おふでさき12号に以下のお歌があります。
このしんをまことしんぢつしてみせる これみたならばみなとくしんせ (12-159)
(この真を誠真実して見せる これ見たならば 皆得心せ)
人間の誠の心が深化発展し、その人の心を受け取って神様が守護してみせていく。心通りの守護という人間の日々の人生の出来事すべては、神様の守護であり、人の心を受け取って見せている。それを見せている神がいること、神の心が守護に添っていることを得心しなさいという、神様からの命令調のお歌である。
善も悪も同じように見せているが、なるべく悪は受け取らず、善はすぐにでも見せたいのが親心である。神様は親心一杯であり、あらゆることを見せているのである。
人はその与えを神様の守護と感じれば良いが、自分の手柄だとか強欲を出したりすれば、それは長続きしない。
今、大国が自己都合の強欲を丸出しにしているが、このような国柄は衰退の大きな証となるだろうフランスの歴史家は見ている。
悪しき理は、心の汚れを反省させるために見せている。避けられない人間関係の中から、悪口雑言、罵声を謂れれる。すべて、我が魂を磨くための与えである。
米価や野菜の高騰でも、飢えるほどでもない。戦禍に苦しむキーフの市民に比較しても、日本人ははるかに守護されている。ありがたい、もったいない日々である。
どのよふな事をするのもみな月日 なにをゆうのもみな月日やで (12-160)
[どのような事をするのも皆月日 何を言うのも皆月日やで]
月日とは親神様の別称であり、日々の出来事、自然現象など形の世界は神様が支配され、守護されていることを何度も何度も説かれている。
科学の発展も、AIの発達も人間の文明の力なのではない。文化文明の発展も神様の守護によって、いかなることも生起しているのである。そして、この神様の思惑を伝えているのは、教祖(おやさま)であり、歴史的教祖が御身を隠されても、教祖存命の理は永遠と続くことが暗示されている。
神は永遠であり、語る人は代わっても、永遠に語り続ける。その語る人は本席様であり、歴代の00様である。
00とは、機械とよばれる神格者であるが、その概念は今の世俗化した天理教団にはない。 教団という形を超えて、人の心は自由であり、存命の教祖が、今も、『おふでさき』を通じて、永遠に、現代的に語りかけておられる。特定の宗教団体の中だけでなく、世界のあらゆるところで、神様の守護が満ち溢れている。