神が好きな人間? (1) | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

茨木基敬さんが残された膨大の神の詞(ことば)の一部はデジタル化されて、誰にでも公開されおります。

最初期の、分かりやすいご啓示の一部を以下もってきました。

 

大正二年八月十七日   神様の楽しまるゝ人


  さあ 第一 神の楽しみはな
  身上の 壮健 心の正しき人
  いんねんのよき人
  ものをぼへのよき人
  じひの ふかき人
  ふうさいの よき人
  みよがの よき人
  親 孝心の 人
  兄弟 むつまじき人・・・・

 

(釈義)

  神様が楽しみだと思う人間の特性について語ったもので、非常に分かりやすい神様のお話です。しかし誤解も生じやすいので、あえて解釈してみます。

 1913年に茨木さんがまだ三島の詰所におられた時で、息子の基忠さん(北大教会の会長)に語った内容がそのま神の御啓示となったもののようです。

 

1. 「身上の 壮健 心の正しき人」 肉体が健康で、心が正しい人とは、倫理的正しいという意味ではありません。神様の守護がわかっている人。すなわち、借り物かしものの肉体を健康に頂いていることを真から悟って、喜んでいる人が心の正しい人という意味です。

  病気したり、怪我したり、死んでしまったらと人間が生きていく中で、土台となる肉体の健康こそ、もっとも素晴らしいものです。神様のおかげで、生きていないひとは一人もいません。

  肉体を貸す元の神、真実の神が天保9年に初めてこの世に現れたというのが、この道のそもそもの始まりです。教祖の肉体を借りて、神様がお話をこの世で初めて行いました。肉体かしものかりもののの理こそ、人間が知らねばならない最も大切な、真理です。

 

2. 「いんねんのよき人」 これは最も誤解を生みやすい言葉です。いんねんとは、仏教の因果応報の意味とも違います。この世を始めた神が現れて、その神が言葉を話し、神と人間とのご縁ができた時、それが「いんねん」の意味です。今、まさに神の詞を聞いて、神様とのご縁が生まれていること、それが「いんねん」です。形の世界に人間は生きていますが、この形を守護されている神は目には見えないですが、言葉を通じて現れている。その神様とのご縁が、いんねんです。神の詞は人間の魂を磨くために出されています。

 

  教祖の「おふでさき」に以下のものがあります。

  ぜんしょのいんねんよせてしごふする これハまつだいしかとをさまる (1号74)  

  どのよふなところの人がでてきても みないんねんのものであるから  (4号54)

  いんねんもをふくの人であるからに どこにへだてはあるとおもうな   (4号61)

 

  全生の因縁よせて守護する これは末代しかと治まる

  どのような所の人が出てきても 皆因縁の者であるから

  因縁も多くの人であるからに どこに隔てはあると思うな

 

 人間の魂は神様から分けられたもので、人間はすべて神様の子供です。子供である人間が魂の親である神様とのご縁が生まれる。これはもともとの深い関係性が神と人のとの間に根源的にあるためです。神が言葉を通じて現れ、人間が魂の親に目覚める。それは人間にとって、永遠に救われる道とつながったということです。身分や性別に関係なく、どんな人間も皆神の子供であります。

 

<つづく>