前回に投稿した、お歌の前にこのお歌がありました。
なぜか、その時、抜かしていたので、改めて、同時にあった、2首のお歌を以下に掲げます。
「 平成2年12月24日
我慢で通れる道やないで 何かをしたら それが誠でなければならん
一点の曇りもない真実の心 ただそれだけを望んでいる 」
以上の2首のお歌が当時、一女性を通じて下されました。平成2年は1990年で、33年も前になってしまいました。
永遠の神が、当時19歳の人間を通じて、何かを伝えようとしています。外見は普通の女性です。高校を出たばかり、大学に落ちて、修養科、講習を終えて、天理教の単独布教師の父親の手伝いみたいな感じでしかないですが、その女性を通じて下されました。
外見から軽く扱っていたことを反省し、今現在、神様が私に何を問いかけているのかを反省します。
心の成人、魂の進化が神様によって求められています。倫理や道徳の観念と何か違うところが、神様を求める信仰心にはあります。
道徳や倫理団体も素晴らしいですが、目に見えない神様を求める心は人間に普遍的です。
我慢(patience)は必ずしも美徳ではないということです。忍耐とか克己心とか滝修行とか、身体をいじめたり、スポーツで肉体を酷使して我慢をすることがアスリートの美徳ともなっていて、だれもが「ガマン」することを礼賛するでしょう。
神様は、実は、我慢をそれほど、推してはいないのです。これは人類があずかり知らぬ大真理ではないしょうか!
だからと言って、人間を甘やかしているわけでもない。
我慢そのものを否定しているというより、我慢に伴う汚れた欲の心、不満の心が戒められていると思われます。
我慢する際に人間心が生まれることが、神様の望みではないと思われます。 我慢することで、喜ばなかったり、不平や不満が混じっていると、それは、澄んでない心であり、神様の望まない心使いでしょう。
我慢して難しい公認会計士の勉強に励んだ。だから、会計士は高給なのは当たり前だという言説には、我慢して苦労して勉強した努力の心に、私利私欲な心が混じっていれば、それは神様の好きな心ではないでしょう。
我慢に高い志があるのか?
何かをしたら、それが誠の心であるかが真に問われています。
我慢でもない、欲の心でもない。誠実な心。喜びの心。
誠の心(sincerity)は澄んだ心であり、利己心を超えて、我欲を超えて、利他の心。
今さえよければという目先の損得勘定とも違う。
そして、前回も紹介したお歌が続いていました。
「一点の曇りもない真実の心 ただそれだけを望んでいる」
人間の心は自由であり、誤りもあり欠点だらけです。
人間にとって、日々が試行錯誤の人生です。人間の自由の心から、真実の心に集約できていけるか。
目ざす心は真実の心。
大きな節(SNSの詐欺事件)を頂き、真から己の人間心の強さ、癖の強さを反省します。 およそ真実の心とはかけ離れていました。 What is Shnjitu-no Kokoro ?
それが何なのかを求めていきたいと思います。
合掌