「放蕩息子の話」を知っていますか? | 【ドイツ発】心の質は人生の質!マインドフルネス&セルフコンパッション&アドラー心理学で揺るがない幸せ体質になろう★ジュバ智子

【ドイツ発】心の質は人生の質!マインドフルネス&セルフコンパッション&アドラー心理学で揺るがない幸せ体質になろう★ジュバ智子

人生に「遅すぎる」なんてない!ドイツMBSR協会認定・国際資格を持つマインドフルネス講師が伝える本物のマインドフルネスで心の苦しみを根本から解決!セルフ・コンパッションで自分を優しく支え、アドラー心理学をコンパスに「後悔しない人生」を今日ここから始めよう☆

こんにちは!

 

このブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 

育児・仕事・人間関係に疲れたあなたの心を豊かで軽やかにする、アドラー心理学&マインドフルネスコーチ、ジュバ智子です。

 

 

 

私は聖書に描かれるストーリーの、人間臭さが大好きで、

 

今まで二回、お気に入りのストーリーについて記事を書きました。

 

長血を患う女性の話

 

マルタとマリアの話

 

 

 

 

今回は、「放蕩息子と父親の話」です。

 

 

 

このお話はかなり有名なので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

 

レンブラントが「放蕩息子の帰還」という名作に、そのシーンを描いています。

 

 

 

いつものように、私独自の解釈が入っていますが、こんなお話です。

 

 

 

ベルある人に息子が二人いて、弟の方が父親に財産の生前分与をしてほしいと願います。

 

父親がその願いを受け入れ、財産の半分を分け与えますと、

 

その息子は財産すべてをさっさと現金に換え(当時はラクダのような家畜も財産でしたのでね)、

 

遠い国に旅立っていきました。

 

 

息子はそこで放蕩の限りを尽くし、財産をあっという間に使ってしまいます。

 

 

そんな時、息子がいる地方で大きな飢饉が起こって、息子は食べるものにも困るようになります。

 

雇われ人になり、豚を飼う仕事をしながら、豚の餌さえも口に入れることができない程、どん底に身を落とします。

 

異国の地で、誰も自分を助けてくれる人はいません。

 

 

どん底に落ちて初めて、その息子は「我に返って」、

 

父親を頼ろうと思います。

 

 

財産をもらって家を出てから、一度も思い浮かべることもなかった父親。

 

父親のもとで過ごした日々が、素晴らしいものだったことを思い出します。

 

今まで好き勝手をした挙句、のこのこ帰れば、

 

今更なんだ、と言われるかも知れない。

 

お前など知らん、と言われるかもしれない。

 

 

それでも息子は、

 

「息子と呼ばれなくてもいい、雇人の一人にしてさえもらえばいい、父に謝って、助けを乞おう」

 

と決め、家路をたどります。

 

 

 

一方、父親は、息子の姿がまだ遠くにしか見えないのに、

 

それが息子だと気づき、自ら走っていって息子を抱きしめます。

 

 

息子は前もって考えていた謝罪の言葉と、雇人にしてほしいという言葉を口に出すのですが、

 

父親は息子がすべて言い終わらないうちに、息子に一番良い服を着させ、

 

手には指輪をはめさせ、靴を履かせて、帰還の宴を始めたのでしたベル

 

 

 

この物語、平坦に読むと「へえ、そうなんだ。おとうさん優しいね」で終わりなんですが(笑)

 

私は聖書の言葉の端々に人物の心の襞を読んでしまうのです。

 

 

 

明らかに調子に乗ってた息子。

 

昔から自由奔放で、好きなことはなんでもやっちゃうタイプだったのかも知れません。

 

財産をもらってからは、金の力にものを言わせ、人の心を買い、

 

人生なんて楽勝、と思っていたのかも知れない。

 

そんな息子が、異国の地でひとりぼっち、誰にも頼れない、人生の大きな挫折を味わった時、

 

「我に返る」のです。

 

 

 

今まで父親は、息子にとっては金づるに過ぎなかったのでしょう。

 

父親の心を折るようなことを、今まで散々言ってきたはずです。

 

それでも父親は、子供を信じ、財産の生前分与を承諾した。

 

 

 

一文無しになり、襤褸切れのようになって戻ってくる自分は、

 

父親の心をどれほど傷つけるだろう、

 

息子はそう思ったのではないでしょうか。

 

 

 

自分の不甲斐なさ。自分を愛してくれた人への裏切りからくる罪悪感。

 

そんな気持ちを背負いながら帰路をたどる息子の気持ちを考えると、

 

私は胸が痛くなり、涙が出そうになります。

 

 

 

息子を迎える父親。

 

「遠くから息子だとわかったということ」に、胸が熱くなります。

 

 

私は、父親が毎日、息子が去っていった方角を見ては、

 

「あいつは元気にやっているだろうか」

 

と、息子に想いを馳せていたのだと思うのです。

 

 

 

ある日、いつものように息子が去っていった方角をみると、息子が見えた。

 

毎日その姿を想っていたからこそ、「遠くからその姿がわかった」のだと思うのです。

 

 

そして、そのボロボロの姿をみるだけで、父親は全てを察するんです。

 

聖書には、「何が起こったんだ」とか「どうしたんだ」とか、

 

父親がそんな質問をしたこと、一切書いてないんですね。

 

 

 

ただ父親は、息子に向かって自ら走っていき、

 

息子が口にする謝罪の言葉など最後まで聞かず、息子を抱きしめるんです。

 

 

 

「もう、いいんだ」

 

「何も言わなくていい」

 

「良く生きて帰ってきた」

 

父親の心の中は、そんな言葉で一杯だったと思います。

 

 

 

「この父親の愛=神の愛の相似形」「悔い改めは大事だよ」

 

というのがキリスト教的な目で見たメッセージなのですけど、

 

私はこのストーリー、本当に美しい勇気づけの物語だと思っています。

 

 

 

何度失敗してもいいよ。

 

どんなあなたでも大丈夫、大好きだから。

 

困った時には必ず助けるから。

 

いつもここにいるからね。

 

 

 

 

相手を徹底的に信頼し、受け入れ、支える姿勢がそこにあります。

 

 

私のお気に入りの物語です。

 

 

 

で、この話にはまだ続きがありまして…!

 

「自分を生きていない、他人軸の」、この弟のお兄ちゃんが登場します。

 

これまた面白いので、明日書きますねニコ

 

 

 

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