前回の続きで、平成2年(1990年)12月20日の御用の後半部分も考察します。前回と同じ、10首のお歌を引用します。
平成二年十二月二十日午前一時三十分
1. 物事が 成るか成らぬは 二の次で 理を立てるか 立てぬかが一
2. 立てるとは 事の起こりを知ることや 因を知らねば どうにもでけまい
3. 因を知る 知ったからには 安心や 後は時の来るを待つのみ
4. あせらずに 静かに心 落着かせ 日々通れ 時が来るまで
5. 時が来て 急に心が 乱れぬよう 今のうちから 準備するのや
6. 準備もな 神がさせるで 案じるな ただひたすらに 陽気づとめを
7. つとめとは 神と人との 橋渡し 神は受け取り 守護するのや
8. さあつとめ 神に心を 示すのや 示す心に 神が働く
9. 物事は 神が心を 見定めて 時も見定め 成り立たせるのや
10. わかったら 心治めて つとめして はやく見たいが 親の心や
●● 拝す合掌
【理の思案】
信仰者として、また神様が求める喜べる人間となるために、1から5は、心の在り方の初歩を神様から教えて頂いたものでした。現象が勝手に起きるのではなく、その裏に、人間の心の蓄積が結果として現れているのであることを教えています。思わぬこと、不都合のことが起きて来た時には、特にこのような心の準備をしておくことが大切です。
今起きているウクラナイ侵攻、核の利用をちらつかせるロシアの行方に、抑止力として核の維持がむしろ重要だという方向で、世の中が後退しているように見えます。神様がロシアの侵攻、戦争の拡大を望むことは無いはずですが、神様が人類にこうした惨事を許している背後の親心とは何かを考えないといけません。そこには人間に心の自由を許したことからくる、大きな矛盾があるのです。陽気暮らしと逆行する自由も内蔵していることの意味です。
そして、6から8は、「おつとめ」の意義が説かれています。これは信仰者に求めるものであり、信仰者ではない方々には直ちにわからない言明かもしれません。神様とは何かを求める心があっても、神様が望まれる「つとめ」を率先してするには、相当のお仕込みがないとわかりません。
結論を先取りすると、真の自由はおつめからくるという意味が、つとめには隠されています。 ここに信仰の逆説があるのです。心の自由と信仰という抑圧的な間の矛盾が真に解消されないといけないのです。
ただ形だけのおつとめでも意味がありません。そこに心からの信心があり、深い喜びと感謝の心を捧げる方法が、おつとめであるということに本当の意味があるのです。形としての「お勤め」の時だけ、神様の方向を向いて、その他の時間は人間思案ばかりで、不足不満であっては、信仰していてる甲斐がないでしょう。
つとめは「陽気づとめ」であり、人間が生かされている喜びを捧げる場であると定義されています。今だけでなく、永遠につとめはされるものであり、10億年前から決められた、神を礼拝する方法が、おつめなのです。
神と人をつなげること(橋渡し)がつとめであるとも定義されています。人間が主体的に神様に向き合い、神様はいつも人間の心を受けて、守護されている。心通りに24時間休むことなく、神様は人間の心を受けて、守護されている。その守護を自覚し、真に目覚め、感謝報恩の行為が日々のつとめであるという意味です。神様が受け取り、ある特定の時刻に、その守護を与える。試験受けて、合格通知が出るように、時々刻々と神が守護がされているのです。
前回の19日午後9時の「理と時とが二つ一つ」という意味がここで明らかにされているようにも思われます。
ウクライナの侵攻が鎮まるよう、3月26日の地場や各教会のおつめにおいて、誠のこもったおつとめが必要です。
「わかったら 心治めて つとめして はやく見たいが 親の心や」
合掌






