天理教の宗教儀礼に「みかぐら歌」があり、十二下りは数え歌として、日々に唱えられ、踊りを通じて、神様への感謝を表現する神と人とのつながりが現れされている。
その意味内容には形を超えて、新たな神意が込められていることが今回明かされました。 誠に驚くべき内容として、届かぬながら書かせてもらいます。
みかぐら歌 三下り目
一ツ ひのもとしよやしきの つとめのばしよハよのもとや
[日の本 庄屋敷の つとめの場所は世の元や]
三下りの一ツから五ツは扇が利用されていて、これはこの下りが重要であることが暗示されている。
御教祖おやさまによってこの道は、日本国の大和國庄屋敷村において、天保9年(1838)神が現れたという史実は変えられない。
日本という国に特別な意義づけがあり、日本という国の長い歴史の意義も、実は、神様が守ってきた国柄があり、世界助けの順序として、日本に特別な役割があることが含意されている。
インバウンド客が増えて米価が高騰したが、外国人が真に知らねばならないのは地場の理である。
トランプ関税15%の外圧があろうと、日本人は日本人として自覚と誇りを持たねばならない。天皇家が日本の象徴となっているが、これも神様が守ってきた家柄である。
中山家は庄屋の家柄で庄屋の屋敷があるということで地名も庄屋敷になったと思われる。関西では庄屋、関東では名主、東北では肝いりなどとよばれ、幕藩体制のもとでは、在地の地主として支配者層の末端を担っている。
荘園の荘とも関連する庄は「いなか・村里」をもともと意味している。
屋敷(やしき)は本席様の時代に、神の屋敷、鏡屋敷といって、神様のお話が下される御用場として特別な意味付けがなされた。実は、この庄屋敷にもそれに匹敵する意味が込められているという。
庄屋敷は「いなかの屋敷」であり、都からは離れたところにある、「汚れのない、荘重な屋敷」という含意だという。
心の汚れがない、そのような屋敷で、つとめが勤められる。つとめ場所とは心の汚れが許されない場所であり、そのような所でおつとめがされるのである。
そのつとめ場所は「世の元」というからには、創造原理が発揮されるというスピリチュアルな精神的次元が含意されている。
神様が人間を作って、神と人が共に楽しむ陽気遊山を楽しみたいという甘露台世界が理想のユートピアとして求めらている。
つとめには神が出張って、神と人が共につとめるのである。
さて。つとめ場所は地場の巨大な神殿の中にあり、また各地の教会や講であると普通に思われている。これが今の教団体制からの見立てである。しかしどんなに壮大な伽藍があろうと、つとめる人衆の心に汚れがあれば、何も変わらない。形だけの形骸化した儀礼がなされるだけである。
そして今の地場には、存命の教祖はご不在である。神の詞が下される地場の別間が、つとめ場所の機能を令和の時代にその責務を追うことになった。形は小さな別間でも、存命の教祖からの期待は誠に大きく、一層精神を引き締めたいと思う。
明治期までは奈良県三島市の地場に史実として確かにつとめ場所があった。
其の勤め場所は、つとめ場所の機能を失って100年以上たってしまった。
地場の別間で「刻限のつとめ」に参らせていただきます。
<合掌>