教祖(おやさま)と浄土宗、キリスト教理解 | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 教祖(おやさま)が、既存の他宗教をどのように理解していたのかは、興味深いテーマである。僧侶や神職、山伏などの既存の宗教家が論難しても、教祖は常に堂々と、この世の元始まりを知る根源神の立場から、滔々と理の話をされ、誰もが説得されてしまったことは『稿本教祖伝』を読んでいる人なら、だれでも知っている。

 さらに中西(1929)によれば、以下のような興味深い話も書かれている。典拠がどこか不明で、誤った伝承かもしれない。しかし著者が捏造したストーリーではないと思われるので、ここで紹介する。

 

 『神の実現としての天理教』(中西牛郎、昭和4年)の、「第2章 教祖、第2節 教祖の教育及び其の結婚」のp.66-67に以下のように書かれている。

 

 浄土教を信じ給いたる教祖が、何故に他の多くの神仏を信じ給ひたるか。此の二個の疑問に対する解答は、左の如しである。

 「この世は文殊普賢を始とし、馬鳴、龍樹、天親も、南岳、天台、四明も皆これ浄土に期し給ふ。況んや我らは愚かなる、如何に願はぬ ありぬべき。三千世界をおいてぞ、たしかに清浄見定めて、心得違いのなきやうにせよ。」

 

  とは是れ明治15年4月、即ち教祖85歳の時、松村吉太郎氏の尊父榮次郎氏が地場に詣りし時御発表になった神諭である。

 

同じ文章がカナ書きで、『高安大教会史:上巻』(p.41)にもあった。『おふでさき』17号外の天啓とも書かれている。

 

「このよふは、もんじゅ、ふげんをはじめとし

 めうなりうじんも、てんじんも

なんがく、てんだい、ようめいも 

 みなこれじよどへ、ごしたまふ、

 ゆわんや、われらはおろかなる

 いかにねがわにありぬべし

三千世界をおいてぞ

 たしかに、しようじしようみさだめて

 こころちがいの、なきやうにせよ」 

「これは教祖が元、浄土信仰をして居られた関係から、其信仰の系統にかこつけて、お道信仰の理をお示し下されたものであるが・・・・」

[『高安大教会史:上巻』(p.41)]

 

 この神諭こそ前記の疑問に解答を与へ得るの鍵ではなかろうか。

 

 教祖は、昨日も書いたが、浄土宗における奥義をある意味19歳で極め、さらに他の神仏に救いを求め続けながら、人間は願うばかりの人間であると。そして真実の神を見出した己の信仰心を榮次郎に語ったものである。

 その息子の松村吉太郎こそは、世俗社会に適合した天理教の教団体制を構築した張本人であり。そして大正時代になって茨木事件に対処した実力者となった人である。

  この問題は別項にゆずるとして、教祖の仏教理解のレベルがかなり高かったことが伺えるエピソードである。

 有神論的仏教とも中西は解釈している。浄土宗は弥陀への本願こそ救いの源泉であり、修行そのものを否定し、他力信仰をとった。

 

 仏教については、勉強不足なので、これくらいにする。

 次にキリスト教徒を教祖はどのように理解したのか簡単に探る。

 

 『神の実現としての天理教』(中西牛郎、昭和4年)の、「第2章 教祖、第4節 神憑と試練」のp,79に以下の説明がある。

 

  教祖の御晩年に、或る人がキリスト教の十字架を持って来て、これは何でありますかとお尋ねしたら、教祖答へて、それは完成の意義であると答へ給うたことがある。

 

 中西の解釈では、十字架=十柱の神の象徴である。キリスト教は天啓の教えの預言で、キリスト教こそ天理教に属するものであって、天理教はキリスト教に属するものではないと解釈している。歴史的な大伝統のあるキリスト教の啓示は天理教の前触れであるという見立てであり、クリスチャンからすれば、とうてい容赦できない異端の思想となろう。

 十字架=十柱の神の象徴とはこじつけにも聞こえるが、天理教が一神教で、ユダヤ・キリスト教と酷似していることは確かである。明治期にはいって、キリスト教の禁教が解け、西洋化・英語教育とともに日本国内に広がったことは確かだ。しかし、教祖がキリスト教の宣教師から影響を受けた史実は残っていない。

 「完成」という言葉で、キリスト教をかなり、高く評価していたのではないかと推測される。天理教とキリスト教との正式な宗教間対話が学者によって、近年なされた。これは『天理教とキリスト教の対話』(天理大学出版部、1998年)に詳しい。

 ローマのバチカンにあるグレゴリアン大学で、天理教の展示がなされ、宗教間対話のシンポジウムがされた。教祖生誕200年に記念にあたり、天理教がカトリックの本山で、自己展示したという話である。天理教の教団として大変誇らしく感動したことが記載されいている。

 第2バチカン公会議以降、他宗教との対話、プロテスタント教会ともエキュメニズムへと方針転換したカトリック教会である。日本の多くの教団の代表も教皇との接見を誇りにしている。桐山さんも天台座主も・・・。

 宗教者同士の協力に悪いことは無い。キリスト教の啓示と天理教の啓示の比較宗教学の構築は、学問的課題となるだろう。神秘主義に詳しい、東大の渡辺優准教授に詳しく探究をお願います。

 

中西の著作については、国会図書館でも読めます。