こんにちは!
このブログにお立ち寄り頂き、有難うございます。
育児・仕事・人間関係に疲れたあなたの心に
暖かい風を送る、
アドラー心理学&マインドフルネスコーチ、
ジュバ智子です。
このブログでは何回か
自分の弱さ、不甲斐なさ、哀しみを通して
人とつながることが出来る
という趣旨の記事をいくつか書きました。
今日はその流れを汲んだ
聖書のお話をひとつ、ご紹介します。
私は時々、聖書の中のストーリーをご紹介しています。
宗教的な目的は全くはなく、ストーリーが持つ意味が
現代社会を生きる私たちに気づきを与えてくれるからです
「姦通の女の話」です。
姦通、いわゆる不倫ですね。
イエスという人が生きていた当時の社会では
大変重い罪に当たる行為でした。
姦通したものは公の場で石打ち、
つまり、集団リンチを受けて死刑、
という結末が待っているという、
命がけの行為だったのです。
そんな時代、一人の女が
姦通の現場で取り押さえられ、
イエスの前に引っ立てられてきます。
律法学者とファリサイ派の人々が
(=ザックリ言って、当時の法律の専門家たち)
姦通の現場でとらえられた女を連れてきて、
広場の真ん中に立たせ、イエスに言います。
「先生、この女は姦通をしているときに
捕まったのです。
律法の中では(=旧約聖書の教えでは)
このような女は石を投げつけて殺すようにと
命じていますが、あなたはどう考えますか!」
…イエスは即答せず、しばらく黙っています。
それでもしつこく答えを迫られ、こう答えます。
「あなたたちの中で、
罪を犯したことのない人が、
まずこの女に石を投げなさい」
ここでいう「罪を犯したことがない」というのは
犯罪行為をしたことがない、という意味ではなく、
「あんなこと、しなければよかった」
「ああ、私という人間はなんて弱いのだろう」
という心の痛みを感じたことがない、
という意味合いです。
イエスがこう言った後、
どうなったと思いますか?
聖書はこう書いています。
「これを聞くと、人々は
年長者から始まって、
ひとり、またひとりと去っていった」
最後に広場に残ったのは
イエスと女の二人だけ。
イエスは
「だれもいなくなってしまったね。
私もあなたを裁かないよ」
と女に告げるのです。
このシーン、読むといつも胸が
キュッと痛くなります。
(「同罪の男はどこにおんねん!」という
怒りも感じつつ(笑))
「年長者から始まって、ひとりひとり去った」
という部分。
生きていれば生きているほど、
人は、後悔することに出逢い、
自分の弱さや哀しさに触れていきます。
自分の不完全さを何度も何度も
味わいながら年を重ねていきます。
だから、年長者から、去っていった。
おそらく、イエスの言葉は、
そんな不完全な人間を責める口調ではなく、
ひとりひとりの心に気づきをもたらすような、
暖かさにあふれたものだったのでしょう。
だから、みんな何も言わずその場を立ち去った。
人は、
自分の弱さや哀しみに優しく触れて初めて、
人の弱さ、哀しみがわかるのです。
この「姦通の女」も、
私と同じように、悩み、苦しみ、
それでも幸せになりたいと
必死に生きてきたに違いありません。
人に優しくなりたいなら、
自分の不完全さに優しく触れることです。
自分の不完全さを嘆くのはやめましょう。
だって、そこには、
人を理解し、深く愛するための
力がねむっているのですから。
喜びが人と人をつなぐと同じように、
哀しみ・痛みも人と人との懸け橋になる、
私はそう信じています。
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