高慢と言われた茨木基敬さん | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

<天理教の立教:神と人との組織化 原初形態>

 10月26日という日は、天理教が始まった日として永遠に記憶され、もっとも重要視される日とされる。それは、この日に、教祖の天啓が夫の善兵衛に受け取られた日なのである。実は天啓そのものは、10月23日から始まっていたが、神人問答が繰り返され、飲まず食わずの教祖の肉体が限界となるなかで、主人が妻を「神の社」として承諾したのが10月26日である。いわゆる立教の元一日とよく言われる。

   神の一方的な啓示があったとしても、それを受け入れる人間側の都合があり、神と人との相互のコミュニケーションの中で、互いに他を認めるというプロセスがあることが大切な観点である。

  教祖一人だけでは、単なる狂人として扱われる。しかし、夫や子供たちという親密な相互な人間関係のなかで、啓示現象が受容されることが大切な点である。 夫が受諾しなかったら、おそらく天理教は立教せず、中山家は滅亡していたはずである。

  女性が始めたのは確かだが、それを受諾した男性がいたこと。この人間関係の組織の中で、この道という広がりの基礎がまず構築されるのである。

 啓示は教祖の肉体を通じて常に下され、それを受け入れないと中山みきの身体が病気に陥るという中で、貧に落ちきる道が進行した。まさに、肉体は神の貸しもの借り物の理が、みきの肉体を通じて現実的に実証されていくのである。

 

<教祖の死、二代目の天啓者の決定>

 教祖の50年の道中があり、教祖が亡くなる。天理教では現身を隠されるという公式的な表現で言われる事態である。肉体的な教祖の死は、信仰共同体の最大の危機であった。かかる中で、高弟の飯降伊蔵にすでにはじまっていた啓示は激しさを増し、真柱が呼び出される。しかし二か月たって、ようやく本人が伊蔵の前に来る。その際、本席として受け入れるかが問われた。そこで、真柱がお受けしますと受諾した。 伊蔵の肉体も神が借りて、刻限の啓示が持続していたのである。刻限話は、伺いではなく、神様からの能動的な発言である。それは伊蔵の人間心から発言ではなく、神が伊蔵の肉体を借りて、話しているのである。借りものの肉体を神が自由用しているということである。

  神に絶対的に帰依した唯一の信仰者として、伊蔵の肉体とその精神は神の心に叶ったのである。 

 

<異端化された茨木事件>

  明治44年から、北大教会の旧会長であった茨木基敬さんに神の御用が始まった。本人が本部員となったと同時に病気となり、本部の仕事ができなくなる中で、三島の北大教会の詰所において、神がかりの現象が起きたのであった。それは、神が茨木氏の肉体を借りて起きている啓示であり、本人の意思を超えたところからの力からくるものであった。

 その神の言葉とされる発話体の肉声は、やがて筆取りの仕組みが整うなかで、大量に書写されたものである。大正2年から5年にかけて膨大に残されいるが、これらは地場の声であり、本来なら地場の管理者である眞柱や本部員に対して発話されたものである。

  本席亡きあと、百日さしづによって、10年先のことが遺言として残されていた。本席からは、次の機械(啓示者)が誰であるのかの指名はなかった。ただ、さづけ一条という神意の取次(上田奈良糸)はぎりぎり継承できていた。

 本部員である茨木氏から啓示が続き、そのお詞(ことば)が本部員たちにも伝えられた。お詞に接しながら、その理を受納できなかったキーパーソンたちも出直すという神様から分かりやすいメッセージもあった。

 

<北分教会の勢力を恐れた本部とその処分>

しかし、最終的には松村吉太郎の豪胆な決断によって、茨木氏の言葉は、高慢から出たものとして、罷免されることとなった。松村の決定を促したのは、真柱の未亡人の御母堂様(中山たまへ)の意思でもあった。 

 

 今の天理教でいう、茨木事件である。 茨木基敬氏の免職と同時に、本部側ではおさづけの運びが止まる。上田奈良糸様によって行われた聖業としておさづけの運びが止まる。 これは天理教にとって一大事であり、その対応のあり方が、天理教の人為的な制度化を作ってしまう。  

 

 本部員会議、御母堂様(中山たまへ)が、おさづけの運びを始める。  

 これは神意によらない、人間たちが決めたおさづけの制度化の始まりであった。

 

 会長の基忠氏も罷免、財産もすべて没収された。北大教会の部内はかなり多く、後始末として、麹町大教会、大森町大教会、豊岡大教会、池田大教会、岡山大教会、淀分教会、栗田分教会、青野原分教会など・・・・。北大教会の部内教会は本部直属の教会に分離された。茨木氏に恩顧のあった多くの部内の有力者たちも本部側についた。そうした元幹部がその後どうなったのか・・。

  当時の本部が最も恐れたことは、巨大な北大教会が天理教の本部から独立した宗派を起こすことであった。それほど大きく、多くの人たちが救われていたということだった。

 

 新たな神意の発現に従うか、それとも既存の本部・地場の古参幹部、中山家に従うか?

 

 ここに存命の教祖の声を伝えるとされる人間はいなくなり、教祖存命の理の形骸化が本部内で形成されていく。

 

<残された天啓書の研究が待たれる>

  茨木氏が残された神の詞とは何か。聞くべき本部に出された詞とされるが、その膨大の神の詞は、ネット上に大量に公開されている。すこしずつ味読し、魂の理を求める人たちととも共有してみたいと思います。前生において、本来なら受け取らねばならなかった神の言葉を今生でしっかり勉強したいと思います。 

 

  神の機械となった茨木氏の詞には、「機械」という用語が頻出し、大きなキーワードとなっています。