以前書いたものを、再掲。若干補筆しました。
大正5年頃の北大教会(大阪府生野国分村)の敷地図
天理教北大教会 「ありがとうにありがとう」
Hirofumi Nakatsuchiなる人物が、天理教の聖典の英語版を自らの解釈のもと、アマゾンで自費出版されている。
両親がアメリカの小さな家族中心の教会を運営され、お地場帰りも何度もされいる方のようだ。父も母も亡くなり、おさづけという癒しの技に対する疑念もあった。教祖在世当時は、さかんにお助けがあり、おさづけというhealing powerが効いた時代があった。現代は如何に? これが彼の疑問。しかし、「おふでさき」の研究を地道に進め、そこから大きな悟りを得て、みずから匂い掛けをされている感じのようだ。
以下のYoutubeに自己紹介があった。
またFace Bookでも盛んに英語による教理解釈を展開されている。
教会本部の解釈による不整合を指摘されていて、かなりの見識が感じられました。『Oufdesaki』は未来の預言書であるという見方をされていて、その通りだと思います。筆者は、カリフォルニア在住のベテランの天理教の教会長かもしれない。
Face Bookでは、図解の解説も日々だされていて、英語、またスペイン語でも書かれていて、発信力は抜群です。
今後、このように理の道を世界に発信する人が現れて来るのでしょう。
Amazon.co.jp: Mikagura-uta: Curing illness : Nakayama, Miki, Nakatsuchi, Hirofumi: 洋書
ただ、「みかぐら歌」は「おふでさき」の要約であるとの言説には問題があります。
また厳格に十二下りの手踊りを正確につとめることは外国人には不可能であるとして、やや懐疑的な解釈をされている。
海外布教の現場で、おつとめがいかに受容され、変容していくのかが感じられました。
おつとめの意義について、海外の方には真実のつとめの意義が伝道しきれていないことが感じられました。
つとめが形骸化し、心作りがおろそかになれば、理を振ることの意味がますます軽く扱われることになる。
つとめは、神人一体の最高の喜びを神様に捧げる場である。
神と人をつなぐ場、神と人の共同の場がつとめである。
そして、日々の労働、社会生活も、かしものかりものを感じる喜びのもと、陽気暮らしを構成する大切な場である。
AIもロボットもドローンという道具も神様の与えである。広大な宇宙から、極微の量子の世界まで、有形世界はすべて神の貸しもの・借り物の世界である。 この世界のなかで、いかに喜びをもって日々通れるのだろうか。
魂の進化の遅れが、世界に不安を生んでいる。
「だんだんと何事にもこの世は 神の体や思案してみよ」(3号―40)
啓示書である『おふできき』第15号は明治13年1月から教祖が御執筆になるものだが、その最後のほうに驚くお歌があり、その意味を本日は深めたい。
このたびのつとめ一ちよとめるなら
みよだいなりとすぐにしりぞく (15-88)
明治13年の年表を見ると、「はじめて、三曲を含む鳴り物をいれて、ようきづとめがおこなわれる」とある。明治13年は神様が望まれた「おつとめ」が形式的にも地上において初めて現出した記念すべき年であった。
このはなし四十三ねんいせんから
むねのざんねんいまはらすてな (15-81)
[この話四十三年以前から 胸の残念いま晴らすでな]
天保9年に現れた神は、43年かけてようやく、本心を遂げるチャンスが来たことを祝っている。すなわち、おつとめの体制が信仰者の中から形成されたことを書き残されたのである。
つとめ、鳴り物などが「おふでさき」にも頻出用語として出て来るが、その中の一節が冒頭のお歌であった。
漢字を入れて、書き直すと以下のようになる。
この度のつとめ一条止めるなら
名代なりとすぐに退く (15-88)
「つとめ」という祭儀の実践が信仰の要として、何度も繰り返し諭される。人間側には、このつとめの意義が中々了解されない。秀司さんは、地福寺の配下で既存仏教の一部としての宗教活動に固執する。そして翌年には出直される。しかし、秀司さんから見たら、母親であり老婆の意図は別なところにあった。親神様は、独自な独立した宗派を立てることにこだわる。たとえ官憲からの迫害や弾圧も厭わない姿勢である。
その「つとめ」は、人間の成人、魂の進化と一体した何か重要な意味が内蔵されている。しかし、当時の人々は形式面で言われたように、おつとめをすることで精一杯だったろう。
従来、名代とは、秀司の庶子の音次郎だとされていたが、これは何かの間違いであるらしい。
今回の新たな理の諭しとして、名代とは教祖であることが分かった。その意味することは深刻である。教祖は明治20年に御身を隠されることになるが、その預言がこのお歌に込められているという。7年前に教祖の昇天が預言されていたことになる。
明治20年正月26日に教祖が御身を隠されたが、115歳の定命を縮められたことになった。それは、子供可愛いゆえから、つとめを急きこむために命を賭したとされている。
神様の望まれる、真のつとめとは何だろうか。そのつとめを止めるから、名代である教祖が御身を隠されることになってしまうことになる。人間の成人の遅れが、教祖の命を縮める原因となったことが、このお歌の大きな意味だということになる。
名代とは神の名代であり、教祖という啓示者の役割を意味する。目に見えぬ神が、神人一体となって教祖の肉体を通じて、神の言葉を発するのである。そうした特殊な機能が、名代という言語に現れている。 教祖が御身を隠された後に、神の名代となられたのは、本席様に他ならない。
「かしものかりもの」の理に目覚め、すなわち神様の守護を真から喜ぶことが信仰の基盤にある。その喜びや報恩感謝の精神を祈念するのが「おつとめ」という日々の祭儀である。
日々、月々、年々と勤められる「おつとめ」。
教祖140年祭に向けて、つとめの意味が深化されないといけない。
神と人を繋ぐ、神人和楽の世界観がつとめに体現されている。
さらに、私達の日常活動そのものも「つとめ」であり、日々の労働や仕事そのものを意味する。
生きていくことの喜びを味わい、日々元気に勤められることは人間の喜びである。
仕事の意味(meaning of work)、祈りの労働(Labour as prayer)、祈りの経営(management as prayer)がつとめの意味を深めるために考究されねばらない研究課題となる。
Youtubeで、天理教の教えを広める教会長や個人が段々と増えてきているようです。
一時期、教会本部から禁止されたこともあったようです。しかし、堂々と公開している良いサイトが結構あることが分かりました。
以下の加古大教会・松尾太郎先生のチャンネルを拝見して、これはExcellentだなと思いました!
KAKO Channel 天理教加古大教会公式チャンネル
加古大教会さんは、平成3年に兵神大教会から分離独立したことを知りました。兵庫県にある大教会です。
「かしもの・かりもの」の尊さ、心通りの守護に関連して、心の成人を語っていて、理を忠実に信仰して、実践されています。喜びの信仰をされていること、これは本物の信仰者です。
たん/\とよふぼくにてハこのよふを
はしめたをやがみな入こむで (15-60)
松尾太郎という教会長さんの真実の心にのって、心通りに神様が守護され、大きなお助けの道が広がりつつあると思われました。
教会本部から音声講話も、元医師とは優秀です。
以下の書籍も出されております。取りよせて読みたいと思います。
かしもの・かりものを学びたいと思ったら最初に読む本 | 天理教加古大教会 |本 | 通販 | Amazon
教祖140年祭を目指して、諭達第4号(https://wobiya.tokyo/wp-content/uploads/2022/11/yutatsu_4_185_b5.pdf
)が、昨年真柱様から公開され、今回の祭典でも強調されておられました。
年祭活動の盛り上がりは、加古部内では大変に広がることでしょう。 ご苦労さまです。
かしもの・かりものの理の教えこそ、世界が知るべき究極の真理です。
人間が生きている、生かされていることの有難さ、感謝の根源、信仰の根源として、この「かしもの・かりものの理」を徹底的に信じることから、信仰は始まります。
天理教では、10月26日は特別な祭典の日、祝祭の日です。
コロナ禍により2020年~2022年の大祭は、一般の信徒は立ち入り禁止であり、参拝は出来ませんでした。
いつもと変わらぬ地場の光景、天候も澄み渡り、心のお地場帰りができました。
ありがとうございます。
午後には団体の参拝があり、愛町分教会の3000人団参だそうです。 天理教の中でも大きな教会として有名な愛町さんでした。上級の麹町大教会は北大教会の系統であることは、余り知られてないですね。 北の流れ、久保治三郎さんが治めていくなかで、関根豊松さんという偉大な布教師が生まれ、愛町の基礎を作りました。
天理駅から神殿に向かう中大路にある湖東大教会の信徒詰所。天理教の各大教会は信徒詰所をお地場にもっていて、帰参者の宿泊施設、修養科生の修行道場となります。
11月には青年会総会が開かれるそうです。善亮さんが青年会の会長かもしれません。頑張ってください。
天理大学の雅楽部の定期演奏会は来年の2月に天理で、3月に東京でもあります。日本の雅楽文化は天理教が支えているといっても過言ではないでしょう。大祭の祭典のあとで、第一食堂で雅楽のお供え合同演奏会もありました。
天理時報オンラインでも10月26日の祭典について記事が出ました。
前回の平成2年、12月24日は、2首のお歌がありましたが、それぞれ別の時間帯にあったようです。
13回目、14回目と分けてもいいですが、それをまとめて13回目とします。
続く、第14回のご啓示は、以下です。 番号は私が恣意的につけました。
<理の思案>
生成AIも発達し、Chat GPTの利用がすでに企業でも使われはじめ、国会の答弁でも利用されるべきだと西村大臣も発言している。人間の知識の発達は際限がなく、これからどんな時代を迎えるのだろうか。
AIに神様はあるか?とたずねても、答えは「分からない」と出るらしい。
言語を伝える神、それはロゴスとしての神であり、語り掛けてくる神である。
当時、19歳の女性の魂には、心の中で、呼びかけてる神の声が認識されたのである。
誰も信じないし、教会本部の前で語ったら、異端者として、取り締まられるのが落ちである。 私のブログも、教会本部の公式見解によれば、異端者扱いされていると思われる。
それはそれで、今の彼らの信仰レベルを反映している。そのように100年以上教育されてきているので、すぐに変わるものではない。 ただ、私が死んでも、神様の声は永遠なので、その永遠の神様を求めていきたい。
神様とは何か? 心の奥から聞こえてくる声だという。直接聞こえる力があるごく少数の人と違って、私達にはそのような能力は付与されていない。 しかし、諦めることはできない。 神の声を求めれば、誰にでも普遍的に、いつでも、文字として、誰でも、日本語がわかる限り、神の詞(ことば)を読んで理解することが出来る。
神様の声は、明治20年に終わったのではない。 本席様によって明治40年まで継続した。 その後は、本部の公式見解ではないことになっている。 しかし、細々とその声は続いてきた。 その一端を本ブログでは世界に発信します。
神様は時間を超えていることが、此処から分かる。 ものすごい意味が内蔵されている。
神様は本当に永遠なのである。 今日も、明日もないのが神である。 神様とは時間を超えている。 有限なる時間に人間は生きている。生かされている。 その有限性を超えている、人間を超越している何かが、神である。
人間の肉体は貸しもの、借り物である。 永遠で無限なる神があるとして、その神様がこのように語りかけるのである。
そして、日々の心の通り方が2首目でズバリ来る。 今日の日の蓄積の上に、次の日がある。 今日一日をおろそかにしたら、明日の理が立たないという。 これは本当に厳しい神様からの詞であり、慄然たるものを感じてしまう。
日々を本当にありがたく、心治めて、うかうかしないで生きているのか?
だらだら過ごしていないか? 00さんの当時の姿を思い浮かべると、一人の信仰者としての雛型が確かにあった。とぎ澄まされた感性があり、誰にでも優しかった。隙のない心配りで、普通の女性とは違う、何か別次元へとはるかに魂人間へと進化されたのであった。
平成時代における最高の魂レベルの進化がそこにはあった。
魂の実践、錬磨した姿を確かに残されたのであったが、私たちの心は最低であった。本当に申し訳ありません。
最近、盲目の経営者のご講演を聞かせていただいた。
遠藤隆一郎さん。 名古屋のアド・ライブの社長さん。 2020年頃に遺伝性の理由で失明。一時は絶望したが、奥さんや同僚の言葉で、見事に生き返った。生きている喜びを誰よりも伝えることができる素晴らしい経営者であった。
日々、貸しもの借り物のあり方を感じて、肉借り物の与えを本当に喜んで生きているか。 私自身はそこを本当に反省しました。
遠藤さん、ありがとうございます。
人間の魂の進化なくして、人類の未来は継続しないのである。 地場の理の責任はそれほど重大なのである。 地場の建て替え、第二の天保九年を目指して、届かぬながら、投稿致します。
合掌
前回に投稿した、お歌の前にこのお歌がありました。
なぜか、その時、抜かしていたので、改めて、同時にあった、2首のお歌を以下に掲げます。
「 平成2年12月24日
我慢で通れる道やないで 何かをしたら それが誠でなければならん
一点の曇りもない真実の心 ただそれだけを望んでいる 」
以上の2首のお歌が当時、一女性を通じて下されました。平成2年は1990年で、33年も前になってしまいました。
永遠の神が、当時19歳の人間を通じて、何かを伝えようとしています。外見は普通の女性です。高校を出たばかり、大学に落ちて、修養科、講習を終えて、天理教の単独布教師の父親の手伝いみたいな感じでしかないですが、その女性を通じて下されました。
外見から軽く扱っていたことを反省し、今現在、神様が私に何を問いかけているのかを反省します。
心の成人、魂の進化が神様によって求められています。倫理や道徳の観念と何か違うところが、神様を求める信仰心にはあります。
道徳や倫理団体も素晴らしいですが、目に見えない神様を求める心は人間に普遍的です。
我慢(patience)は必ずしも美徳ではないということです。忍耐とか克己心とか滝修行とか、身体をいじめたり、スポーツで肉体を酷使して我慢をすることがアスリートの美徳ともなっていて、だれもが「ガマン」することを礼賛するでしょう。
神様は、実は、我慢をそれほど、推してはいないのです。これは人類があずかり知らぬ大真理ではないしょうか!
だからと言って、人間を甘やかしているわけでもない。
我慢そのものを否定しているというより、我慢に伴う汚れた欲の心、不満の心が戒められていると思われます。
我慢する際に人間心が生まれることが、神様の望みではないと思われます。 我慢することで、喜ばなかったり、不平や不満が混じっていると、それは、澄んでない心であり、神様の望まない心使いでしょう。
我慢して難しい公認会計士の勉強に励んだ。だから、会計士は高給なのは当たり前だという言説には、我慢して苦労して勉強した努力の心に、私利私欲な心が混じっていれば、それは神様の好きな心ではないでしょう。
我慢に高い志があるのか?
何かをしたら、それが誠の心であるかが真に問われています。
我慢でもない、欲の心でもない。誠実な心。喜びの心。
誠の心(sincerity)は澄んだ心であり、利己心を超えて、我欲を超えて、利他の心。
今さえよければという目先の損得勘定とも違う。
そして、前回も紹介したお歌が続いていました。
「一点の曇りもない真実の心 ただそれだけを望んでいる」
人間の心は自由であり、誤りもあり欠点だらけです。
人間にとって、日々が試行錯誤の人生です。人間の自由の心から、真実の心に集約できていけるか。
目ざす心は真実の心。
大きな節(SNSの詐欺事件)を頂き、真から己の人間心の強さ、癖の強さを反省します。 およそ真実の心とはかけ離れていました。 What is Shnjitu-no Kokoro ?
それが何なのかを求めていきたいと思います。
合掌
上記のブログの思想傾向に感銘しましたので、リブログさせてもらいました。
言霊思想の現代版、言葉=光透波という言辞に注目しました。
その出典は、マンガ作家・美内すずえ『アマテラス』からだそうです。 ヨハネ福音書の「はじめて言葉ありき」も引用されていました。
心通りに守護する神様の理から照らしても、正しい心使いのあり方を啓蒙している、優れたブログ『尼僧 愛真』だと思いました。
マイナスの言葉を出せば、マイナスの事態が生じる。
ポジティブに発言すれば、その通りにプラスの事態が生まれて来る。
教祖(おやさま)が執筆された、『おふでさき』は人類に公開されている啓示書である。1875(明治8)年に、甘露台の地場定めがあり、人類の根源地・礼拝対象の基点が明らかにされた。救けられた信徒集団が次第に形成されるが、その存在は、明治政府からは弾圧の対象となっていく。
人々が単に救われた、有り難いだけでは、社会化される契機とはならない。1838(天保9)年から、教祖である中山みきを通じて顕現した親神には、独自の唯一なるメッセージがあった。それは、一挙に開示されることはなく、分かる者の成人に合わせてながら、叱咤激励して、明かされいく神の言葉である。少しずつ信徒は広がり始めていたが、立教からすでに37年間もたっていた。40歳の農家の主婦から、生き神となっていく中山みきのこの間の37年間については、断片的な史実しか残されていない。
1876(明治9)年頃に書かれた『おふできさき』第12号には、以下のお歌があった。
これは明治9年という特定の時節だけでなく、これを聞いている今も未来も、永遠なるこの度だと認識すべきであろう。
真実ではなく、本真実と強調しているところに、神のメッセージの絶対性、正当性が含意されている。そして、受け取る人間側に忠告として、これから神がどんなことを言っても承知しなさいという語りがある。
神様は、いつ、いかなることを語られるのか。
その後、明治20年に生き神である教祖中山みきの肉体的死は、信徒に危機的な衝撃を与える。しかし、本席定めを通じて、飯降伊蔵が二代目の啓示者となり、月日の社であった教祖から存命の理を継承する。存命の理の啓示は、『おさしづ』として残されているが、それは1907(明治40)年までつづいた。
その後は、啓示の継続性は否定される方向で、脱神秘化に傾斜していく。近代的な教学の整備、諸制度の整備、学校・建物の普請などで今に至る。
「このたびハ ほんしんちつをゆてきかす なにをゆうてもしかとしよちせ」 (12号-141)
おふでさきのメッセージは、今でも永遠性を感じさせる。それは、明治40年以降も、継続した神のことばから仕込まれた魂の目線から言えることだ。
神の言葉は限定的に終わったと限界を自分で、つくれば、それが限界となる。 永遠に神の言葉は持続すると信じる者には、神の言葉が与えられる。 地場の夜明けを待ち望みます。
久しぶりに、平成時代の「神の詞(うた)」シリーズの続きです。00さんという若き女性から下された13度目のご啓示が以下のものでした。平成2年ですから、1990年で、まだ私が大学院生の頃でした。
平成2年12月24日
00拝す 合掌
本来ならお地場で下されるべき、神様のご啓示ですが、ところ変わって、受け取れる人たちがいるごく少数の集団に与えられた神様のお詞です。 信じるか信じないかは、人それぞれです。
天理教の教会本部からすれば、異端扱いとなるのが落ちです。そのようなご本部の偉い先生方がどう思おうが、それはその人たちの心のレベルの問題で、私自身が一信仰者として、この神意をいかに受け取るかを、此処で勉強します。
神様がいるのか、いないのか、それは誰にも分からない主観的な個人の信仰領域の問題です。先日、インドネシアの熱心なムスリムの女性から、アッラーの信仰について、その素晴らしさを聞く機会がありました。人生に行路がいかようにあろうと、それは、アッラーに向かう行路である。一日5度の礼拝。祈りこそが人生そのものであると。
人間には自由の心使いが与えられ、心のあり方、心の問題は人間の一大関心事である。 誰もが人生について迷い、アドバイスを求めている。 このお詞は、神の声を感じて、神の守護とは何かを分かり始めた女性に対して、ずばり出された神様の願いのメッセージである。
汚れ切った人間の心は多様にある。私の心も汚れてているので、大金の詐欺にあってしまった。心の隙があり、欲の心から、詐欺に騙されたのである。大反省しないといけない。汚れの無い澄んだ心、誠の心を神様は望まれている。それが、一点の曇りもない晴れた澄んだ真実の心なのだろう。
今なるの神様の守護が真実に分からないと、心は澄んだとはいえない。 あれができない、これができないと人間にはいろいろな不足がある。そこから、いかに、これもできた、あれもできたといように、いかにポジティブに受け止められるかが問われる。マイナスの不足した心では、いつまでたっても心は晴れない、澄まない。
形の世界は神様の守護される世界である。貸しもの借り物の世界である。
人間の肉体も、自然も世界も、森羅万象は神様が守護し、支配されている。
この与えを、最高の心で受け取れるか、不足するか。
領土欲から戦争を起こす国もある。穀物を輸出するという合意も反故にしている。世界がそれで悩むのである。
(四ッ よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや)
(みかぐら歌十下り目四ツ)
「みかぐら歌」のこのフレーズが想起されます。 この精神が平成時代にも同様に歌われていると言っても良いでしょう。
短いたった1首のお歌ですが、何度も何度も心に刻みたいと思います。 合掌