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「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

教祖(おやさま)が書き残された『おふでさき』の第3号(明治7年)には同じお歌が、2首あり、それがこれです。

 

「 たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ 」(第3号40、135)

 “段々と何ごとにても この世は神の体や 思案してみよ”

 

 Step by step, reflect deeply upon all things:

 the universe is truly the body of God  (tr by Inoue & Eynon[1987])

 

 【理の思案】

 天地創造、創成神話は世界中の神話や大宗教の中にもあり、日本の古事記、日本書記にも国生みの創成神話があります。

 そうした既成の神話を超えて、ここに全く新たな創成神話が教祖のもとで、開示されました。神話学の松村一男教授(和光大学教授、元天理大学教授)やその恩師の吉田敦彦教授(故人)らが、天理市で「神話と元の理」についてご講演されたこともあるが、天理教の創成神話は一種独特な世界観を持っているのです。

 

 さて領土、領空、国民をめぐって、戦争を起こしてプーチン氏には届きませんが、世界も自然も宇宙も、人間もすべて神の体の一部であるという思想がここにはあります。

 

 人間は生きているのではない。 人間はすべて生かされている。人種も性別も外見の区別を超えて、人間は等しく神様の子供であという教えがあります。その人類がお互いに領土をめぐって殺し合いをしている。神様の目には耐えられないことです。   

 

人間には自由な心が許されていて、信じるも自由、神の存在を否定するのも自由です。それが真の意味での心の自由です。

 

 だが、無制限で人間勝手の自由がはびこれば、独裁者の自由に世界が難儀をするのです。

 

 とはいってプーチン氏が戦争を起こすのも、神様が許した「かしもの・かりものの」理の世界の中で起きているのです。

 

 そこで、天保9年(1838年)より、大和の一寒村で、神は孤高の声を上げ始めました。それが教祖お一人から始めた天啓の道であり、神直々の教えがはじまりました。

 

『おふできさ』は教祖が直筆の天啓録です。  1711首あります。 書かれたものであり、人類に普遍的に開示されています。  いつでもだれでも求めれば見れるものです。

 

 この世は神の肉体だという。世界は気候変動の危機にある。人類全体として地球の自然環境の行方が危惧されています、サステナビリティ経営の時代でもあります。

 

国連の一人も取り残さないという思想の奥には、親神様の一人ももれなく救いたいという親心があります。

 

 戦争を起こす一人の独裁者の心が変わりますよう。世界の人たちと共に祈念します。

 

天理教の二代目の啓示者である、本席様(飯降伊蔵)が出直す(亡くなる)直前の最後の啓示は「百日さしづ」と呼ばれており、教祖(おやさま)から始まった世界の救済の道の継承における根幹的なことが集中的に諭されている。

 

道の継承とは、教祖(おやさま)から始まった理の教えがいかに継続的に伝えられるかという問題である。

 

神が見定めた特定の人物が機械(啓示者)となるが、その際、月日の社(やしろ)である教祖の魂が、別の人間の肉体を借りて、その思惑を伝えるという意味である。

 

ただ、本当に教祖がその者を使っているか、外見的には別の人間であり、容易には信じられない。イタコやユタを通じて、亡くなった方の魂が語り、受け手はその人にしか分からないことがあって、間違いないにと信じることもある。

 

教祖から本席への理の継承も実際には容易ではなかった。 飯降伊蔵は教祖の高弟であり、「言上の伺い」という特殊な御用を果たしていたというキャリアがあった。その中で、教祖が亡くなった直前や直後において、人間側から伺いを受け、神意を下していたのである。そして、教祖が亡くなってから、間もなくして、本席定めという重大な局面を迎え、真柱が受諾することで、機械(啓示者)としての地位が確立した。その際、本席という神職の名称が付与されたのであった。

 

そして、中山家ではない、飯降伊蔵が啓示者として明治20年から40年にかけて神意を刻限刻限においてくだし、天理教の爆発的な信徒拡大のエネルギー源となった。

 

天理教の歴史は一宗教の歴史というよりも、神意としてのおさしづが筆記されて残されているので、啓示史の視点から神意の発動と、世界史の発展を相即的にとらえる視点で人類史が記述されねばならないだろう。 

 

さて、本題に戻り、理の継承について「おさしづ」にどのように書かれているのか、書かれていないのか、「百日さしづ」の中から、抜き出すと、上記になるだろう。

 

明治40年6月6日から、上田奈良糸様からの「おさづけ」が始まった。

奈良糸様は「おさしづ」役のような啓示者の仕事まではされなかったが、本席様から「おさづけ」を渡す仕事は継承された。

上田奈良糸様の理の継承問題について、以下の書籍が参考となる。

 

 

 

 

その前日の6月5日は午前1時半、午前8時半、午後2時、午後3時と刻限話が連続していた。「刻限」とは、神意の自発的な発動であり、夜昼関係なく、本席様の御用の兆候が出て、神意が下されるものである。 「伺い」は人間側からの問いかけ、質問に対する神意の応答を意味する。ただ伺いでも本部員の身上を契機とした伺いなどでは、刻限話となるものもある。

 

6月5日の午後3時の刻限話に、表題のお言葉があった。これを契機として、奈良糸様へのおさづけの後継が実行に移されたという史実である。  

 

「どんな鎖も付け/\。」

 

このように書き取られたが、書き取った際の聞き違いがあったようで、本当は、

 

「どんな鎖も繋げ/\。」

 

だったらしい。これは、茨木基敬さんの刻限話の中でおそらく大正期に下された「お詞」の中から分かったものである。

 

鎖(くさり)をつなげるという比喩から、本席様の神意発動の仕事である、神の詞を下す仕事とおさづけを渡すという2つの御用があったが、その継承について、「くさりをつなげ」ということが暗示されていた。

 

しかし、神の詞を渡す人は、この時点では明らかにされていなかった。特定の魂の人(茨木基敬さん)に目星がついていたが、まだ機械役として育っていなかったとされる。ただ、おさづけを渡す仕事については、「さづけ一点」ということで、上田奈良糸さんが引き寄せられていた。 

 

その上田奈良糸さんは、教祖の守り役として若い頃からお屋敷に引き寄せられていた。しかし、教祖亡きあとは、本人はお屋敷から出て行ったり、連れ戻されたりを繰り返していた。詳しくは『奈良糸様が頂かれたるおさしづ解釈』(昭和2年)にも大量にあるので、その研究が必要である。 

 

 

 

そして何でこんな女性に屋敷を作る費用を出す必要があるのかと会計係の本部筆頭の増野正兵衛からは不信に思われていた女性である。しかし、神様からは特定の魂の人間が見定めてられていて、外部の人間の想像を超えた厚遇があったのである。奈良糸さんは気丈な方で、初代真柱の真之亮に対しても、「お前も教祖からもらわれた養子ではないか」とはっきりとモノを申す方であり、霊感が強く、不思議な話が多く残されている。  

 

(つづく)

 

 

 

 

SNSで情報が飛び交い、何が真実で、何がフェイクなのかが日々問題となっている。

 

虐殺があったのか、なかったのか。

 

そこには言葉の信頼性に依存する我々は社会の在り方、秩序が関わっている。

 

教祖(おやさま)が始めたこの道は、一人の女性が発した神の言葉によって始まった。

 

そのお言葉を真実と受け入れるか、軽く扱うか、信じるか。逆に疑うか、反対するか、弾圧するかは人間次第であり、

人間の自由にゆだねられる。  今でも世界でも数%以下も信徒がいない。

 

この道はじまり、まだ184年目である。 

 

人の心から他人の心に神のお言葉はいかに伝播したのか、しなかったのか。

 

天理教という一つの公認の宗教団体の始まりは、たった一人の女性に宿った神の言葉からすべて始まり、

 

その天啓は文字となり、言語化され、万人に普遍的に公開されている。 

 

神秘もなく、世界共通に理解できる啓示録(みかぐら歌、おふでさき、おさしづ)がある。

 

一つの新しい理念が社会に広がるには、当該社会の既存の常識や秩序を超え、あるいは破壊しないといけない。

 

それゆえ、迫害も弾圧もある。あるいは、戦争まで起きる。

 

西洋の民主化という理念を求めるウラクイナ。

正教の霊性にもとづき、専制主義で国家を統合するロシア。

二つの理念のぶつかり合いが、戦争となった。

 

このような世の中、悪しき世の中の在り方を正すために、この道が天保9年(1838年)に創始された。

 

人が人を支配するのではなく、神の理に基づく社会に立て替えるために、

神は一人の女性、特定の地で、特定の時に見だめて、この道を始めた。

 

女性一人でできるものではない、まずは夫や子供たち、その孫に理解してもらう必要があった。

 

夫の中山善兵衛さん。 嘉永6年(1853年)に出直されたので、天保9年から15年間、人間側の代表として神意を受けられた。

世間体もあり、封建末期の男尊女卑の社会で、妻の神がかり現象、その妻からの神の命令に従えるだろうか。

貧乏神に夫は辟易しただろう。親族から見離され、母屋の売却もあった。  

ただ夫婦で寄付した歴史的な資料もどこかで発見されたらしい(熊田氏のネット資料、今はない)もあるが、全面的に妻を支えたとは到底思えない。むしろ刀を出して、キツネつきを退散させようとしたくらいである。教祖も身投げされたほど、精神的に追い詰められた史話が残る。 これだけは言える。善兵衛さんは100%信じたとはとても言えない。 

神の言葉が宝だとは思えなかっただろう。

 

 

  長男の秀司さん。文政4年(1821年)生まれ。天保9年(1838年)には、17才である。その時に、母親に神がかあり、豪農が転落する中山家の姿を最後は戸主として、懸命に支えた。老母が下す「おふでさき」を彼が全面的に受け入れた気配はない。 むしろ既存の寺社の伝統に中にいかにうまく整合させるかという対面に一筋になったことがわかる。 明治14年61才で出直された。教祖の迫害の中をもっとも辛苦の中で戸主として支えた人生であった。 彼も、神意を、そして神の言葉を宝だとは決して思わなかったと思われる。

 

 

そして初代真柱となる、中山新治郎。彼こそは、生まれた時から、その魂が予告され、外孫の梶本家から中山家に養子として入ってきた人である。明治13年に中山家にはいってきて、教祖と生活を共にする。明治15年に中山家の家督を継いだときは、16才であった。この時からから大正3年12月31日に出直すまで、天理教への弾圧、そして信徒の爆破的な勢力拡大の激動時代を見た人である。明治末から大正期には信徒が600万人とも言われた時代である。

 

人類の代表:眞柱

 

「おさしづ」は刻限話を中心に、その受けては、外ならなら、初代真柱であった。神の言葉を最初に受け取るのが、真柱の役割であった。

人類を代表して、神の言葉を受けるのである。  

 

何度も何度も、本席の啓示に接したのが、初代真柱であった。その本席が亡くなる直前の言葉が、

 

「言葉、これが第一道の寶やで。」(明治40年6月6日)

”Words, This is formost the Treasure of this Path. ” (June 6th, 1907)

 

であった。 彼がどれほど神の言葉を重く取ったのか、とらなかったのか。

本席様が残された『100日さしづ』の研究が待たれる。宝のもち腐れとなっている、

 

上記は以下のさしづの中からの抜粋である。

 

「明治四十年六月五日(陰暦四月二十五日)午後二時
 本席身上苦痛激しくに付、 教長初め本部員一同出席の上刻限の御諭

さあ/\/\/\、さあ/\又候々々、同じ事を/\今度という今度はもうなかなかの思わく。十分理纏まったるによって、もう話掛ける/\。前々同じ事返してある。これが第一。あちらでどうこちらでこう、言葉という理多かってはどうもならん。そこで言葉の理纏まる。先々の先の先まで定まったる。言葉、これが第一道の寶やで。寶まで諭したる處、これやり遂げにゃならん。所々は暫し一つの寶が分かったと、これだけくどう/\言うて置く。偉いものやと世界から一つ、これは諭し一つの理で、心から供えてくれる日があるによって、しっかりと聞き取ってくれ。
さあ/\日々もうこの苦しい中から、どうでもこうでも諭し掛けた道は諭さにゃならん。昨日より今日どうこう思う處、思うは理なれど、どうでもしん一つ心の事情から、皆々の心に一つ理映してくれにゃならん事である。これをよう取損いあってはならんから、これを取損い無いようにしてくれ。」

 

 

 

 

『おさしづ』の探究へ

 

 天理教の教祖である中山みき様の聖職者としての50年間の歩みはひな型と呼ばれ、それ自体が信仰のモデルとされる。

 前半生は、信仰の輪は外には広がらず、ひたすら中山家の中だけで掃除が進行する。その間、親族からは離縁される道中であった。

 後半生は、対社会的に広がり、迫害弾圧をあえて、引き受けて、世間に注目を集める激動の日々となる。

 いずれにしもその人生は平たんなものではない。

 後半生の中でも、節目となる出来事や事件が多発するのが、明治7年(1874年)であった。2022年の今年から148年前である。

 『おふでさき』第3号から第6号が明治7年に集中的に執筆された。

 啓示史的にも、神の啓示と歴史的史実との関係からも特異な年であったと言える。

 第3号42を引用しよう。

 

「ことしにハめつらし事をはじめかけ  いまゝでしらぬ事をするぞや」   (3-42)

 

「今年には 珍し事をはじめかけ 今まで知らぬ事をするぞや」 (口語訳)

 

”From this year, I shall begin marvelous works and shall perform things hitherto unknown.”  (3-42, Inoue Akiko & Matthe起こしてい居られる

 

 形の世界や時間を支配する神様は、ある時において、何ごとかを起こすのである。この年の出来事(陽暦)を並べてみよう。

 

6月18日 前川家にかぐら面を迎えに、教祖はお屋敷から三昧田へ行かれる。

      お守りの配布始まる。

      

 この頃 中南の門屋の建設が始まる。(明治8年9月に完成)

 

11月 大和神社へ、松尾市兵衛と仲田儀三郎を派遣。祭神を尋ねさせる。

    ➡翌日、管轄社で上位の石上神宮の神職5名が論難しに来る。

    ➡丹波市署がお屋敷に来て、 幣帛など祭具を没収する。  

 

12月23日 教祖は、山村御殿円照寺に召喚される。

  (伏見宮邦家(くにいえ)親王の第五女の文秀女王、明治天皇の伯母の娘が門跡をする寺院、奈良市山町)へ行く。

   25日 辻忠作、仲田、松尾が奈良中教院へ呼び出される。

詳しくは、以下を参照:

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/mikiryakuden/mikiryakuden_58yamamuragotenmondoco.htm

 

円照寺は、非公開の寺院としても今も現存します。

 

 

 

12月26日 教祖は赤衣を着始める。

 

 明治初期、国家神道のもと、従来の伝統を超える新しい神の出現により、社会的な広がりとなり、迫害弾圧が始まる。

教祖はそれを「節から芽が出る」として、お勇みになり、心配する信徒たちを治めていった。

 なお文秀女王は黒住教に熱心だと「レンダイコ」さんが語る。明治天皇と縁戚にある文秀女王も天理教の教えは反論ができなかったようだ。

 

 赤衣(あかぎ)を着始めるのも明治7年であり、教祖にこもる神は他の神とは異なる元の神・実の神たることを物理的に明示するようになった。当局へ教えを広めるということが本格化し、まさに「今まで知らないこと」が始まった年である。 

 

 2022年(令和4年)もロシアによる侵攻が起きた。今年はさらに思わぬことが起こるかもしれないという。

 世界があたらし時代への変わる転換点として記憶されるだろう。

 

「ことしにハめつらし事をはじめかけ  いまゝでしらぬ事をするぞや」   (3-42)

 

 

 

 

 

 

 

 

 前回の続きで、平成2年(1990年)12月20日の御用の後半部分も考察します。前回と同じ、10首のお歌を引用します。

 

平成二年十二月二十日午前一時三十分

 1.  物事が 成るか成らぬは 二の次で  理を立てるか 立てぬかが一
 2.  立てるとは 事の起こりを知ることや  因を知らねば どうにもでけまい
 3.  因を知る 知ったからには 安心や  後は時の来るを待つのみ
 4.  あせらずに 静かに心 落着かせ   日々通れ 時が来るまで
 5.  時が来て 急に心が 乱れぬよう   今のうちから 準備するのや

 6.  準備もな 神がさせるで 案じるな   ただひたすらに 陽気づとめを
 7.  つとめとは 神と人との 橋渡し    神は受け取り 守護するのや
 8.  さあつとめ 神に心を 示すのや   示す心に 神が働く
 9.  物事は 神が心を 見定めて   時も見定め 成り立たせるのや
 10.  わかったら 心治めて つとめして   はやく見たいが 親の心や

                                ●● 拝す合掌

【理の思案】 

信仰者として、また神様が求める喜べる人間となるために、1から5は、心の在り方の初歩を神様から教えて頂いたものでした。現象が勝手に起きるのではなく、その裏に、人間の心の蓄積が結果として現れているのであることを教えています。思わぬこと、不都合のことが起きて来た時には、特にこのような心の準備をしておくことが大切です。

 今起きているウクラナイ侵攻、核の利用をちらつかせるロシアの行方に、抑止力として核の維持がむしろ重要だという方向で、世の中が後退しているように見えます。神様がロシアの侵攻、戦争の拡大を望むことは無いはずですが、神様が人類にこうした惨事を許している背後の親心とは何かを考えないといけません。そこには人間に心の自由を許したことからくる、大きな矛盾があるのです。陽気暮らしと逆行する自由も内蔵していることの意味です。

 

そして、6から8は、「おつとめ」の意義が説かれています。これは信仰者に求めるものであり、信仰者ではない方々には直ちにわからない言明かもしれません。神様とは何かを求める心があっても、神様が望まれる「つとめ」を率先してするには、相当のお仕込みがないとわかりません。

 結論を先取りすると、真の自由はおつめからくるという意味が、つとめには隠されています。 ここに信仰の逆説があるのです。心の自由と信仰という抑圧的な間の矛盾が真に解消されないといけないのです。  

 

 ただ形だけのおつとめでも意味がありません。そこに心からの信心があり、深い喜びと感謝の心を捧げる方法が、おつとめであるということに本当の意味があるのです。形としての「お勤め」の時だけ、神様の方向を向いて、その他の時間は人間思案ばかりで、不足不満であっては、信仰していてる甲斐がないでしょう。  

 

 つとめは「陽気づとめ」であり、人間が生かされている喜びを捧げる場であると定義されています。今だけでなく、永遠につとめはされるものであり、10億年前から決められた、神を礼拝する方法が、おつめなのです。

 

 神と人をつなげること(橋渡し)がつとめであるとも定義されています。人間が主体的に神様に向き合い、神様はいつも人間の心を受けて、守護されている。心通りに24時間休むことなく、神様は人間の心を受けて、守護されている。その守護を自覚し、真に目覚め、感謝報恩の行為が日々のつとめであるという意味です。神様が受け取り、ある特定の時刻に、その守護を与える。試験受けて、合格通知が出るように、時々刻々と神が守護がされているのです。

 

 前回の19日午後9時の「理と時とが二つ一つ」という意味がここで明らかにされているようにも思われます。

 

 ウクライナの侵攻が鎮まるよう、3月26日の地場や各教会のおつめにおいて、誠のこもったおつとめが必要です。

 

 「わかったら 心治めて つとめして   はやく見たいが 親の心や」

 

 合掌

 

 

 

 

 

教祖(おやさま)が中山家に嫁に来たのは、文化7年9月15日、13才であった。天啓者となる教祖の御年は40才であるが、その前に育児をしながら、隣の家の子供の救済があった。これが天保9年の神がかりに至る、精神的土壌、宗教的精神の土台作りだとされている。  

 

最初の子供は、男子で善右衛門で、後の秀司と改名した。 以下の生まれた子供たちの誕生日などを、書いておきたい。

 

文政4年(1821年)7月24日 長男、善右衛門 誕生。 教祖24才。

 

文政8年(1825年)4月8日 長女、おまさ 誕生。 教祖28才。

 

文政10年(1827年)9月9日 次女、おやす 誕生。 教祖30才。

文政11年(1828年) 姑、おきぬ、出直し。 隣家の安達照之丞2歳に乳を与える。黒疱瘡となり、諸神社に祈祷する。

  自分の子供2人の命と自身の命を天の捧げて、お助けを祈念する。  

 

天保1年(1830年) 次女、おやす、3歳で出直し。 教祖33才。

天保2年(1831年)9月21日 三女、おはる 誕生。 教祖34才。

 

天保4年(1833年)11月7日 四女、おつね、 誕生。 教祖36才。

 

天保6年(1835年) 四女、おつね、2歳で出直し。 教祖38才。

 

天保8年(1837年) 12月15日、五女、こかん 誕生。 教祖39才。   

天保9年(1838年) 10月26日 教祖40才、月日の社として定まる。  

 

 

 

 

天理教の歴史で、茨木基敬さんに対する評価は、異端者というのが公式見解で、天理教事典にもそのように記載されている。では、何をもって異端者なのか。啓示現象があること自体が異端とされていて、その説いた膨大な天啓録に関する調査も研究も、されたことはない。本ブログでは、ここに理の探究における一大陥没があり、その大きな鉱脈を掘り出すことを一つのパーパスとして掲げる。   

 

 茨木さんの入信は明治15年であり、子供の「おらく」さんを天理教の信徒から助けて頂いた感激から始まる。その三日後には不思議なお助けをして、教祖に会う前から信仰一筋の純粋な求道者タイプの人であった。

 

 入信して、布教に奔走しながら、4か月後には、初めてお屋敷で御教祖との対面が許された。その時、教祖はたいそう喜んで、『よう帰って来た/\  よう帰って来たなァ』の、お慈悲溢るゝ言葉を以て迎へられ、御自ら「月日の模様入りの瀬戸盃」をお出しになって、お酒を注ぎ、お口づけられて『これは茨木様へ』と渡された。

  基敬さんは、初対面に斯くもの御心添へに感泣し、有難く押し戴き口つけんとせられたのを、取次の先生から  『それは頂くのやない、持ち帰って家族一般の者へ分け與へるのや』と御注意せられたので、恐縮してお酒を白紙に濕らして、お盃と共に頂戴せられた。そこへ又、御教祖は、  『一寸お待ち』と仰せ有って「無地の襦袢の赤衣」(注1)を一枚お下げ下された。   (『伝記』より)

 

注一:なおこの赤衣と講社に頂いた赤衣を、二つ一つに御祀りする伺いが明治26年1月20日にお伺いとしてだされ、神様から速やかに許されている。これは公刊本にもある。 教祖から赤衣を頂いた高弟は誰なのか、研究の余地があるだろう。   

 

 既成仏教や官憲からの信仰攻撃、差し止めなどが多発する中でも、茨木氏は信仰の炎をより燃やす人であり、話一条を練習して、巡教も盛んに行った。泉田藤吉の弟子筋として、泉田を立てたかったが、お許しがあり、独立して天地組総長となった。 

 

・・・・・・・  

以下は反対攻撃がある中で、いかに治めてるべきかの伺った際の「伺いさしづ」である。これは公刊本には未掲載のものである。

 

 明治二十年六月二十八日

  天地組三番講長・加藤儀右衛門  警察署より彼是言われるに付き、茨木基敬心得方お伺い

 

『さあ/\一寸出ていかんなれども思案せよ  何程の事を思ふてもいかん  さあ/\/\  不自由案じて見れば案じるで  考へて見よ  お口水の濁り濁りの中へどんなよいもの入りても一寸に知れんで  さあさあ/\心静めて思案せよ  今より今の道を通らうとするが ふかくやで  充分種を蒔き種を蒔かずにいかんで  此處の處をじっとして思案して見よ  風の吹く日風次第心を定め  風吹くをこわい恐ろしい言わず治めねばならん   さあ/\この地場の事で考へて見よ  此處へは一人も入れる事はならん  すうきり取り払ひ 幾度の事やら知れん 考へて見よ  さあ/\/\今から今の道通るがふかくやで』

 

 これは地場屋敷も官憲の迫害を受けて、信徒の出入りが禁じられたたとえをもって、強風の中も心治めていきなさいと激励を受けている。
 

 既存の公刊『おさしづ』には実は、多くの茨木基敬さんに関する「おさしづ」が残されている。その冒頭の一部をここで、紹介する。

 

明治二十一年七月十三日(陰暦六月五日)
 大阪天地組総長茨木基敬、三島中山重吉宅にて腰の周り両手にて抱えられるようになりしに付伺
さあ/\/\尋ねる事情/\、花が咲けば同じ花が咲く/\。内々心を治め。心の勇んだ今日という日に、又々尋ね出るがよい。

 

【解説】 この前書きの意味は『伝記』(非公開文書で、どこの図書館にもネットにもない情報、借りのタイトル名とした)によれば以下の通りである。平野楢蔵に頼まれて、天龍講部内巡教して、その帰路、お地場に戻っていた時のことである。中山重吉(教祖の長女のまさの子息)宅に泊まっていたが、何か身体的異変を感じて、これを泉田氏に話すと、これは神様の御用だということで、取次3名の先生(山本利三郎・桝井伊三郎・泉田藤吉)を通じて、ご本席様に伺ったのであった。

  この「花が咲く」が大変意味深であり、教祖と同じように、天啓が開かれることが含意されていたらしいのである。「花が咲く」という表現自体は、おさしづでも何度かあり、管見では、天啓の実現の暗号とは特別には言えない模様である。暗に仄めかしただけであり、直接語ることは神様としてもできなかったが、大切な魂として目星がつけられていることは、赤衣やこうしたおさしづから分かる。また茨木さんは、まさに確固とした布教精神をもち、その人格が教祖並みだということの証かもしれない。  

  ここでは詳しく説明できないが、当時の迫害弾圧が厳しい中での勇猛果敢な布教活動で茨木氏の右に出る人はいなかったと思われる。話一条の実践者として、すでに同僚の高弟たちからも高く評価されていたのであった。

 本ブログでも以下のように、以前ご紹介した。

 

 

  天理教批判文献でも、外部の方が地場に訪問してインタビューした際、その対応に出られたのが茨木基敬さんであった。以下の文献に明治23年4月に外部の方が書いている。

 

 

 またこの明治21年のエピソードで、お屋敷において、何か身体的異変があれば、すぐに神様に伺うという思考回路が当時の高弟たちの間に認識されいた。これこそが神屋敷の面目がたっていることが感じ取れた。「貸しもの借りもの理」を身体的に深く悟っている高弟たちにとって、ちょっとした肉体の異変から、何か神様からのお知らせだということを感じ取っている。今の天理教のどこかの教会にもこのような神霊的な思考回路が回っているところは、救済や霊救が真にあがっているだろう。  

 

「又々尋ね出るがよい。」とのことで、以下のように改めてお伺いすることになった。その際、なんと「おさづけの理」を拝戴することになったのである。この当時、おさづけの理をもらうには、多くの願人があり、別席の制度化される前夜の中であった。茨木さんは個人的に呼び出されて、個人的に頂いた。『おさしづ』第七巻にもこのタイプの個人的に渡す「おさづけおさしづ」が明治20,21,23年頃には多い。 

 

明治二十一年七月二十五日(陰暦六月十七日)午後五時十分
 大阪天地組総長茨木基敬同年陰暦六月五日中山重吉宅にて、お手入れを頂きし事 申述べし時のおさしづ


さあ/\/\尋ねる事情、さあ/\これまで長らくの道の処、幾重の道も通り、又一つ十分身上自由自在、生涯一つの何分理ある理を運ぶ。運べどもたゞ一つの理により、自由自在の理、自由自在、一日生涯しっかり一つの心治め。一日の日をたすけ一条のため、自由自在。一日たすけ一条一つこうのう理渡そう、さづけ。あしきはらひたすけたまへ天理王命、三遍づつ三遍三三三九度。

 

【釈義】

『伝記』によれば、割書きや「おさしづ」は以下のように、住所や生年月日も書かれていた。参考までに付記する。安政2年とは1855年である。教祖時代に、講や組がいかに設立許可され、広がったのか、布教伝道史の事例としても、『伝記』を詳細に研究すべきである。  

  存命の教祖である本席からいただいた「おさづけ」の効能の理は確かにあり、道の路銀とも呼ばれた。救済者として神様から直々に許されたさづけである。今の別席制度では、形式的に9度話を聞いて、誰でももらえる「おさづけの理」と何かが違うことは霊性ある人なら分かるだろう。  

 本人の布教道中の苦労を神様はしっかり見ていて、そこのことが神様の「これ迄長らくの道の處  幾重の道も通り」に表現されている。人は見ていなくても、神様はすべて見ている。 

 

大阪市北区若松町百二十番屋敷天地組總長茨木基敬三十四歳安政二年十月三日生

『さあ/\/\尋ねる事情  さあ/\/\これ迄長らくの道の處  幾重の道も通り又一ツ  充分身上自由用自由在  生涯一ツノ何分理ある理を運ぶ  運べども只一ツの理により 自由用自由在の理  自由用自由在  一日生涯しっかり一ツの心治め  一日の日を助け一條の為 自由用自在一日助け一條一ツ  効能の理渡そう  授け 悪しき拂ひ助け玉へ天理王命 三偏宛三偏三三三九度』
 

 

 

天理教の2代目の天啓者で、存命の教祖の理を体現された本席様は、明治40年6月9日(陰暦4月29日)にお出直しになられた。

現在の、天理教の公式見解では、本席でもって天啓は終了した。人間は十分に成人したので、天啓は必要ないという立場で、これまで来ている。しかし、今の教団体制の中で、多くの矛盾と低迷を抱えて、四苦八苦されている。 ネット上には、天理教へ言論的な批判に溢れている。情報化社会でSNSで誰もが情報を発信できるこの時代において、善も悪も、一時期に広がる怖さがある。ロシアへの批判が世界中でこれほどまでに統一されている時代も珍しい。それと同じことが、天理教という宗教集団に対しても同様にすでに多くの批判があるということだろう。

 

 天理教の存在意義(パーパス)は何か? 信仰者とってこの問いが、今ほど求められてる時代はないかもしれない。

 

 神の言葉は、寶(たから)であるという(明治40年6月5日午後2時)。人類史の中で、初めて神が一人称で、日本語で、語り始めた。これが天理教の元々の始まりであり、教祖(おやさま)の50年、本席様の20年間という70年に及ぼ天啓の歴史があった。宗教、信条、思想と世界には多様な考えが溢れていて、何が正しく、何が誤りであるのかということで哲学や宗教の長い歴史がある。その中で、極東の片隅で、天保9年(1838)年からある一人の女性を通じて、神が言葉を出すという新奇な現象が起きて50年。さらに本席の時代(明治20-40年)には燎原に火を放つほど爆発的に信徒が増大化したのであった。その救済の原点に、本席様からのたった一つの言葉があった。その言葉を受けて、信じて、喜び、勇み、救済が広がったのであった。神の言葉はまさに、宝である。  

 

 その言葉が終わる時が近づいたのが明治40年の6月5日である。この日だけでも刻限話が何度も繰り返され、明らかに、本席様からの遺言であることが暗に語られる。20年続いたご啓示の集大成、そのまとめが語られるのである。そして「十年かかる話、百日で止めてしまう」(6月5日午前1時)という「百日さしづ」の由来のとなるお言葉がこの日に4度も繰り返されたのである。

 

 啓示が終わるのは、世界救済の継続にとって、危機的な事態である。これは今のロシア危機に匹敵する信仰の危機である。本席の肉体をこのまま使えないという神様の目からは、10年分の啓示を100日たらずで終わらせるということが言葉として現れたのである。

 

 ここで、10年後の啓示はどうなるのかという大問題が当然見えてくる。 次の啓示者への期待がかけられており、その啓示者(機械)を見出して欲しという暗黙の期待が、百日さしづの大テーマだと思わねばならないだろう。 三軒三棟の理、北礼拝場の普請、上田奈良糸様へのおさづけの理の後継が3大テーマといわれているが、これらと関係して天啓継承問題こそが、最大のテーマであるはずだ。  

 

「どんな鎖も付け/\」(明治40年6月5日 午後3時)

 

これは、恐らく、聞き違い、書き取りの誤りらしく、本当は以下の言葉だとされる。これは、旧長さん(茨木基敬さん)のお言葉から学べた新視点である。

 

「どんな鎖もつなげ/\」(明治40年6月5日 午後3時)

 

鎖とは、天啓の鎖をつなげなさいという意味だろう。「鎖をつなげ」の意味を軽くとってはいけない。飯降政甚さんがどのように「鎖をつなげ」という言葉の意味を悟ったか分からないが、また真柱(教長)さんは、十分に受け取ったかも不明である。

 

本席様は、このお言葉に続いて、非常に喜び、勇まれた短い言葉が残っている。

 

「さあ/\これや/\結構々々。アヽおい/\、アハヽヽヽヽやれ/\、嬉しい/\。」  

 

この嬉しさの背後になる本席様の神意を私たちは深く考えないといけない。

 

 

 

 

 

 

 

 前回の10回目のご啓示があった3時間半後の深夜に10首の連続したお歌の啓示がありました。10回目の啓示を復習すると、

 

 「理は理でも時が合わねば成り立たぬ 理と時とは二つ一つや」

 

  という1首のみの短い、しかし難解で深いお歌でした。おそらく、この時間概念に関して、日々の実践との関連で、下されたのが、本日解説する10首の以下のお歌になります。 お歌の番号は私の方で付けました。

 

平成二年十二月二十日午前一時三十分

 1.  物事が 成るか成らぬは 二の次で  理を立てるか 立てぬかが一
 2.  立てるとは 事の起こりを知ることや  因を知らねば どうにもでけまい
 3.  因を知る 知ったからには 安心や  後は時の来るを待つのみ
 4.  あせらずに 静かに心 落着かせ   日々通れ 時が来るまで
 5.  時が来て 急に心が 乱れぬよう   今のうちから 準備するのや

 6.  準備もな 神がさせるで 案じるな   ただひたすらに 陽気づとめを
 7.  つとめとは 神と人との 橋渡し    神は受け取り 守護するのや
 8.  さあつとめ 神に心を 示すのや   示す心に 神が働く
 9.  物事は 神が心を 見定めて   時も見定め 成り立たせるのや
 10.  わかったら 心治めて つとめして   はやく見たいが 親の心や

                                ●● 拝す合掌

【釈義】

 19才の少女にはまだ幼さがのこっていましたが、人並み優れた求道心、素直さ、快活な決断心を持つ中で、神(おや)直々の啓示により、急速に成人の道を歩めはじめておられました。ここには人類が知るべき究極の真理が明かされていて、万人に普遍的な教えが、一人の女性を台として平成の御代に分かりやすく説かれていたのです。存命の教祖(おやさま)が少女の魂を使って、本人が分かるように分かりやすく真理をあかしていくのです。

 

 1.私たちは何かが実現することを求めて日々の活動をして、一喜一憂しているのですが、物事が成立するかしないかはむしろ重要ではない。その前に、しっかり理を立てることが、本当は重要だということです。

 理とは神の心であり、人間心とは対比的な澄んだ汚れの無い心のことです。利己心か、今だけがよければ、金さえもうければという人間心は続かず、神様が好きな心ではありません。どこかの教団で慣習化されている無理な集金体制など言語道断です。人間勝手の理が教会の中でも、一般の社会でもはびこっていますが、それは神様の理とは全く違います。   

 戦争を起こすのも、爆撃で亡くなるのも同じ神様の子供です。ロシアの戦争反対にこれほど世界の世論が一致したことも無い中で、理を立てることが第一(だいいち)に大切なのです。  

 なぜ理を立てることが、一(いち)また第一なのか。それは、人間の心通りに神様が守護する世界だからです。これは究極の因果論です。人間の心があって、その心を神様はすべて見抜き見通しです。人間の精神に基づいてすぐに肉体が動き、その日も、次の日も、常に神様の守護のもとに人間は生きていて、生かされているのです。 

2. 人間の心こそ因(もと)なのです。心は種であり、種を蒔いて、芽がでます。現れた結果は偶然の産物ではなく、ほかならぬ己の蒔いた心の種によって、何事も起きてくるのです。

  大学に合格した。オリンピックで金メダルだ。何かが実現するにはそれなりの努力や訓練の蓄積が必要です。平和な世の中が実現するには、平和な心使いの蓄積が必要です。

  しかし、何も今は悪いことをしていないのに、なぜ戦争を姿を見なければならないのでしょうか。これは人類全体への巨大な警鐘ではないでしょうか。プーチンが起こした戦争も、人類の中にこれまで蓄積した戦争だ暴力だというむごい心が集団として蓄積していて、その返しを人類全体が見ているかもしれません。プーチン一人やその体制が悪いかも知れませんが、自分の中にあった悪い心使いを自ら反省して、今の事態を真から懴悔しないといけないでしょう。戦争は人ごとではなく、己の魂の浄化として反省し、このようなことが起きないよう己の心を浄化しないといけないのです。

 日々の心の使い方が、いかに大切かが問われています。

 東日本大震災から11年目。 生きていることの尊さが日々の報道でも繰り返し流れている通りです。  

 

 後半は「おつとめ」に関する驚くべきご啓示ですが、次回に回します。  

 

 (つづき)

 

これは『おさしづ』の一節で、神様から、松尾與蔵に下された、「おさづけさしづ」です。

 

「おさづけ」とは一種の救済の技法で、信徒の心を見定めて、神様が人間に渡すものです。今の時代は、真柱様が形式的に渡す決まりとなって、100年ほどたちますが、元々は、教祖や本席様から直接渡されていました。人間が望んでも、もらえなかった人もいました。

 

 さづけにも種類があり、今では「悪しきはらいのさづけ」だけが教会本部で伝承されています。しかし、これは、「かんろうだいのさづけ」というさづけで、甘露台という信仰の究極の目標物と関連している何か大きな意味が込められているようです。

 それは、さておき、このさづけを頂かれた29歳の松尾與蔵の父について考察します。

 

 何と、その父は松尾市兵衛[1835-1879]です。天理教の最初期の有力な信徒で、教祖伝・逸話編にもよく出て来る方でした。出直されたのが、明治12年で45才という若さでした。教祖(おやさま)より先に亡くなられていることが注目されます。  

 松尾市兵衛さんについては、深谷耕治先生の「おふでさきと松尾市兵衛」(『グローカル天理』2018年第8号、通巻224号)が参考になります。

 「「おふでさき」の標石的用法(36 最終回) 松尾市兵衞と「おふでさき」」深谷耕治(天理大学非常勤講師)

 

 また熱田分教会の会長さんも同じものを以下のサイトで引用されていました。

 

 

 また、教祖伝逸話編では、明治5年に松尾市兵衛宅に教祖が13日間もご滞在された時のエピソードが有名で、以下のサイトが参考になりました。

rendaico.jp/nakayamamiyuki/omithisonogoden/daikyokaishico/matuoithibei.html

 

市兵衛もその長男の楢蔵も、教祖の御在世の中で、亡くなるのです。有力な信徒だから、無条件で救わることは無いということが感じられます。また松尾宅では既存の仏壇を取り払って、新しい神棚をつくらせたエピソードも有名で、教祖が既存の宗教とこの道が違うことを明確に伝えた点も永遠に伝承すべき話でしょう。  

 

父親は早く出直し、兄も先に出直すなかで、松尾市兵衛の次男坊だった松尾與蔵は、このおさづけを頂き、明治43年には平安大教会ーー<最近130周年で、大教会史、初代の伝記が出版されたそうです。まだ見たことがないです。>

 

 

 

・・・の三代会長に治まりました。

 

大正13年にはその子息の松尾信太郎が第4代の会長となります。

 

この中で、松尾市兵衛の妻の、松尾ハルはかなり長命で、大正12年に89才で出直されたそうです。 ハルさんは、逸話編(教祖伝逸話篇11-20)でつとめは「理の歌」、理を振るという教祖の言葉を伝えている。大変重要な視点である。 

 

 

 松尾與蔵への「おさしづ」は合計で4点あり、母のハル、長男の信太郎、次男の市太郎の氏名も出ていました。 

 

最後に、松尾與蔵さんに下された、神様の「おさづけさしづ」を紹介します。

 

 

 大和国平群郡若井村講元松尾與蔵二十九才おさづけさしづ

さあ/\だん/\の席/\、返やし/\の席、又一日の日の席、席に順序の理、生涯の心持ちての席。生涯の理を諭すには、どうせこうせいとは難し事は言わん、言えんの理を聞き分け。人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。常々誠の心治めば、内々睦まじいという理を出ける。それ世界成程と言う、成程の者やと言う理を出ける。成程という理を受け取るのやで。これまでもよう聞き分け。代々の道があるで。だん/\の処尽し、席無くして身も隠した処、さあ/\代々さあ/\さづけを渡すで。かんろうだいのさづけを渡すで。さあさあしっかり受け取れ。

 

【釈義】

 人生の一度だけの神様から生涯肝に銘じるべき理を諭す。無理なことは言わない、無理に説得すさせるものでもない。しかし人間にとってもっとも大切なことを話す。 人間の肉体は借り物、心ひとつが我がものである。その人間の心を受け取って、神様は守護される。誠の心、内々を治めていく心によって、その主体的な心で、自由用の理を見せていただける。 他人から慕われる、成るほどの人としてしっかり成人することが、人間の精神的な成長として望まれる。 先祖の徳があり、亡くなった親族もある中で、その代々の誠を見て、このたび、おさづけのご褒美を渡す。 甘露台のさづけを渡す。  しっかりと受け取りなさい。  

 

平安大教会の前身は積善講で、天理教伝道史の一側面について、高野友治(1955)がありました。国会図書館と許可のある図書館で見られます。