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「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

 

 田園都市線の三軒茶屋から東京学芸大学付属高等学校には徒歩で20分。超進学校のその周辺の閑静な住宅街は、意外と起伏に富んでいます。その周辺の寺社を散策し、特色ある以下の寺院・神社を紹介します。

 

(1)野澤稲荷神社 旧野沢村の鎮守社 御神木に触れるとパワーを頂けるそうです。

 

 

 

 野澤稲荷神社の鳥居

 

野澤稲荷神社の御神木(銀杏) 社務所の前

 

(2)世田谷観音 特攻隊を祀る文化財の集積寺院

 昭和26年創建と寺院としては新しいですが、70年の歴史、特攻隊で亡くなった6000人以上の御霊を祀る特攻観音があり、特定の宗派にも所属していない単立寺院だそうです。 マスクがないと入れません。

 

 

 

 

 

吉田茂が揮毫した「世田谷観音」、正面入り口

 

特別攻撃隊慰霊顕彰の碑

 

世田谷百景に選ばれ、寺院と緑が癒しの景観

 

(3)龍雲寺  臨済宗の祈祷寺院、境内地に入ることが可能。 環状7号線から龍雲寺通りがあり、通りの高台にありますした。臨済宗の禅寺です。  

 

 

 

 

 徒歩で1時半で回れました。 環状7号線の東側の住宅街は起伏に富み、その中に点在する寺院、神社でした。江戸時代は野原、畑地、原野だっただろうと思われました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明治の文豪、徳冨蘆花(1868~1927:本名健次郎:以下、蘆花)は後半生、東京の世田谷区に住んでいたらしく、その住居あとが、芦花公園として、区内にある。

 

蘆花に関する博士論文が韓国の済州大学校大学院に提出されている(以下のサイト)が、大変な研究である。

 蘆花の文体は漢文調で、読みづらいが、自然派文学者として、自然3部作が有名らしい。『自然と人生』はベストセラーとして売れ続けたらしい。

 

oak.jejunu.ac.kr/bitstream/2020.oak/21410/2/徳冨蘆花の初期作品考察.pdf

 

 

 さて、蘆花は明治42年の秋に、天理教の教会(千山支教会)の秋祭りに招待され、その訪問談を随筆として残している。

 

 以下の書籍サイトの「天理教の祭」(明治四十二年 十二月四日)という文章が残っている。

 

 

 

 

 訪問した教会は、天理教千山分教会で、この教会はいまでも、芦花公園の近くにあることが分かった。

 

 

<天理教千山分教会>

 

 子供食堂も運営していて、天理教の世田谷支部の中にある。支部のサイトがあるのは珍しい!

 

 子ども食堂・フードパントリー - ホームページ

 

 

 ページが見つかりません - ホームページ

 

 

 明治末の世田谷には農民が多かったことが、蘆花の作品から分かった。

 

 天理教は、農民のための平和な宗教という印象がもたれていた。

 

 信徒が国民の10人に1人くらいか? 相当信徒がいた時代の天理教の風景がわかる。 

 

 記録のために残す。

 

 

 

 

 

以前書いたものを、再校しました。

 

 あわせて、梶本宗太郎さんが本部員になったとき、茨木基敬さんも本部員となりました。その珍しい明治44(1911)年の写真も掲載してあります。

 

 

2025年には2つの天理教に関する紹介動画があり、アクセス数もそれなりにありましたので、つい見てしまいました。信徒でない外部者の作品なので、誤解した内容もあるので、コメントしたいと思います。

 

1.【天理教の真実】政府が恐れた?神道でも仏教でもない謎の宗教

ヒューマン伝 234,220 回視聴 2025/02/18 #天理教 #宗教 #日本史 2026.2.17現在

 

 

目次もあり、映像も工夫していれて、分かりやすく解説しておりました。以下、不適切な表現、理解について、指摘します。

 

1-1.(誤り)天理教は新興宗教である。 ➡ (正)天理教は新宗教である。

 新興宗教とは伝統宗教に対して、幕末維新期以降に生まれた新興の宗教と言う意味で、マスコミや歴史学で主に利用される表現です。 他方で、宗教学的には新宗教と形容されています。

 東大で新宗教の概説をされた島薗進先生の1980年代後半ころの授業によれば、上記の通りです。新興宗教は歴史学の用語であり、宗教学の用語ではありません。新興宗教というと、成り上がりで、得体の知れない、不気味な宗教という悪意も含意されていることから、宗教学では、この用語を使っていません。『新宗教事典』(弘文堂、1990年)でも井上順孝先生たちが編集されましたが、同じように語っているかもしれません。「新興宗教事典」は聞いたことがありません。

 

1-2. (×)天理教は仏教の影響を受けている。 ➡ (正)天理教は独立した教えであり、啓示宗教である。

 天輪王講社などと天理教の初期の名称から、また中山みきが浄土宗の熱心な信徒だから、因果応報の思想が似ているから、などの理由から、天理教は仏教の影響が強く、神殿も寺院の体裁であると語られていました。

 仏教では創造神とか神の実在を想定していません。非有神論的宗教が仏教で、創造神を立てる天理教が近いのはむしろ、一神教であるキリスト教や聖地巡礼のあるイスラム教に類似しています。

 1838年(天保9)年に天理教が創始された時、天理王命という神が中山みきに憑依したことは確かで、それから50年間その憑依現象が継続したことで、中山みきは生き神として神の教えを説き続けた。その神は、仏教や既存の神道の宗教的伝統を超越した新たな思想、理の教えを説いたのであり、仏教やキリスト教など従前の宗教から「独立した宗旨」が説かれたのである。

 1838年までには従前の宗教・信条は裏守護として神が支援してきたが、本当の真実の教えが広がれば、廃れていくことが預言されている。実際の大社高山と教祖が形容した宗教勢力は次第に衰えたことは確かである。

 ただ、既存の宗教にも伝統と歴史があり、救済力が全くないわけでなく、必要なものとして神様が今でも守護され、立派に機能していることが事実である。お互いに相互に学ぶ点は宗教間対話で生かされている。

 しかし、究極の真理が開示され、創造の原点である地場の理が明かされたことに、天理教の究極性と絶対性は信仰者の求心力となって、今の地場にもその匂いとなって、継承されている。  

 

1-3. (×)教祖はすぐに救済者となった。 ➡ 貧のどん底をへて、不思議な助けは後半生に

 教祖(おやさま)である中山みきの生涯、そのヒューマン伝を知るには、『教祖伝』を読むことが第一の近道だが、このYouTubeの作者は、そこまで勉強されていなかったようである。

 神が憑依して、生き神となったら、不思議な霊救や奇跡、霊視、超能力がすぐに表れると思うのが普通の考えであり、多くの宗教学者も似たような考えをもつ。

 不思議や奇跡が日常的に外部に目立つようになったは、教祖のひな型の親としての後半生である。安産の神様として自身で試して、娘などに試してから広がったのである。あくまで後半生であり、それまでは貧のどん底への道であり、主人の善兵衛さんにも理解ができない道中であった。当時の男尊女卑の社会的意識の中で、妻の言うことに従わざる得なくなる旦那様の心中は想像を超えるものがあり、家の没落を、親族からの離縁を耐えていくなかで、何も結構を見ずに夫は1853(嘉永6年)になくなった。

 魂の錬磨、中山家の掃除の道中があり、その先に、外部に広がる霊救が始まり、それを恐れた明治政府による真の宗教弾圧も始まるのである。

 

1-4.天理教校学園高校の廃止に関する経緯

  詳しくは、以下のサイトにあります。天理教校の歴史はもっと古く、天理親里高等学校もあり、実は、高校が三つあった時代もあったのです。その辺の経緯が十分に説明されていませんでした。天理大学の上に、天理教校本科研究課程というものがあり、これが大学院的な教学研究の最高機関となって存続しています。 

 

 
1-5.  謎の神「天理王命」の正体 ➡ 理の神、「天理王命」の正体
 
 信仰者でない外部に人には、神は謎であり、これは信仰者にとっても同じです。しかし、神は謎であっても信心の対象であれば、常に感じ、心の中で、神と対話しながら生きているのが信仰者の実存であります。神秘でも謎でもなく、日常生活は日々に神に生かされている体験から、神とは感謝の対象でしかない。
 神の言葉である、『おふでさき』があり、日々に『みかぐらうた』を唱える中に、神は身近に感じる実体そのものであり、謎でも神秘でもない。  
 心通りに神様は守護され、人間は貸しもの・借り物の世界で生かされている。何事も人間は自己実現ができる主体的な素晴らしい存在であり、人間の共同体としての陽気暮らしが目指されている、それは甘露台世界の究極の理想世界である。
 神様は謎ではなく、1838年以降、永遠にこの世の顕れ続けているのである。 神は永遠であり、人間の魂も永遠である。 
 
2.4人に1人が信者!日本最大の宗教都市"天理市"を全力で観光してみた
ひろき / 世界旅行 
244,425 回視聴 2025/05/04   2026.2.16現在
 
 人気のYouTuberらしく、天理教の本部を訪問した印象を分かりやすく親しみを持って描いていて、好感をもてました。
 
1.詰所の名称は地名ではなく、大教会の名称
 高知とか郡山とかは地名ですが、詰所は教会本部の直属の大教会の名称で、必ずしも地名が大教会の名称となっている訳ではありません。本部は教会本部といわれて、総本部といういい方はありません。
 
2.天理本通りにチェーン店がない、26日だけで儲けている
 利益重視のチェーン店が天理本通りに全くない、古い店ばかりである。それは正しいでしょう。祭典のある毎月の26日は信徒で溢れて、店も儲かるでしょうが、昔はもっと儲けていました。 夏の子供お地場帰りの期間中など、おもちゃ屋は飛ぶように売れていたのを覚えていますが、その店はいまでなくなっていました。 商店街全体として衰退は明らかです。
 
3.天理ラーメン
 今は店舗が天理本通りにも進出したようですが、以前は、中大路の池の前に屋台を出していたのを覚えています。30年以上前です。
 
4.教祖の御墓地に参拝者が皆無なこと
 よくお墓地まで行かれました。本部の北に15分以上歩いたことでしょう。ちょっとした高台にあります。甘露台が立つ地場を中心に神殿があり、四方正面で参拝できることが解説されていました。そして教祖殿という別の建物があり、そこに今でも教祖が存命であることが信じられていることは確かです。教祖の亡きあと、飯降伊蔵さんという高弟が本席という天職のもと天啓を継がれました。本席の啓示、おさしづが存命の教祖の言葉です。それが明治20~40年まで続きました。
 天理教の救済の源泉は、神の言葉を発話する生きた神である中山みき、飯降伊蔵という肉体をもった啓示者にあります。それゆえに、お墓地は礼拝の対象としての地位が低いわけです。それは正しい見方でした。
 お墓地の参拝ご苦労様でした。山の上から、南側に神殿・教祖殿が見えたことでしょう。 
 
 
 以上。
 
 

 

明治20年1月26日に天理教と呼ばれる一つの教えを創唱された女性の教祖、中山みき様がこの日に90歳でお亡くなりになられた。

天理教では、教祖と書いて「おやさま」と読んだり、お亡くなりになったことは「現身(うつしみ)をお隠しになる」という独特の用語で表現している。

 

 教祖は存命であり、今も生前同様に働かれている。その証拠に今でも不思議なお助け、霊救があるのは教祖が存命であるという言説が信徒によって信じられ、「においがけ・おたすけ」という布教活動がこの年祭に向けて推奨されてきた。

 

 天理教道友社のサイトからみると、個別訪問・路傍講演という形式の未信徒への宣教活動も一部の支部で実行されたようだ。

 

 奈良テレビによれば、帰参者の数は、12万人という。そこには素朴なhumbleな信仰者によって今の天理教が支えられている現状が分かる。

 この数は多いとみるか、これが天理教の実力とみるか、色々と解釈はあるだろう。しかし、明らかに衰退を象徴している数字ではないだろうか。過去の天理教の勢いと比較しての印象である。金子(2018)によれば、以下の表1のようにここ50年の統計データで見ても、信者総数は百年祭以降は漸減していることが分かる。

 

 

こうしたことは既に分かり切っていることなので、今回の親里帰参(2026.1.25-26)を通じての発見を書き残したい。

 

 

*教祖百四十年祭特別展示「おやさま」 

 年祭準備会議事務局(内統領室内)の主催、南右第二棟の地下2階での展示。入場料は無料。恐らく予算1000万円以下で既存の写真パネルや教祖ご在世の時の教祖ゆかりの品々を展示したもので、普段見ることのない貴重な品々であった。

 

1) この中で私も最も印象を受けたのが、教祖の監獄に収容された際、下駄を枕にしたという逸話が残されているが、その下駄の実物が展示されていた。本当に驚いた。何に驚愕したかというと、下駄が赤衣(あかき)で覆われていたことである。赤衣の下駄について英文では以下の様に翻訳されていた。

 

 The red clogs used by Oyasama as a pillow during Her last hardhip of imprisonment in 1886.  

 

 教祖は明治7(1874)年から赤衣を召されたことは有名な史実であり、その理由については、以下のサイト、深谷忠一(2016)が詳しい。亡くなる前年の冬の極寒の中、櫟本村の分署に収監された教祖。その収監は「ご苦労」と形容されているが、救済者に対する明治政府、奈良県の宗教弾圧があったが、弾圧を超えて、信徒は拡大していった。「最後のご苦労」は髙野編の年表では12日間だとされる。

 

2) また教祖にお供した孫の梶本ひさ(結婚して山澤ひさ)が残した鉄瓶は、監獄に日々運ばれたさ湯の差し入れのために利用されたもので、これもリアルであった。

 

 An iron kettle used to bring hot water for Oyasama's sustenance. 

 

 ひささんの手記(昭和5年4月4日)によれば、15日間の拘留の間、朝・昼・晩の3回、梶本家でお湯がこの鉄瓶に入れられて、運ばれた。増野と清水さん、梅谷と米田のペアが運んだという。増野正兵衛、清水与之助、梅谷四郎兵衛の3人はみな本部の重鎮となる人たちが教祖に付き添っていた。米田さんは不明である。 どなたか史実に詳しい人に聞きたい。 

 

   

 

3) その他、雨ごい勤めで地場から4つの方角の地点でなされたことが写真版であり、これは今の地場の地図とともに説明されていて、見ていて楽しかった。 おやさとマップを参考のためにPDFから写したものを以下。 東筋の北当たりもその一つの場所。  今の日本もダムの貯水量が激減していて、雨ごい勤めが必要かもしれません。

 

 

 全部で45点の品々でした。 教祖伝をしのぶ歴史的遺物に歴史的教祖を身近にかんじることができた。

 

4) 本日の考察

 

 教祖の存命の思惑は、本席の飯降伊蔵様の刻限話を通じてその後、20年も継続して、天理教はさらに大発展した。

 

存命の理が周囲に治まらず、本席様は、赤衣を羽織ることもあった。それは『おさしづ』の割書きに書いてある。

 

 教祖の代理であることを知らせるために、赤衣を羽織ったのである。

 

 存命の理とは、教祖の詞を今なるの機械が下す詞の中にある。 

 

参考文献

 

金子昭(2018)「天理教の布教の現状と課題―教会のあり方を中心に―」『中央学術研究所紀要』第46号, p.77-99。

 

 

 
深谷忠一(2016)「赤衣」『Glocal Tenri』通巻196号,Vol.17 No.4,  April, p.3.  

 

 

 

 天理教では、年祭といって、教祖没後の10周年ごとに祈念する特別なイベントがあり、信仰活動を活性化させるための行事が10年ごとにある。この年祭活動は毎回3年千日という3年間の特定期間をもって3年前から企画されるのが常である。

 元来、本席様が在世中にこの年祭活動、3年千日の教理が確立された。それが本席没後も形式的に残されたといえる。年祭活動にあたり、毎回、真柱から諭達という地場からの声掛けが発して、この日を迎えたのであった。

 

 教祖百年祭の頃は、私の学生時代で、「百とは白紙に戻して一より」とのスローガンが前の中山善衞・真柱のもとであった。あの頃の学生は、今は皆教団の幹部になられていて、私は名もない末端の信徒である。

 

 

 一信徒として、今回初めて春の大祭に参拝。6時の朝勤めのあと、そのまま居座って、10時半からのかぐら勤めをまじかに拝することができた。北礼拝場の最前列、甘露台の中央線からはすこし東側で、西側の3柱の道具神の独特の手ぶりを初めて拝観できた。一生の思い出となる貴重な体験をここに記す。北側に立つ大亮様の月様(くにとこたちのみこと)は白いたてがみが見えるだけで、その手ぶりは分からない。先の三柱の動きがよく見えるだけであった。すべて男神の三柱は、第一節の「みこと」の部分でそれぞれが異なる動作をしていた。坤の立つ「かしこねの命」は両手を手前から右側一杯へ止める。西の「をうとのべの命」は両手を手前から、腹前にひっこめる。乾に立つ「月よみの命」は、右腕だけを右斜め上に鋭く振り上げる。正確ではないかもしれないが、上記の独特な動作があった。

 ペア神である、月日両人の「くにとこたちの命」と「をもたりの命」は手のひらを下側におろす、他方は手のひらを上に上げるという交互作用の手ぶりがあるらしい。また夫婦の雛形である「いざなぎの命」と「いざなみの命」の両神も同様な交互作用を体現してるらしい。東側に立つ二柱の「いざなぎの命」と「いざなみの命」は頭だけしか見ることが出来なかった。なお西側の女性神の三柱の「くにさづちの命」「くもよみの命」「たいしょく天の命」は全く見ることが出来なかった。

 立ってみようとすれば、境内係から注意されるため座った位置からかろうじて見えるだけである。結界内の教会長たちはもっとよく見られる特権がある。一般信徒と聖職者である教会長たちの間の区別はこのようにして存在する。

 それはそれとして、独特の所作があることをこの目で見られた経験は得難い。「かぐらづとめ」は人間創造の摂理、人間救済の原理をしたシンボライズした天理教の最高儀礼である。宗教学的な月並みな表現でいえば、儀礼を通じて世界が更新するのである。

 今回利用されたかぐら面は、70年祭の時とはある程度異なる意匠でデザインされているらしい。

 

 月日二神が創造の最初にいた神であり、この味気ない世界から人間世界創造が思いつかれた。そこで道具八柱の神々が見いだされ、協力体制のもと人間世界が創造される。天理教独自の創成神話に描かれた神々のストーリーである。この道具神たちは8つの個別の機能・特性をもっていて、それがこのかぐらづとめの手ぶりに表現されている。

 

 人間は人間として存在するのではなく、神によって創造された最高傑作としの人間像がここにある。人間一人ひとりには神の思惑が最高に詰まっている。神々のつとめで人間世界が創造された。このことを対して、人間側の勤めがある、それがつとめ一条である。形のつとめではない、日々の心のつとめである。何事も神様のあたえと信じて仕事に励み、世のため人のため生きていく。

 

 うかうかなく、最高のたんのうを治めて、心磨いて新たな三年千日歩んでいきたい。 

 

 

 

 

 

 今から30年近く前のある日の神様からのお詞である。和歌や散文体とあったが、この日は散文体で、かなり長めの神様のお話である。当時、留学から帰国して、大学で教えて初めた年であった。あれから30年たって私も還暦過ぎてしまった。どれだけ心の成人が出来たのか。今でも日々に磨きの事情はさらに厳しさが増し来る。この与えを喜び、たんのうしてこそ神の詞の道が生きて来るのである。

 辛い事や嫌なことがあると、そればかりに心が奪われて、人生そのものを呪ってしまうのが、人間の悪い癖である。日々はどれほど守護を受けているか、自分で自由になることがどれほどあるか、そうした日々の有難さを忘れてはいけない。自戒しないといけない。

 

 人間の肉体は神様から貸しものであり、人間は肉体を借りている。この根源的な真理を全ての思考の土台におかねば、人間は不足や支配欲から戦争まで起こしてしまう。レアアースだ、西半球だと支配欲から民主的な心が踏みにじられている世界の政治情勢は、ウクライナ侵攻を正当化する材料を敵国に与えているという皮肉。

 

 このような人間心の姿は己の鏡であり、己のよごれを世界を鏡として見ている。ほこりやよごれを日々に取り除いて、磨いていくことが日々の大切なつとめである。

 

 正月二十六日の大祭が地場で勤められる。肉体としての教祖(おやさま)の地上での最後の日が、その日であった。明治二十年1月26日。今年は西暦2026年1月26日の太陽暦であるが、同じ26に大きな意味がありそうだ。

 

 「・・・神の詞は 天保九年から 続いているで 真に 魂に目覚めたもの 末代まで導くための詞や

 詞は続いてるで 道は 切れ目ないのや 今の今まで続てるで 降された詞は 一筋の目的の道や

 本真実 求める 人間には 誰にも見えるで 一度降された詞は 永遠ものや をやの心は いつでも 生きているのや

 いつでも 続いているのや 詞 通りに 働いているのや・・・」(平成8年7月28日)

 

 『おふでさき』や『おさしづ』で説かれ始めた天啓の道は、永遠に続き、同じ理が説かれ続けている。それが永遠の真理であり、人間が陽気暮らしするための原理が解き明かされたのである。 人間の心は何処まで自由であり、自由な心を神は人間に与えた。その心が神の理に目覚めて、魂人間となる。本来の本当の人間の姿が魂人間である。「心通りに神が守護する」という第二の巨大な真理がある。心通りに色々な姿形の現象が起きてくる。これを神の守護という。神が人を喜ばすためにいろいろなものを見せている。神が支配する形の世界である。  

  人間は絶対的に安心立命の神の懐住まいの中に生きている。生かされている。 そして人間の究極の目的は、かんろ台一条という超理想社会の実現にある。

 

 「楽しみの時代 来るのや さあさあ しっかり 目覚め」

 

 高市政権の審判を問う、衆院解散総選挙へ。 Japan is Back.   

 

 真の日本の理は、地場にある。地場の理から始まったこの道。地場が目覚め、

 

 第二の天保九年に向けて、地場が再生することが真の世界平和の究極の道筋だと信じます。

 

<合掌>

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 令和7年の年末に金子先生から表題の大著が届きました。

近代日本国家と天理教の時局対応 - 法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年

 

 明治40年に本席様亡きあとに、天理教という教団が社会的存在として、軍国主義が進む日本国家の中で、その教義を時局に合わせてゆがめながら存続する道を歩み続けたかを『みちのとも』という教団の公式的な月刊誌、あるいは取り締まる内務省警保局保安課と司法省刑事局思想部の資料を利用して、客観的な立場から書かれたものです。治安維持法のもとこうした政府の機関が取締の実働部隊だったのです。内務省警保局保安課『特高月報』を発行し、司法省刑事局思想部は『思想月報』を発行したそうです[金子(2025)p.165-166]。

 『特高月報』では天理教の、反国家的言動、反社会的言動、教団内部の動静確認が昭和6年ころから注目されました。

 教団幹部以外の氏名や大教会の名称はOOと書かれていて、金子先生の個人情報に対する配慮は周到です。昭和3年の天理本道の事件もあり、本元である天理教も当局から睨まれていたのです。

  本の帯には「国家の時局に宗教はいかに応じたのか」とあります。すなわち、当時の日本の各宗教教団はすべて、存続するために国家神道体制のもとで、本来の自由な宗教活動は許されず、反発すれば大本教にように神殿破壊という弾圧もあった時代において、いかに対応したのかが問われます。そこで天教教をケーススタディーとして描いたものです。

 

 天理教において、啓示は完成し、管長や本部員を中心とした人間の集団として、天教教が戦前において、国家神道体制のもといかに時局に対応したのか。 ようやく本書によって、その概要が明らかになりました。

 

 神意にもとづかない、人間一条の集団として天理教は明治末、大正、昭和の戦前期を生き残り、戦後の民主化の中で、何とか復元を果たしますが、同じ人間の集団として、イベント主義、行事主義を墨守して、現代にその伝統が継承され、形骸化した存命の理のもと、今の天理教の衰退に至るのです。  

 

「詞とは 救けるために 降すのや 詞に縋れ をやの心や」(平成8年7月16日より)

 

をやの心は永遠に生きていて、令和の今も変わらず神様の守護で溢れています。人間はかしものかりもので生かされて、立っているのです。この真理を治めるために詞の理が永遠に下されているのです。