初代真柱が49歳で12月31日に出直され、11歳で二代真柱が就任したこと-茨木事件との関連 | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 

 大正4年の年末に、中山正善は数え11歳のとき、初代真柱が49歳で早世され、ただちに管長(真柱)に就任した。

 

 大正5年は、教祖30年祭で、信徒が15万人も地場に帰参したという(青地、p.225)。教祖30年祭に先立ち、本部神殿、教祖殿などが新築された。東洋一の木造建築物が出現した。しかし「その莫大な費用をひねり出すために、山のような借財をかかえこんだり、貧窮に落ち込んだ教会もすくなくない」(青地、p.225) 

 「この三十年祭の一年前、初代真柱の中山真之亮が出直した。一部の信者のあいだでは、本部神殿の新築のため各級教会を”搾取”しすぎたので、親神の怒りにふれたのだと、まことししやかにささやくものもあった。」(青地、p.225)

 

 教組30年祭の当時、借財に苦しむ教会が多かったそうだ(青地、p.225)。

 

 この当時、天理教北大教会(茨木基忠会長)では、茨木基敬様(旧長公)の天啓のもと、北の軍艦として、大正4年6月には部内の巡教で、教えを徹底する中、借財は返済し、救済の広がりがあった。【天理大学の学会の報告資料より】

 

 また初代真柱が出直された理由は、青地が推測している無理なお供えを強要したことよりも、基敬でない基敬の神の言葉である天啓を受け入れなかったことが、真の原因であることも「御水の御伝へ」の啓示書に書かれている。

【天理大学の学会の報告資料より】

 

 さて、二代真柱の中山正善は、昭和43年に63歳で突如、出直すまで、真柱の地位にあった。天理教の教団の統率者であった。青地(1968)の言葉によれば、独裁君主であった。

 大正14年に東大に入学。文学部宗教学科卒で、東大の姉崎正治(雅号・嘲風)の弟子である。近代的な宗教学を修め、側近にも知識人を集めた人である。

 

 ご母堂様といわれた母・中山たまへ(中山みきの直系の孫、中山秀司の一人娘)からは、「なにものも恐れるな」ということを繰り返し教えられた。「私は子供の頃から、他人の頭をたたいて育ってきた。」という腕白少年であった。

 その中山たまへ様[1877-1938]について、「彼女は気性もつよく、女ながら相当の政治的手腕の持主だったと言われている。」と青地は書いている。

 

 中山たまへ様について、以下のブログが参考になります。

 

 

 

 大正7年7月11日から、中山たまへ様(管長公未亡人と呼ばれていた)による受訓が開始した。村山はこの事実を「天理教の世俗化が決定した」と評価し、日本宗教学会誌「宗教研究」別冊号に投稿中である。  

 

 さて、上田奈良糸様によるお授けの運びは、前年の大正6年に茨木基敬さんの休職処分の前後から事情が生まれ、お運びがストップ。 500人の受訓希望者を実家に帰していた。【天理大学の学会の報告資料より】

 

 大正7年1月16日に茨木基敬・基忠への免職辞令が本部の集団的通牒で発令。

     3月22日 北大教会の土地建物其他全部の引継登記を茨木家から本部に完了

     3月23日 上田奈良糸様が精神的危機でお運びの完全停止    【天理大学の学会での報告資料より】

 

 

 以下の青地の原文を掲載。

 

 

 

二代真柱の功績として、(青地、p.261) によれば、以下の通り。 

 

1, 教義の確立

2,教団の近代化

3,神殿、<おやさとやかた>など<地場>の大造営

4,真柱の権威の絶対化

5,学問、文化、スポーツへの貢献

 

 学問への貢献として、天理図書館のコレクション、天理参考館のコレクションなどは、今回の宗教学会でも展示され、内外の学者たちも参観された。

 

以上

 

参考文献

青地晨(1968)『天理教』弘文堂新社。