明治14年『拾貳下り御勤之歌』大阪天恵組発行 | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

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みかぐら歌で最初期に印刷されたのが、明治14年の『拾貳下り御勤之歌』だそうです。これは天理図書館の天理教文献室の記述によります。 以下、引用します。

 

最も古い印刷物

 教祖の原本をお借りし、書き写した人もあれば、先輩信仰者の筆写本を借りて書き写した人もあった筈です。こうして次々に書き写すことを「転写」といいます。当然書き漏らし、書き誤りが生じます。「みかぐらうた」を筆写して所有している人には借用希望者が大勢やって来ますが、貸し出し中で応えられないこともあります。となると当然、印刷したいとの思いにかられます。おそらくこうしたことから印刷されたであろう「みかぐらうた本」の最も古いものが『拾貳下り御勤之歌』です。明治14年、大阪の「天恵組(てんえぐみ)」という講から出版されました。現在のところ、本教の最も古い印刷物です。
 本教で一番最初の印刷物という「名誉」は大阪の一つの講が持っているんです。天恵組は当時、おてふり練習が盛んに行われ、おてふりを踊ることが一種の羨望として見られていた節があります。まだ教会制度が始まる前ですが、この講を母体として、後の分教会が誕生するのは、さらに十年ほど経てからのことになります。

 

 

 

 

 明治14年といえば、教祖がご在世の時でした。慶応3年からみかぐら歌が教え始められ、各地の教会でもおつとめの練習が盛んになり始めたころだと思われます。と同時に、天理教への迫害弾圧も激しさを増した時代でした。当時の天理教は「踊る宗教」と揶揄されていたそうです。

 大阪の「天恵組(てんえぐみ)」とは、茨木基敬さんが講長を務めていて、教祖から許された講(こう)は信徒の集団のことで、その名称も教祖が与えたものです。 のちの北大教会へと名称を変えていきます。

 『拾貳下り御勤之歌』(天恵組、明治14年)は明治20年頃、大分県に道が広がった当時も、利用されていたかもしれないと早田一郎先生も推測されています。

https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000gd1e0-att/q3tncs00000gd1no.pdf

 

 『拾貳下り御勤之歌』(天恵組、明治14年)は、すでに出直された高野友治先生(『ご存命の頃』p.310-311)によれば、天恵一番、村上文治郎が出版したという。高野先生は、天理教の文献が活字本として出された最初だと推測している。

http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/siryou3/pdf/yasima.pdf

 

 今のみかぐら歌の第1節と第3節が合一された、「あしきはらいたすけたまい いちれつすますかんろだい」が、この『明治14年巳五月本』に表記されているようです。今のみかぐら歌の第1節のもとになる「あしきはらたすけたまえ てんりんおうおふのみこと」(『明治15年鴻田本』)がいつ成立したのかという、天理教の「みかぐら歌」成立の歴史を探るうえで、貴重な資料らしい。

 

『明治14年巳五月本』に第1節・第3節の合一された節が後にあり、第5節が最初に教えられていたことは、2代真柱の中山正善も『続ひとことはなし その二』)で書かれている。この辺について、以下の村上道昭先生のエッセーも参考になりました。

 明治15年に、信仰の対象である甘露台の二段まであった石が官憲によって没収され、第一節と第3節が切り離される。本来は石である甘露台の在り方は、信仰の根幹にある問題だが、これは神意を仰がねば分かりようのない話です。