には、心の中で、呼びかけてる神の声が認識されたのである。

 

  誰も信じないし、教会本部の前で語ったら、異端者として、取り締まられるのが落ちである。 私のブログも、教会本部の公式見解によれば、異端者扱いされていると思われる。 

 

 それはそれで、今の彼らの信仰レベルを反映している。そのように100年以上教育されてきているので、すぐに変わるものではない。 ただ、私が死んでも、神様の声は永遠なので、その永遠の神様を求めていきたい。

 

 神様とは何か?  心の奥から聞こえてくる声だという。直接聞こえる力があるごく少数の人と違って、私達にはそのような能力は付与されていない。  しかし、諦めることはできない。 神の声を求めれば、誰にでも普遍的に、いつでも、文字として、誰でも、日本語がわかる限り、神の詞(ことば)を読んで理解することが出来る。

 

 神様の声は、明治20年に終わったのではない。 本席様によって明治40年まで継続した。 その後は、本部の公式見解ではないことになっている。 しかし、細々とその声は続いてきた。  その一端を本ブログでは世界に発信します。 

 

 神様は時間を超えていることが、此処から分かる。 ものすごい意味が内蔵されている。

神様は本当に永遠なのである。   今日も、明日もないのが神である。  神様とは時間を超えている。 有限なる時間に人間は生きている。生かされている。 その有限性を超えている、人間を超越している何かが、神である。 

 

 人間の肉体は貸しもの、借り物である。 永遠で無限なる神があるとして、その神様がこのように語りかけるのである。

 

 そして、日々の心の通り方が2首目でズバリ来る。   今日の日の蓄積の上に、次の日がある。 今日一日をおろそかにしたら、明日の理が立たないという。  これは本当に厳しい神様からの詞であり、慄然たるものを感じてしまう。

 

 日々を本当にありがたく、心治めて、うかうかしないで生きているのか?

 

 だらだら過ごしていないか?  00さんの当時の姿を思い浮かべると、一人の信仰者としての雛型が確かにあった。とぎ澄まされた感性があり、誰にでも優しかった。隙のない心配りで、普通の女性とは違う、何か別次元へとはるかに魂人間へと進化されたのであった。 

 平成時代における最高の魂レベルの進化がそこにはあった。

 

 魂の実践、錬磨した姿を確かに残されたのであったが、私たちの心は最低であった。本当に申し訳ありません。

 

最近、盲目の経営者のご講演を聞かせていただいた。

 

遠藤隆一郎さん。 名古屋のアド・ライブの社長さん。 2020年頃に遺伝性の理由で失明。一時は絶望したが、奥さんや同僚の言葉で、見事に生き返った。生きている喜びを誰よりも伝えることができる素晴らしい経営者であった。

 

 

 

 日々、貸しもの借り物のあり方を感じて、肉借り物の与えを本当に喜んで生きているか。 私自身はそこを本当に反省しました。

  遠藤さん、ありがとうございます。

 

 人間の魂の進化なくして、人類の未来は継続しないのである。 地場の理の責任はそれほど重大なのである。 地場の建て替え、第二の天保九年を目指して、届かぬながら、投稿致します。   

 

合掌