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「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

天理教の信仰の眼目の一つに、教祖(おやさま)は存命でおられ、今でも、生前同様に働かれているという信仰がある。

 

兵神大教会の大教会長の最近のエッセーにも以下のようにあった。

 

「教祖が、現身を隠されて後も、存命同様に元の屋敷に留まってお働きくださっているという理解は、天理教の信仰者ならば周知のこととなっています。」 【出典:『芳洋』R185.2月号「風」より】

 

 

 これを書かれた、清水慶政会長は『おさしづ』を引用されていて、存命の理の出典が『おさしづ』であることを明らかにかされている。そこまでは正しいが、おさしづを話されている、本席様のお言葉が、存命の理そのものを体現しているところまでは理解に至っていない。頭のいい山名からの養子の先生のエッセーだが、今の天理教団の水準にとどまっている。  

 

 兵神の二代目会長である清水由松氏が本部青年として、本席様のおさしづの御用を身近で体験されている。そして地場における神屋敷の実体について、生々しく伝える伝記を残している。霊性あふれる、神の詞(ことば)が深夜に刻限としてあり、本部員を叩起き起こす役割を担ったのが、青年さんの由松さんであった。  この辺りは、『本席の人間像』(陽徳社、昭和26年)に詳しい。

 

 こうした貴重な本こそ、復刻すべきである。

 

 神屋敷の実体があった時代である。 人間が指導した時代とは、明らかに違う。 

 

 本部員や真柱を超える存在がいた時代である。

 

 

 拝金思想が蔓延して、人間の大きな声の人が通るネポティズムのご本部の指導体制のもと、新しい年祭をいかに乗り越えるか、苦悶の道が当局から伝達されたようだ。 

 

 兵神でも事情教会の整理があり、10%の教会を返納された。素直な記述に心が動かされた。

 

 芯を失った地場屋敷において、存命の理を求めるなら、霊性の源泉がどこにあるのか、足元をしっかり見つめなおさねばならない。 

 

 足元に大きな理を見る。 

 

 これは預言として、地場の建て替えのために神様が用意されていることである。  

 

 教祖存命の理とは、もともと本席様の声が生きていて、その指令のもとにあることを意味する。本席様のような啓示者、機械(きかい)役が本来的には地場にいなければならない。これなくして、永遠の道は根拠を失う。 衰退する地場屋敷を神様はどのようにご覧になっておられることか。  

 

 茨木基敬さんの免職は、地場から教祖存命の理を止めることを意味していた。  存命の教祖を地場から追放したことなるのではないか?    

 

 いわば存命の理が形骸化して、苦しい説明でお茶を濁している。  

 救済があることが存命の理、

 教祖の霊を見たことが存命の理など。

 

 個人の体験主義や神秘主義に存命の理が矮小化されている。  

 

 

 茨木氏は本部からは異端視されて今に至るが、異端に関する烙印の背後で、茨木さんの残されたコトバの学術的な研究は、今の教会本部の体制からは、天理大学の先生でもできないだろうし、資料もない。  

 

 茨木氏が真の異端か、御母堂さんをトップとした松村吉太郎ら本部の判断が誤っていたのか、それはこれからの歴史がかなず証明していく。

 

 異端の啓示者か否か。  理を伝え、理を深堀できる方の声は見極めることは容易なことではない。

 

 

 三原典や茨木基敬さんの残された「お詞」の伝統の中から育ってきた裏の道の伝統からしか、その答えは出させない。

 

 

 

 真柱とは、役職を意味するだけではない。もっと奥に信仰心の在り方が隠されている。

 

 「しんのはしら」

 

 

 真の柱を、わが心の中心に立てること、信仰信念の真に確立した、ひな型の人間が望まれている。そうした人間となれるよう、存命の理、続く啓示の光に照らされた人間は、芯がしっかり定まるよう、心つくりにはげまねばならない。

 

 

 肉体貸しものかりものの理。  

 

 有形の形は、すべて神様からの与えモノであり、所有観の激変が必要である。 自分のものだと思うから、戦争もあり、専制国家も生まれる。 すべて人間心の産物であり、先進国の我々の中にも人間心は幾重にもある。

 

 コロナ禍は続き、戦争は3か月に及ぶ。  大掃除の時旬であり、最後の磨きとなる事情が世界で蔓延している。

 

 肉体がサステナブルに生き続けること。肉体も自然界の素材もすべて神様からの与えであり、人間は生かされた存在である。

 

 絶対的他者によって、人は生かされている。 安心と喜びの心は、かしものかりものを真に信じる中から生まれる。

 

 

 

 暗闇の地場の夜明けに向けて、私が生きている限り、発信してまいります。 

 

 

 寿命がいつ切れるか分かりませんが、よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天理教には多くの教会がありますが、人から人へと伝播しているのですが、とりわけ大きく布教した人も中にはいます。

天理教の伝道史では、河原町大教会(斯道会系)から分かれた大教会が36カ所もあり、今でも斯道会の別席団参もあるそうで、歴史を感じさせます。

 

 天理教秩父大教会の青年会のブログから。

http://titibuseinen.seesaa.net/article/404601204.html

 

https://titibuseinen.up.seesaa.net/image/E696AFE98193E4BC9AE3808CE5A4A7E69599E4BC9AE6A8B9E5BDA2E59BB3E3808D.jpg

 

斯道会(しどうかい)の設立は、明治17年で、教祖がご在世の時でした。

天理教への迫害弾圧が激しく、教祖が監獄へ収監されている明治17年に、弾圧をも覚悟して、講社の設置を神様に願い出る真実の人たちもいたのでした。

神様の預言通りの本当に大きな信徒を拡大しました。その教祖の預言の「おさしづ」は記念碑的な神の詞だと思われます。

 

たった一言ですが、それは斯道会の盛大な発展をへとつながったのです。

 

天理教越乃国大教会史料編纂部 編『おさしづ』(昭和13年)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1034618

 

の本文1頁にありました。深谷源次郎さん(河原町初代)と宇野善助さん(越乃國初代)たちが教祖(おやさま)にお伺いを立て、お許しがあったとのことが、以下引用する教祖伝逸話編にも掲載がありました。

 

3月上旬といわれますが、3月24日から4月5日に教祖は監獄に収監されておられました。

 

明治15年から屋敷住まいをされていた飯降伊蔵様もこの時期、言上の伺いの御用されていて、その「おさしづ」とも大変似ているように思いました。

 

 

 

 

http://tenrikyo-benkyo-blog.seesaa.net/article/315552615.html

より以下、転載

 

稿本天理教教祖伝逸話篇一四一 ふしから芽が切る

明治十七年三月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と共に、斯道会講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。夕刻に 京都を出発、奈良へ着いたのは午前二時頃。未明お屋敷へ到着、山本利三郎の取扱いで、教祖(おやさま)にお目通りしてお許しを願った。すると、
「さあ/\尋ね出る、尋ね出る。さあ/\よく聞き分けにゃならん。 さあ/\このぢばとても、四十八年がこの間、膿んだり潰れたり、膿んだりという事は、潰れたりという事は。又、潰しに来る。又、ふしあって芽、ふしから芽が切る。この理を、よう聞き分けてくれ。 だん/\だん/\これまで苦労艱難して来た道や。よう聞き分けよ、という。」
とのお言葉であった。未だ、はっきりしたお許しとは言えない。そこで、深谷と宇野は、「我々五名の者は、どうなりましても、あくまで神様のお伴を致しますから、」と申し上げて、重ねてお許しを願った。すると、
「さあ/\/\真実受け取った、受け取った。斯道会のは、さあさあ今日よりさあ/\埋んだ。さあ/\これからどれだけ大きなるとも分からん。さあ/\講社の者にも一度聞かしてやるがよい。それで聞かねば、が見ている。放うとけ、という。」
と、お許し下され、深谷、宇野、沢田、安良、中西、以上五名の真実 は、親神様にお受け取り頂いたのである。

 

 

「さあさあ、これからどれだけ大きなるともわからん。」は確かに実現しましたが、さらに世界に広がる種がまだまだ埋まっているかも知れません。 

 

同じく、国会図書館のデジタル資料で、天理教撫養大教会 編纂『おさしづ』(昭和11年)が下記のサイトにありました。

 

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000610218-00

 

 

明治21年旧暦11月1日に、6名がそれぞれ、本席様からおさづけの理を渡されています。遠方から願い出たと思われますが、この当時、まだ別席制度が確立する前で、これだけ一挙におさづけの理が渡されるのも大変珍しいのではないでしょうか。

 

公刊本『おさしづ』の補遺に麻植房次郎さんのおさづけの理拝戴のおさしづが収録されていますが、他の5名の方の記念すべきおさしづ(6-9頁)は公刊本には掲載がないようです。

 これら真実のある5名の幹部信徒のお名前に敬意を表して列記します。

 

明治21年旧暦11月1日

 阿波眞心組賀須野周旋人玉垣多傳治お授け願(三十二才)

 阿波國板野郡大須村眞心組周旋人北島友五郎(二十五才)お授け願

 阿波國板野郡折野村眞心組講元三木類太郎(六十五才)御願

 阿波國名東郡佐那河内村眞心組講元日浦周作(四十七才)お授け願

 阿波國板野郡斎田村眞心組周旋人播磨芳蔵(六十四才)お授け願

 

 これらの方々の子孫は今でも撫養系の有力な信徒なのでしょうか。

 

「おさしづ」に基づき、撫養の道は進展してきました。「おさしづ」を用いないと神様に反対するようなものであり、暗闇同様の道であるという冒頭の解説がありました。

今の天理教団の暗闇の道をそのまま暗示しているようです。

 

どのおさづけおさしづでも、誠の心を定めることで自由用を見られるという生涯の心定めが説かれる。無形の神を信じて、誠の心をもつこと、真の柱を心に定めること。

 信仰信念の確立が求められています。

 

 

 

 

現在は、DXの時代で、天理教の珍しい文献が国会図書館(NDL)でもデジタル資料として公開されています。研究者はよく利用していて、私もデジタル化の恩恵を受けて大変感謝しております。

 歴史的な実在としての教祖や本席様の実像とはどうだったのか。キリスト教でも史的イエスが近代的に探究され、神話や虚飾を超えた、真の姿が探究されています。

 教祖や本席様の直弟子の一人で、兵神大教会の初代である清水家に伝来した教祖のご真筆や本席様の写真が冒頭にありますので、御紹介します。

 清水与之助さんは、信仰熱心で教会本部の草創期の幹部の一人であり、清水家に関すること以外、教祖ご帰幽前後のおさしづ、さらに本席定めのおさしづ、理教の独立請願にかかわるおさしづも収録されていて、まさに天理教の教団体制の草創期の根幹の歴史を形成している啓示を含んでいる。合計1100点のおさしづである。 兵神の宝物とも清水由松会長は書いている。 ただ200点は紛失しているという。 増野正兵衛さんもおさしづも膨大にあるが、その一部だけ採録されている。清水家と増野家、春野家は縁戚関係にあるためであろう。

 

 兵神において、何が諭されたのか、しっかり研究しないといけない。

 

 

 引用先は以下のサイトです。

 

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001925027-00

 

 

 

 

 こちから転載したものが以下の写真です。

 

 

 

 

 

 

 

『おふでさき』には暗号のようなお歌があり、以下もそのような一首です。

 

十一に九がなくなりてしんわすれ       (3-73)

    正月廿六日をまつ

 

“十一に九が無くなりて 芯忘れ 正月二十六日を待つ”

 

 

【理の思案】

 ここにはいろいろな説があり、明治二十年正月二十六日に、11歳のたまえ様で、90才の教祖の御年のことだと言うものです。

 ただ、『おふでさき』3号が永遠の真理を唱える書とすれば、「真の柱」や「しん」の意味にも重きを置くべきであり、人間の心の芯の在り方に、より焦点があるという見方を取りたいと思います。これは昨日00様からのご教示を参考に私が思案したものです。文責は私にあります。  

 十一から九を引くと二であり、明治二年から啓示書である『おふでさき』の御執筆が開始された重要な年です。1号と2号は明治二年に集中的に書かれており、世の中の激動の中、地場を治まるために、神意が集中的に動いたことが分かります。

 この明治二年において、地場における信徒たちの心の有りようが、芯忘れとなっていることが暗示されています。 

 「しんわすれ」の平ら仮名はいろいろと想像が湧きますが、心の芯が忘れられていると悟りたいと思います。信仰者の心の治め方として、神意がしっかり受け取られていない、心の軸がぶれている。それが「芯忘れ」の意味ではないでしょうか。

 教祖の神意を受け取るべき男性陣たちは、皆不甲斐なかった史実があります。

 夫の善兵衛さん、長男の秀司さん、そして婿養子として入った真之亮さんにいたるまで、全員が全員、世間体や外面の体裁にこだわり、信仰の芯を喪失したひな型を残されています。公認を取りたい、神殿を大きくしたい、制度や教義の確立など。

 そのような根幹的なことから、教祖は明治20年正月二十六日に御身を隠さねばならない運命、天命があったということ。それが、明治7年に預言されていたのではないかという解釈です。

 

 「しんのはしら」は「真柱」であり、天理教の統率者として、狭く解釈されてきました。しかし、一人一人の人間の主体性にこそ、神意はかかっているのです。真柱さんだけでなく、一人一人の人間、私達の信仰の在り方、受け取り方に対するご注意のおことばだと思われます。

 当時、明治4年に廃藩置県が断行され、旧幕藩体制から明治維新の統治体制への無血革命が実施されました。統治の根幹に関わる大激変の時代状況のなか、教祖が地場で神意を発動され、無血革命が実施されたとも言われます。

 心の芯の大切さが説かれ、しんはその他に、真実の心、身体のしん、こころの心、心身のしん、いろいろなしんが合わさって、信仰の要となる信仰心、人間の生き方の問題を問われているのだと思います。

 これは、平成の御用(平成3年1月8日の御用)とも関係しますので、いずれ書きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

教祖(おやさま)が書き残された『おふでさき』の第3号(明治7年)には同じお歌が、2首あり、それがこれです。

 

「 たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ 」(第3号40、135)

 “段々と何ごとにても この世は神の体や 思案してみよ”

 

 Step by step, reflect deeply upon all things:

 the universe is truly the body of God  (tr by Inoue & Eynon[1987])

 

 【理の思案】

 天地創造、創成神話は世界中の神話や大宗教の中にもあり、日本の古事記、日本書記にも国生みの創成神話があります。

 そうした既成の神話を超えて、ここに全く新たな創成神話が教祖のもとで、開示されました。神話学の松村一男教授(和光大学教授、元天理大学教授)やその恩師の吉田敦彦教授(故人)らが、天理市で「神話と元の理」についてご講演されたこともあるが、天理教の創成神話は一種独特な世界観を持っているのです。

 

 さて領土、領空、国民をめぐって、戦争を起こしてプーチン氏には届きませんが、世界も自然も宇宙も、人間もすべて神の体の一部であるという思想がここにはあります。

 

 人間は生きているのではない。 人間はすべて生かされている。人種も性別も外見の区別を超えて、人間は等しく神様の子供であという教えがあります。その人類がお互いに領土をめぐって殺し合いをしている。神様の目には耐えられないことです。   

 

人間には自由な心が許されていて、信じるも自由、神の存在を否定するのも自由です。それが真の意味での心の自由です。

 

 だが、無制限で人間勝手の自由がはびこれば、独裁者の自由に世界が難儀をするのです。

 

 とはいってプーチン氏が戦争を起こすのも、神様が許した「かしもの・かりものの」理の世界の中で起きているのです。

 

 そこで、天保9年(1838年)より、大和の一寒村で、神は孤高の声を上げ始めました。それが教祖お一人から始めた天啓の道であり、神直々の教えがはじまりました。

 

『おふできさ』は教祖が直筆の天啓録です。  1711首あります。 書かれたものであり、人類に普遍的に開示されています。  いつでもだれでも求めれば見れるものです。

 

 この世は神の肉体だという。世界は気候変動の危機にある。人類全体として地球の自然環境の行方が危惧されています、サステナビリティ経営の時代でもあります。

 

国連の一人も取り残さないという思想の奥には、親神様の一人ももれなく救いたいという親心があります。

 

 戦争を起こす一人の独裁者の心が変わりますよう。世界の人たちと共に祈念します。

 

天理教の二代目の啓示者である、本席様(飯降伊蔵)が出直す(亡くなる)直前の最後の啓示は「百日さしづ」と呼ばれており、教祖(おやさま)から始まった世界の救済の道の継承における根幹的なことが集中的に諭されている。

 

道の継承とは、教祖(おやさま)から始まった理の教えがいかに継続的に伝えられるかという問題である。

 

神が見定めた特定の人物が機械(啓示者)となるが、その際、月日の社(やしろ)である教祖の魂が、別の人間の肉体を借りて、その思惑を伝えるという意味である。

 

ただ、本当に教祖がその者を使っているか、外見的には別の人間であり、容易には信じられない。イタコやユタを通じて、亡くなった方の魂が語り、受け手はその人にしか分からないことがあって、間違いないにと信じることもある。

 

教祖から本席への理の継承も実際には容易ではなかった。 飯降伊蔵は教祖の高弟であり、「言上の伺い」という特殊な御用を果たしていたというキャリアがあった。その中で、教祖が亡くなった直前や直後において、人間側から伺いを受け、神意を下していたのである。そして、教祖が亡くなってから、間もなくして、本席定めという重大な局面を迎え、真柱が受諾することで、機械(啓示者)としての地位が確立した。その際、本席という神職の名称が付与されたのであった。

 

そして、中山家ではない、飯降伊蔵が啓示者として明治20年から40年にかけて神意を刻限刻限においてくだし、天理教の爆発的な信徒拡大のエネルギー源となった。

 

天理教の歴史は一宗教の歴史というよりも、神意としてのおさしづが筆記されて残されているので、啓示史の視点から神意の発動と、世界史の発展を相即的にとらえる視点で人類史が記述されねばならないだろう。 

 

さて、本題に戻り、理の継承について「おさしづ」にどのように書かれているのか、書かれていないのか、「百日さしづ」の中から、抜き出すと、上記になるだろう。

 

明治40年6月6日から、上田奈良糸様からの「おさづけ」が始まった。

奈良糸様は「おさしづ」役のような啓示者の仕事まではされなかったが、本席様から「おさづけ」を渡す仕事は継承された。

上田奈良糸様の理の継承問題について、以下の書籍が参考となる。

 

 

 

 

その前日の6月5日は午前1時半、午前8時半、午後2時、午後3時と刻限話が連続していた。「刻限」とは、神意の自発的な発動であり、夜昼関係なく、本席様の御用の兆候が出て、神意が下されるものである。 「伺い」は人間側からの問いかけ、質問に対する神意の応答を意味する。ただ伺いでも本部員の身上を契機とした伺いなどでは、刻限話となるものもある。

 

6月5日の午後3時の刻限話に、表題のお言葉があった。これを契機として、奈良糸様へのおさづけの後継が実行に移されたという史実である。  

 

「どんな鎖も付け/\。」

 

このように書き取られたが、書き取った際の聞き違いがあったようで、本当は、

 

「どんな鎖も繋げ/\。」

 

だったらしい。これは、茨木基敬さんの刻限話の中でおそらく大正期に下された「お詞」の中から分かったものである。

 

鎖(くさり)をつなげるという比喩から、本席様の神意発動の仕事である、神の詞を下す仕事とおさづけを渡すという2つの御用があったが、その継承について、「くさりをつなげ」ということが暗示されていた。

 

しかし、神の詞を渡す人は、この時点では明らかにされていなかった。特定の魂の人(茨木基敬さん)に目星がついていたが、まだ機械役として育っていなかったとされる。ただ、おさづけを渡す仕事については、「さづけ一点」ということで、上田奈良糸さんが引き寄せられていた。 

 

その上田奈良糸さんは、教祖の守り役として若い頃からお屋敷に引き寄せられていた。しかし、教祖亡きあとは、本人はお屋敷から出て行ったり、連れ戻されたりを繰り返していた。詳しくは『奈良糸様が頂かれたるおさしづ解釈』(昭和2年)にも大量にあるので、その研究が必要である。 

 

 

 

そして何でこんな女性に屋敷を作る費用を出す必要があるのかと会計係の本部筆頭の増野正兵衛からは不信に思われていた女性である。しかし、神様からは特定の魂の人間が見定めてられていて、外部の人間の想像を超えた厚遇があったのである。奈良糸さんは気丈な方で、初代真柱の真之亮に対しても、「お前も教祖からもらわれた養子ではないか」とはっきりとモノを申す方であり、霊感が強く、不思議な話が多く残されている。  

 

(つづく)

 

 

 

 

SNSで情報が飛び交い、何が真実で、何がフェイクなのかが日々問題となっている。

 

虐殺があったのか、なかったのか。

 

そこには言葉の信頼性に依存する我々は社会の在り方、秩序が関わっている。

 

教祖(おやさま)が始めたこの道は、一人の女性が発した神の言葉によって始まった。

 

そのお言葉を真実と受け入れるか、軽く扱うか、信じるか。逆に疑うか、反対するか、弾圧するかは人間次第であり、

人間の自由にゆだねられる。  今でも世界でも数%以下も信徒がいない。

 

この道はじまり、まだ184年目である。 

 

人の心から他人の心に神のお言葉はいかに伝播したのか、しなかったのか。

 

天理教という一つの公認の宗教団体の始まりは、たった一人の女性に宿った神の言葉からすべて始まり、

 

その天啓は文字となり、言語化され、万人に普遍的に公開されている。 

 

神秘もなく、世界共通に理解できる啓示録(みかぐら歌、おふでさき、おさしづ)がある。

 

一つの新しい理念が社会に広がるには、当該社会の既存の常識や秩序を超え、あるいは破壊しないといけない。

 

それゆえ、迫害も弾圧もある。あるいは、戦争まで起きる。

 

西洋の民主化という理念を求めるウラクイナ。

正教の霊性にもとづき、専制主義で国家を統合するロシア。

二つの理念のぶつかり合いが、戦争となった。

 

このような世の中、悪しき世の中の在り方を正すために、この道が天保9年(1838年)に創始された。

 

人が人を支配するのではなく、神の理に基づく社会に立て替えるために、

神は一人の女性、特定の地で、特定の時に見だめて、この道を始めた。

 

女性一人でできるものではない、まずは夫や子供たち、その孫に理解してもらう必要があった。

 

夫の中山善兵衛さん。 嘉永6年(1853年)に出直されたので、天保9年から15年間、人間側の代表として神意を受けられた。

世間体もあり、封建末期の男尊女卑の社会で、妻の神がかり現象、その妻からの神の命令に従えるだろうか。

貧乏神に夫は辟易しただろう。親族から見離され、母屋の売却もあった。  

ただ夫婦で寄付した歴史的な資料もどこかで発見されたらしい(熊田氏のネット資料、今はない)もあるが、全面的に妻を支えたとは到底思えない。むしろ刀を出して、キツネつきを退散させようとしたくらいである。教祖も身投げされたほど、精神的に追い詰められた史話が残る。 これだけは言える。善兵衛さんは100%信じたとはとても言えない。 

神の言葉が宝だとは思えなかっただろう。

 

 

  長男の秀司さん。文政4年(1821年)生まれ。天保9年(1838年)には、17才である。その時に、母親に神がかあり、豪農が転落する中山家の姿を最後は戸主として、懸命に支えた。老母が下す「おふでさき」を彼が全面的に受け入れた気配はない。 むしろ既存の寺社の伝統に中にいかにうまく整合させるかという対面に一筋になったことがわかる。 明治14年61才で出直された。教祖の迫害の中をもっとも辛苦の中で戸主として支えた人生であった。 彼も、神意を、そして神の言葉を宝だとは決して思わなかったと思われる。

 

 

そして初代真柱となる、中山新治郎。彼こそは、生まれた時から、その魂が予告され、外孫の梶本家から中山家に養子として入ってきた人である。明治13年に中山家にはいってきて、教祖と生活を共にする。明治15年に中山家の家督を継いだときは、16才であった。この時からから大正3年12月31日に出直すまで、天理教への弾圧、そして信徒の爆破的な勢力拡大の激動時代を見た人である。明治末から大正期には信徒が600万人とも言われた時代である。

 

人類の代表:眞柱

 

「おさしづ」は刻限話を中心に、その受けては、外ならなら、初代真柱であった。神の言葉を最初に受け取るのが、真柱の役割であった。

人類を代表して、神の言葉を受けるのである。  

 

何度も何度も、本席の啓示に接したのが、初代真柱であった。その本席が亡くなる直前の言葉が、

 

「言葉、これが第一道の寶やで。」(明治40年6月6日)

”Words, This is formost the Treasure of this Path. ” (June 6th, 1907)

 

であった。 彼がどれほど神の言葉を重く取ったのか、とらなかったのか。

本席様が残された『100日さしづ』の研究が待たれる。宝のもち腐れとなっている、

 

上記は以下のさしづの中からの抜粋である。

 

「明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)午後二時
 本席身上苦痛激しくに付、 教長初め本部員一同出席の上刻限の御諭

さあ/\/\/\、さあ/\又候々々、同じ事を/\今度という今度はもうなかなかの思わく。十分理纏まったるによって、もう話掛ける/\。前々同じ事返してある。これが第一。あちらでどうこちらでこう、言葉という理多かってはどうもならん。そこで言葉の理纏まる。先々の先の先まで定まったる。言葉、これが第一道の寶やで。寶まで諭したる處、これやり遂げにゃならん。所々は暫し一つの寶が分かったと、これだけくどう/\言うて置く。偉いものやと世界から一つ、これは諭し一つの理で、心から供えてくれる日があるによって、しっかりと聞き取ってくれ。
さあ/\日々もうこの苦しい中から、どうでもこうでも諭し掛けた道は諭さにゃならん。昨日より今日どうこう思う處、思うは理なれど、どうでもしん一つ心の事情から、皆々の心に一つ理映してくれにゃならん事である。これをよう取損いあってはならんから、これを取損い無いようにしてくれ。」

 

 

 

 

『おさしづ』の探究へ

 

 天理教の教祖である中山みき様の聖職者としての50年間の歩みはひな型と呼ばれ、それ自体が信仰のモデルとされる。

 前半生は、信仰の輪は外には広がらず、ひたすら中山家の中だけで掃除が進行する。その間、親族からは離縁される道中であった。

 後半生は、対社会的に広がり、迫害弾圧をあえて、引き受けて、世間に注目を集める激動の日々となる。

 いずれにしもその人生は平たんなものではない。

 後半生の中でも、節目となる出来事や事件が多発するのが、明治7年(1874年)であった。2022年の今年から148年前である。

 『おふでさき』第3号から第6号が明治7年に集中的に執筆された。

 啓示史的にも、神の啓示と歴史的史実との関係からも特異な年であったと言える。

 第3号42を引用しよう。

 

「ことしにハめつらし事をはじめかけ  いまゝでしらぬ事をするぞや」   (3-42)

 

「今年には 珍し事をはじめかけ 今まで知らぬ事をするぞや」 (口語訳)

 

”From this year, I shall begin marvelous works and shall perform things hitherto unknown.”  (3-42, Inoue Akiko & Matthe起こしてい居られる

 

 形の世界や時間を支配する神様は、ある時において、何ごとかを起こすのである。この年の出来事(陽暦)を並べてみよう。

 

6月18日 前川家にかぐら面を迎えに、教祖はお屋敷から三昧田へ行かれる。

      お守りの配布始まる。

      

 この頃 中南の門屋の建設が始まる。(明治8年9月に完成)

 

11月 大和神社へ、松尾市兵衛と仲田儀三郎を派遣。祭神を尋ねさせる。

    ➡翌日、管轄社で上位の石上神宮の神職5名が論難しに来る。

    ➡丹波市署がお屋敷に来て、 幣帛など祭具を没収する。  

 

12月23日 教祖は、山村御殿円照寺に召喚される。

  (伏見宮邦家(くにいえ)親王の第五女の文秀女王、明治天皇の伯母の娘が門跡をする寺院、奈良市山町)へ行く。

   25日 辻忠作、仲田、松尾が奈良中教院へ呼び出される。

詳しくは、以下を参照:

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/mikiryakuden/mikiryakuden_58yamamuragotenmondoco.htm

 

円照寺は、非公開の寺院としても今も現存します。

 

 

 

12月26日 教祖は赤衣を着始める。

 

 明治初期、国家神道のもと、従来の伝統を超える新しい神の出現により、社会的な広がりとなり、迫害弾圧が始まる。

教祖はそれを「節から芽が出る」として、お勇みになり、心配する信徒たちを治めていった。

 なお文秀女王は黒住教に熱心だと「レンダイコ」さんが語る。明治天皇と縁戚にある文秀女王も天理教の教えは反論ができなかったようだ。

 

 赤衣(あかぎ)を着始めるのも明治7年であり、教祖にこもる神は他の神とは異なる元の神・実の神たることを物理的に明示するようになった。当局へ教えを広めるということが本格化し、まさに「今まで知らないこと」が始まった年である。 

 

 2022年(令和4年)もロシアによる侵攻が起きた。今年はさらに思わぬことが起こるかもしれないという。

 世界があたらし時代への変わる転換点として記憶されるだろう。

 

「ことしにハめつらし事をはじめかけ  いまゝでしらぬ事をするぞや」   (3-42)

 

 

 

 

 

 

 

 

 前回の続きで、平成2年(1990年)12月20日の御用の後半部分も考察します。前回と同じ、10首のお歌を引用します。

 

平成二年十二月二十日午前一時三十分

 1.  物事が 成るか成らぬは 二の次で  理を立てるか 立てぬかが一
 2.  立てるとは 事の起こりを知ることや  因を知らねば どうにもでけまい
 3.  因を知る 知ったからには 安心や  後は時の来るを待つのみ
 4.  あせらずに 静かに心 落着かせ   日々通れ 時が来るまで
 5.  時が来て 急に心が 乱れぬよう   今のうちから 準備するのや

 6.  準備もな 神がさせるで 案じるな   ただひたすらに 陽気づとめを
 7.  つとめとは 神と人との 橋渡し    神は受け取り 守護するのや
 8.  さあつとめ 神に心を 示すのや   示す心に 神が働く
 9.  物事は 神が心を 見定めて   時も見定め 成り立たせるのや
 10.  わかったら 心治めて つとめして   はやく見たいが 親の心や

                                ●● 拝す合掌

【理の思案】 

信仰者として、また神様が求める喜べる人間となるために、1から5は、心の在り方の初歩を神様から教えて頂いたものでした。現象が勝手に起きるのではなく、その裏に、人間の心の蓄積が結果として現れているのであることを教えています。思わぬこと、不都合のことが起きて来た時には、特にこのような心の準備をしておくことが大切です。

 今起きているウクラナイ侵攻、核の利用をちらつかせるロシアの行方に、抑止力として核の維持がむしろ重要だという方向で、世の中が後退しているように見えます。神様がロシアの侵攻、戦争の拡大を望むことは無いはずですが、神様が人類にこうした惨事を許している背後の親心とは何かを考えないといけません。そこには人間に心の自由を許したことからくる、大きな矛盾があるのです。陽気暮らしと逆行する自由も内蔵していることの意味です。

 

そして、6から8は、「おつとめ」の意義が説かれています。これは信仰者に求めるものであり、信仰者ではない方々には直ちにわからない言明かもしれません。神様とは何かを求める心があっても、神様が望まれる「つとめ」を率先してするには、相当のお仕込みがないとわかりません。

 結論を先取りすると、真の自由はおつめからくるという意味が、つとめには隠されています。 ここに信仰の逆説があるのです。心の自由と信仰という抑圧的な間の矛盾が真に解消されないといけないのです。  

 

 ただ形だけのおつとめでも意味がありません。そこに心からの信心があり、深い喜びと感謝の心を捧げる方法が、おつとめであるということに本当の意味があるのです。形としての「お勤め」の時だけ、神様の方向を向いて、その他の時間は人間思案ばかりで、不足不満であっては、信仰していてる甲斐がないでしょう。  

 

 つとめは「陽気づとめ」であり、人間が生かされている喜びを捧げる場であると定義されています。今だけでなく、永遠につとめはされるものであり、10億年前から決められた、神を礼拝する方法が、おつめなのです。

 

 神と人をつなげること(橋渡し)がつとめであるとも定義されています。人間が主体的に神様に向き合い、神様はいつも人間の心を受けて、守護されている。心通りに24時間休むことなく、神様は人間の心を受けて、守護されている。その守護を自覚し、真に目覚め、感謝報恩の行為が日々のつとめであるという意味です。神様が受け取り、ある特定の時刻に、その守護を与える。試験受けて、合格通知が出るように、時々刻々と神が守護がされているのです。

 

 前回の19日午後9時の「理と時とが二つ一つ」という意味がここで明らかにされているようにも思われます。

 

 ウクライナの侵攻が鎮まるよう、3月26日の地場や各教会のおつめにおいて、誠のこもったおつとめが必要です。

 

 天理教の教祖は、「おつとめ」を人間にすることを勧められて、それが最後の遺言となりました。そのために寿命を25年も縮められたのでした。 

 

 「わかったら 心治めて つとめして   はやく見たいが 親の心や」

 

 合掌