明治15年に赤衣を頂いた茨木基敬さん、「花が咲けば同じ花が咲く/\。」(明治21年7月13日) | 「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」は宗教か、真実の教えか

「天理教」に関するまじめな宗教学的、神学的な考察

天理教の歴史で、茨木基敬さんに対する評価は、異端者というのが公式見解で、天理教事典にもそのように記載されている。では、何をもって異端者なのか。啓示現象があること自体が異端とされていて、その説いた膨大な天啓録に関する調査も研究も、されたことはない。本ブログでは、ここに理の探究における一大陥没があり、その大きな鉱脈を掘り出すことを一つのパーパスとして掲げる。   

 

 茨木さんの入信は明治15年であり、子供の「おらく」さんを天理教の信徒から助けて頂いた感激から始まる。その三日後には不思議なお助けをして、教祖に会う前から信仰一筋の純粋な求道者タイプの人であった。

 

 入信して、布教に奔走しながら、4か月後には、初めてお屋敷で御教祖との対面が許された。その時、教祖はたいそう喜んで、『よう帰って来た/\  よう帰って来たなァ』の、お慈悲溢るゝ言葉を以て迎へられ、御自ら「月日の模様入りの瀬戸盃」をお出しになって、お酒を注ぎ、お口づけられて『これは茨木様へ』と渡された。

  基敬さんは、初対面に斯くもの御心添へに感泣し、有難く押し戴き口つけんとせられたのを、取次の先生から  『それは頂くのやない、持ち帰って家族一般の者へ分け與へるのや』と御注意せられたので、恐縮してお酒を白紙に濕らして、お盃と共に頂戴せられた。そこへ又、御教祖は、  『一寸お待ち』と仰せ有って「無地の襦袢の赤衣」(注1)を一枚お下げ下された。   (『伝記』より)

 

注一:なおこの赤衣と講社に頂いた赤衣を、二つ一つに御祀りする伺いが明治26年1月20日にお伺いとしてだされ、神様から速やかに許されている。これは公刊本にもある。 教祖から赤衣を頂いた高弟は誰なのか、研究の余地があるだろう。   

 

 既成仏教や官憲からの信仰攻撃、差し止めなどが多発する中でも、茨木氏は信仰の炎をより燃やす人であり、話一条を練習して、巡教も盛んに行った。泉田藤吉の弟子筋として、泉田を立てたかったが、お許しがあり、独立して天地組総長となった。 

 

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以下は反対攻撃がある中で、いかに治めてるべきかの伺った際の「伺いさしづ」である。これは公刊本には未掲載のものである。

 

 明治二十年六月二十八日

  天地組三番講長・加藤儀右衛門  警察署より彼是言われるに付き、茨木基敬心得方お伺い

 

『さあ/\一寸出ていかんなれども思案せよ  何程の事を思ふてもいかん  さあ/\/\  不自由案じて見れば案じるで  考へて見よ  お口水の濁り濁りの中へどんなよいもの入りても一寸に知れんで  さあさあ/\心静めて思案せよ  今より今の道を通らうとするが ふかくやで  充分種を蒔き種を蒔かずにいかんで  此處の處をじっとして思案して見よ  風の吹く日風次第心を定め  風吹くをこわい恐ろしい言わず治めねばならん   さあ/\この地場の事で考へて見よ  此處へは一人も入れる事はならん  すうきり取り払ひ 幾度の事やら知れん 考へて見よ  さあ/\/\今から今の道通るがふかくやで』

 

 これは地場屋敷も官憲の迫害を受けて、信徒の出入りが禁じられたたとえをもって、強風の中も心治めていきなさいと激励を受けている。
 

 既存の公刊『おさしづ』には実は、多くの茨木基敬さんに関する「おさしづ」が残されている。その冒頭の一部をここで、紹介する。

 

明治二十一年七月十三日(陰暦六月五日)
 大阪天地組総長茨木基敬、三島中山重吉宅にて腰の周り両手にて抱えられるようになりしに付伺
さあ/\/\尋ねる事情/\、花が咲けば同じ花が咲く/\。内々心を治め。心の勇んだ今日という日に、又々尋ね出るがよい。

 

【解説】 この前書きの意味は『伝記』(非公開文書で、どこの図書館にもネットにもない情報、借りのタイトル名とした)によれば以下の通りである。平野楢蔵に頼まれて、天龍講部内巡教して、その帰路、お地場に戻っていた時のことである。中山重吉(教祖の長女のまさの子息)宅に泊まっていたが、何か身体的異変を感じて、これを泉田氏に話すと、これは神様の御用だということで、取次3名の先生(山本利三郎・桝井伊三郎・泉田藤吉)を通じて、ご本席様に伺ったのであった。

  この「花が咲く」が大変意味深であり、教祖と同じように、天啓が開かれることが含意されていたらしいのである。「花が咲く」という表現自体は、おさしづでも何度かあり、管見では、天啓の実現の暗号とは特別には言えない模様である。暗に仄めかしただけであり、直接語ることは神様としてもできなかったが、大切な魂として目星がつけられていることは、赤衣やこうしたおさしづから分かる。また茨木さんは、まさに確固とした布教精神をもち、その人格が教祖並みだということの証かもしれない。  

  ここでは詳しく説明できないが、当時の迫害弾圧が厳しい中での勇猛果敢な布教活動で茨木氏の右に出る人はいなかったと思われる。話一条の実践者として、すでに同僚の高弟たちからも高く評価されていたのであった。

 本ブログでも以下のように、以前ご紹介した。

 

 

  天理教批判文献でも、外部の方が地場に訪問してインタビューした際、その対応に出られたのが茨木基敬さんであった。以下の文献に明治23年4月に外部の方が書いている。

 

 

 またこの明治21年のエピソードで、お屋敷において、何か身体的異変があれば、すぐに神様に伺うという思考回路が当時の高弟たちの間に認識されいた。これこそが神屋敷の面目がたっていることが感じ取れた。「貸しもの借りもの理」を身体的に深く悟っている高弟たちにとって、ちょっとした肉体の異変から、何か神様からのお知らせだということを感じ取っている。今の天理教のどこかの教会にもこのような神霊的な思考回路が回っているところは、救済や霊救が真にあがっているだろう。  

 

「又々尋ね出るがよい。」とのことで、以下のように改めてお伺いすることになった。その際、なんと「おさづけの理」を拝戴することになったのである。この当時、おさづけの理をもらうには、多くの願人があり、別席の制度化される前夜の中であった。茨木さんは個人的に呼び出されて、個人的に頂いた。『おさしづ』第七巻にもこのタイプの個人的に渡す「おさづけおさしづ」が明治20,21,23年頃には多い。 

 

明治二十一年七月二十五日(陰暦六月十七日)午後五時十分
 大阪天地組総長茨木基敬同年陰暦六月五日中山重吉宅にて、お手入れを頂きし事 申述べし時のおさしづ


さあ/\/\尋ねる事情、さあ/\これまで長らくの道の処、幾重の道も通り、又一つ十分身上自由自在、生涯一つの何分理ある理を運ぶ。運べどもたゞ一つの理により、自由自在の理、自由自在、一日生涯しっかり一つの心治め。一日の日をたすけ一条のため、自由自在。一日たすけ一条一つこうのう理渡そう、さづけ。あしきはらひたすけたまへ天理王命、三遍づつ三遍三三三九度。

 

【釈義】

『伝記』によれば、割書きや「おさしづ」は以下のように、住所や生年月日も書かれていた。参考までに付記する。安政2年とは1855年である。教祖時代に、講や組がいかに設立許可され、広がったのか、布教伝道史の事例としても、『伝記』を詳細に研究すべきである。  

  存命の教祖である本席からいただいた「おさづけ」の効能の理は確かにあり、道の路銀とも呼ばれた。救済者として神様から直々に許されたさづけである。今の別席制度では、形式的に9度話を聞いて、誰でももらえる「おさづけの理」と何かが違うことは霊性ある人なら分かるだろう。  

 本人の布教道中の苦労を神様はしっかり見ていて、そこのことが神様の「これ迄長らくの道の處  幾重の道も通り」に表現されている。人は見ていなくても、神様はすべて見ている。 

 

大阪市北区若松町百二十番屋敷天地組總長茨木基敬三十四歳安政二年十月三日生

『さあ/\/\尋ねる事情  さあ/\/\これ迄長らくの道の處  幾重の道も通り又一ツ  充分身上自由用自由在  生涯一ツノ何分理ある理を運ぶ  運べども只一ツの理により 自由用自由在の理  自由用自由在  一日生涯しっかり一ツの心治め  一日の日を助け一條の為 自由用自在一日助け一條一ツ  効能の理渡そう  授け 悪しき拂ひ助け玉へ天理王命 三偏宛三偏三三三九度』