プロムナード -25ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま

子供の頃から博物館とか資料館、或いは史料館などの類が好きで、それは今でも全く変わっていない。また、観光地などにあるビジターセンターも、時間があればというか、時間を作ってでも必ず行く。知的好奇心を刺激するためには最も手軽で効率的なところだと思う。

この半年間、ある程度ではあるが自分で仕事のスケジュールを作成できるようになったので、身近にある様々な博物館を周ってみた。

国立科学博物館

その気になって探してみると、マイナーなものまで含めるとかなりあることがわかった。それぞれ個性が強調されていて、とても良い勉強になるので、あまりジャンルにとらわれずに訪問する様にしている。とかく自分の得意な分野にのみ行く輩も多いと思うが、新しいジャンルや異業種に触れることは新しい見聞や知識が増えて楽しいものだ。

ところで、博物館巡りをする場合、小生は次の3つを実践するようにしている。

1.出来るだけ下調べをしてから訪問すること
2.なるべく一人で行くこと
3.出来れば平日に行くこと


全部「なるべく」とか「出来るだけ」という枕詞が付くとはいえ、とにかく経験上オススメしたいポイントだ。

1については予備知識があれば、理解も早まるし、効率も高まる。2と3、これは即ち「好きな時に、好きな様に、そして好きなだけ見る」ということ。見たい箇所をとことんまで見る。完全に理解できるまで、或いは覚えられるまで、しつこく見る。見終わったあと、見たものについて歩きながら頭の中で咀嚼し、よく分からなくなって来たら確認のためにまた戻る。

こういったことをするには、一人じゃないとできない。また混雑していてもできない。だから一人で平日行くのが良いのだ。

そういえば小生、列車の旅行というのはどうも苦手で、殆どの旅行は車だ。列車の旅だと、時間で縛られる。日頃時間との戦いをしているから時間とは関係なく過ごしたい、いっそ時計の無い暮らしをしたい、そういう気持ちもあるにはあるとは思うが、ちょっと違う。長年、時間を気にしながら物事を行うという経験をしているのだから、それが苦になるということはあまりない。むしろ、時計がなくなってしまうと却って不安になるかもしれない。それよりも、自由に時間配分が出来るということが、車での旅行の醍醐味なのだ。

さて、今年、どの様な博物館や史料館などに行ったのか、忘れないうちにメモっておこう。

技術工学系
   科学技術館
   日本科学未来館
   現代産業科学館
   東芝未来科学館
   パナソニック「リスーピア」
   先端技術館「TEPIA」
   NHK放送博物館
   地下鉄博物館
   鉄道博物館
   所沢航空発祥記念館
   紙の博物館
   消防博物館
   大名時計博物館
   登戸研究所資料館
   東京理科大 近代科学資料館

自然科学系
   国立科学博物館
   東京大学インターメディアテク
   東京大学駒場博物館「日本の蝶」
   文京区教育センター(東京大学総合研究博物館)
   気象科学館
   太古の哺乳類展
   目黒寄生虫館
   超・深海」展
   木力館
   ファーブル虫の詩人の館
   地底探検ミュージアム「龍Q館」
   「猛毒」館
   上野動物園
   上野水族館
       チョウの生態写真展

土木系
   荒川知水資料館
   東京都水道歴史館
   東京都水の博物館
   ふれあい下水道資料館
   土木コレクション2014

医学系
   東京大学健康と医学の博物館

考古民族文化系
   江戸東京博物館
   国立公文書館
   新宿歴史博物館
   桶川市歴史民族資料館
   昭和館
   さいたま市立博物館
   埼玉県立歴史と民族の博物館
   蓮田市文化財展示館
   両国花火資料館
   紙の博物館
   お札と切手の博物館
   貨幣博物館
   荒川ふるさと文化館
   文京ふるさと歴史館
   飛鳥山博物館

美術系
   箱根ガラスの森美術館
   ポーラ美術館
   大宮盆栽美術館
   箱根彫刻の森美術館

これ以外に、AKB48総選挙博物館というのもある。

しかしこうやってみると、美術系が少ない気はするが相当な博物館を巡ってみた様だ。これらを訪問し、ひとつでもふたつでも、これまでに知らなかったことや見たことが無かったことが頭に残れば、いい勉強になったことになる。今後、それらの見たことや覚えたことが人生に於いて知識として役に立てばよいのだが。。。


男は、個人差あれど、女が思うよりもきれい好きだと思う。

掃除しない、散らかっていても平気、汚れた服を着ていても気にしない、世の男衆の不潔不衛生に関する実態を表すには枚挙に暇がないが、それは単にものぐさなためであって、好んで掃除しないわけではない。汚い服と清潔な服が並んでいたとすると、特別な事情がない限り、清潔な服を選ぶだろう。キレイが嫌いではないのだ。

だから男はキレイな女性を好む。しかし「キレイ」のバロメータは、女性が考える基準とは異なるのだ。

男は、できる範囲でとか、個人差はあれど自分の測定方法で女性のキレイさを測定し、計測値の高い方を好む。その尺度は国、慣習などによって千差万別だろうが、とにかくキレイな方を選ぶのは古今東西万国共通だと思う。故に女性はキレイになろうと努力する。それなりであろうと、とにかく努力する。男はその結果キレイになったかどうかはともかく、その努力を健気に感じ取り「カワイイ」と感じる。言い換えれば、その努力をキレイと感じる。

つまり、男が感じる「キレイ」は、女性が思う「綺麗」とは違うのだ。男が「可愛い」と思う対象と、女性が「カワイイ」と感じる対象が異なるのと、たぶん同じだと思う

先に「男はものぐさ」と述べたが、一方で男には「きれいにする前と後の差がはっきりわかるのであれば、「努力を惜しまない」という性質がある。例えば洗車などが良い例だ。洗う前と後の差が大きいほど満悦するのだ。

男は、ある日突然、すすだらけになった薬缶やくすんだ水道蛇口などを初期状態のような輝きを再現させようと、長時間かけて磨きこんだりする。

誰かの指示によるものではなく、自ら「そうしたくて、そうする」。こういうものは、日頃メインテナンスしていれば歳が経っても経時劣化することなく初期の輝きを保たせることが可能なのだが、男は基本的にものぐさであることもあって、輝きが消えててから腰を上げて活動を開始する。そこで得られる差、つまり磨く前と磨いた後の差が得られることに達成感を感じるわけだ。


写真は東京ビッグサイトで開催されていた「Maker Faire TOKYO 2014」でお披露目していた往年の名車、通称「ハチロク」が約30年ぶりに九州工大によってリニューアルされ(リサイクルともいう)がよみがえった姿だ。
トレノ(ハチロクのこと)の勇姿を覚えている諸兄たちは、この復帰に目を細めて愛でていた。

この展示の趣旨はガソリン車の電化という趣旨であって、エンジンの代わりにモーターを載せ、ガソリンの代わりに充電池を積んだ車の展示訴求であり、しかも車検まで通して公道走行が可能な仕上げまでしてあったのだが、では、出展者はなぜこういった往年の車を選んだかというところに、男の嗜好に関するヒントがある。

そう考えると女性の皆さん、四六時中きれいでいる必要はないかもしれません。

男はギャップの大きさが広いほど喜ぶ。

この9月にドイツで開催されたIFAにて、パナソニックは往年の名機ブランドである「Technics」ブランドの復活を宣言した。最高級のPure Audio Systemである。

その後、日本でもCEATEC等でお披露目されたため、様々なところで紹介記事が満ち溢れた。

 


このブランド名はパナソニックが旧松下電器産業時代に建立したハイエンドオーディオブランドであり、今日では既に消滅してしまった名前であれ、特に欧州では根強いファンがその復活を願っていたブランドでもあった。

かつて小生が米国出張の際に、旧松下電器産業のオーディオアンプの技術者を乗せたレンタカーを運転中、その方が隣を走る車をみて「あ、Technicsブランドのステッカーが貼ってある」と叫んだとき、同社のエンジニアの夢はTechnicsの復活であることを知った。そうだろうとも思った。目を細めながら曰く「ヨーロッパのお客様は今でもテクニクスブランドの製品を持っていることが自慢で、その復活を待っていると聞いているんですよ」。

それ以来、その方だけではなく、別によく知る方にも事あるごとに「Technicsの復活は?」とよく話題にしていたのだったが、今回の復活を知り、小生はまるで自分のことの様に喜ばしく感じている。実際、このテクニクス復活に関する技術責任者は、小生が十余年来、懇意にさせて頂いている方だ。国内のみならず米国で何度もお会いさせて頂いた方でもある。

音が映像と大きく違うことは、音は切り出すことができないということ。映像の場合には時間的に刻々と変化していても、その一部を切り出して拡大したり縮小して評価することが可能だが、音はそうはいかない。いきおい、評価方法は異なるのだ。

映像は様々な媒体で再現できるが、音声はスピーカでしか再現できない。評価の土俵、即ち媒体はたった一つだけなのだ。。そこで職人の技が奏功する。深い知識や長い経験が勝敗を決める。

だからこそ日本の技術には一日の長があるわけだ。

今日びの映像技術は、ともすればプラモデルが如く、既成のSOC群を繋げれば作ることができる。がしかし、音声技術は別。とかくAVと称し一絡げにされるが、AとV、実は別物。

いきおい、音の評価が「力強い音」「厚みのある低音」「透き通る高音」といった表現になる。この表現は、物理的な計測値、すなわちdB(デシベル)で表されるダイナミックレンジや周波数特性といった数値化ができない(いずれできるようになるのかもしれないが)。今こそ、そういった感性の世界が再度見直される時期に来ていると、小生は考える。

日本の持つ技術とは、即ちたぶんにアナログな技術だと思う。ゆえに一朝一夕には確立できない。そこに底力がある。

日本の技術を今一度棚卸し、このTechnicsの勢いが他の日本企業に対する刺激となることを祈りたい。

小生が一般人と比較して著しく欠けている感覚のひとつは、何を見てもキモいと思わないこと。


自慢じゃないが、毛虫、芋虫、ゴキブリ、蜘蛛、蛇、等々の生物はもとより、ウンコだってキモいと思ったことはない。そういうものは遠くから見ことすら御免だという人も多くいる様だが、小生はその感覚に乏しい。とはいえ、それが欠点だとは特に思ってはいないのだが、

「興味を持つ観点」が他の人とは異なるかも、と感じることは、たまにある。

「そういえば」と云うことが、先日あった。

日本橋川の終点、隅田川。正面に見えるのが日本橋川最後の橋。

東京を流れる幾つかの川のひとつである神田川から水道橋付近で分水する日本橋川の流路や河口が見たくなり、日本橋を通って河口である隅田川まで散歩したのだが、隅田川の永代橋を渡って反対側から日本橋川の河口を見ていたときに、


ふと目元に猫の水死体がゆっくりと流れ来ているのに気付いた。

遠くから見えたときは膨らんだ白いビニール袋かと思ったのだが、その物体が近づいてくるにつれ、どうやらそれは動物の溺死らしいということがわかった。隅田川も永代橋付近になると、流れは緩やかになる。その物体が堤防の真下まで流れ着くと、それは四肢をだらりと下げて上向けになって漂う猫の死体だったのだ。白い毛に包まれた腹はぷっくりと膨らんでいたので、恐らく死後数日ぐらいが経ち、腸内細菌によって生成されたアンモニアなどの腐敗ガスが充満しているのだろう。首はまだ付いていたから、それ以上の日数は経ていないのかもしれない。上向きになっているのは、背骨などのカルシウムが重力方向を向くことと、体内ガスが腹側に溜まるので自然にそうなるということだろう。結果、四肢はだらりと下に下がり、まるでへべれけに呑んだメタボオヤジが駅のベンチで寝てる姿の様だった。

猫の死体については、車に引かれた轢死体を地方の道路などでたまに見かけることがあるが、水死体は初めて見た。恐らく川に落ちてそのまま溺死したのだろう。そういえば隅田川の堤防は護岸工事によって切り立っており、猫レベルだと一度落ちたら這い上がるのは困難かもしれないし、もし這い上がったとしても、そのまま堤防の上まで上がるには垂直に近い壁を登る必要があり、力尽きて餓死したという可能性もある。正直、不憫だ。

いずれにせよ、猫の水死体というのは今後も恐らく見る機会はないだろう。


かつて、目黒川に首の無い犬と思しき死体が流れているのを見たことがあった。「なるほど」と思った。首から上は重いので、腐敗が進むと首が取れる。だから首が無いのだ、と考えた。

その猫の死体が小生の目元まで流れ着いて離れて行くのを見送りながら、「これが堤防の上からではなく、岸に近いところだったらもっと近くでじっくり観察できるのだが」などと考えていたのだが、ふと、そういうものに対して興味を持つのは、ひょっとすると変に思われるかもしれないと思った。もちろん科学的に興味があるからなのだが、他人から見れば猟奇的な趣味と思われてしまう可能性がある。

世の中には様々な学問があり、比較解剖学などと類似した「遺体科学」という分野がある。動物の死体を解剖しまくって科学的な謎を解き明かすという学問だが、彼等も恐らくキモいという感覚は皆無に近いだろう。研究内容を一般人に説明する時には、ずいぶん苦労しているのではないかと想像できる。

かつて、法医昆虫学を専攻する女性が動物の死体について、腐乱していくに従い、どのような虫が群がってくるか、或いは育つかをくまなくチェックし、虫を調べることによって死後経過時間や死因を特定する研究をしているという話を聞いた。彼女など、周りの人からは相当に変態扱いを受けただろうと思う。

「科学する」ということを理解してもらうのは、意外と大変なことなのかもしれない。

そういえば、水死体に気付く直前に撮った写真にはその姿が僅かに写ってはいるものの、今も悔やんでいるのは正面からの写真を撮らなかったことだ。もう二度と見ることは無いかもしれないし、将来何かの役に立つ写真が取れたかもしれないと思うと酷く残念でもある。

合掌。



藍染川の第三回目として、小生としては今回の旅に於ける探求の本命だった藍染川排水路について述べる。

藍染川排水路

藍染川は地域によって名称が異なるが、すべての名称を列記すると、谷戸川・境川・谷田川・蜆川・蛍川・藍染川がこの川の名称だ。

川の名称が幾度も変わるということは、それだけ地元に密着していたと言うことだろう。元々藍染川は、荒川区を通るところはごく一部で、大半は北区・文京区・台東区であった。実際、今では消えているが藍染町という地名が台東区にあった。ところが荒川区には、今でも藍染通りはもとより藍染公園という公共の建造物がある様に、

荒川区に於いて藍染という名称は、公共物として今でも現役なのだ。

それは藍染本流よりも後述する藍染排水路の方が、実は重要な役割を果たしていたからだと推測できる。実際、藍染川として現在でも現役として活かされている川は台東区や文京区を流れて不忍池につながる本流ではなく、排水路として荒川区を流れる藍染川であって、つまり荒川区としては、藍染川は荒川区の川だという主張が感じられる。

 

 

 

 

 

 

 

 
藍染川排水路は旧初音四丁目(現在の道灌山下付近)から分岐して隅田川へと注ぐ排水路として建設された。即ち、現在の西日暮里駅近くの地下を通るトンネルの建設である。

ここで、上野台地を持つ武蔵野台地について触れておく。

関東付近の地形は標高が高く、古い岩石からなる山地が一番外側にあり(関東山地、秩父多摩)、その内側により新しい岩石からなる丘陵が位置する。さらにその内側は凝結していない堆積物からなり、かつ、ほぼ平坦な地形からなる台地が分布し、さらに台地を刻んで低地(関東平野)が形成されていると言う特徴がある。

関東平野全体をみると大きく云って台地と平地からなる。この低地のうち東京都東部から千葉県西部に広がる低地を東京低地、その北方に続き埼玉県東部に広がる低地を中川低地、中川低地から利根川沿いに延びる低地を妻沼低地、東京低地から北西に荒川沿いに延びる低地を荒川低地と呼ぶ。台地はこれらの低地に刻み込まれて幾つかに分かれて分布する。そのうち、東京の山の手台地から北西に広がる台地は、「武蔵野台地」と古くから呼ばれてきた。

荒川区の殆どの地域は東京低地内の三角州地帯にある。この辺りは奥東京湾(前述。縄文時代の有楽町海進のころ)が陸化されて出来たところであり、標高はほぼ3m以下である。この中で比較的高いのは台地に接する西日暮里二丁目、五丁目、および台東区根岸から北東に延びる微高地沿いの地域で、4mを超えるところもある。これらは、後期有楽町海進の時代に台地の縁を侵食して生産された砂が堆積した砂州と見られる。この微高地の北西に位置する東日暮里は、かつて池も存在していたようだが、これらは入江の陸化が遅れて湿地として存在していた名残と考えられる。

台地としては西日暮里西部が台地上にある。これはもちろん武蔵野台地の一部で、標高は20m前後である。武蔵野台地の中では標高が低く、新しい台地として分類されて本郷台地とよばれることもあるが、武蔵野台地の東半を占める山手台地の一部であり、上野公園から飛鳥山に連なる台地の一部をなし、台地の北部は北区、南西部の大部分は台東区、北西の一部は文京区に接している。

藍染川排水路は、大正2年に当時の東京市が豪雨等による氾濫や溢水の困惑を救う下水設定事業として建設されたものだ。
即ち、谷田川は川幅が流量に比べて狭いために氾濫が多く発生し、拡幅や神田川への管渠築造では工費が莫大なものになるということから初音四丁目に分水装置を設けて、そこから隅田川へ排水するという排水路設定工事に基づくものである。

この計画は分水地点から現在の西日暮里駅付近までをトンネルとし、そこから先を開渠とするというものであった。当時この付近は田んぼであったために放水路を作るということは比較的容易だったようだ。またトンネルにする理由は、飛鳥山から上野方面に延びる上野台地を越える必要があったからだと考えられる。工事は大正4年から3年後の大正7年に完成した。


この排水路が開渠として存在していたことは大正14年の地図で確認できる様に、開成中学校脇から山手線の下を通り、北東に伸びる川が記載されている。

 

 

 


この地にトンネルとして藍染排水路が建設された理由は、下の図にある様に、上野台地のうちこの近辺の台地幅が狭いことによる。 

 

 

 

 

 

 


写真は道灌山通りにある切通だが、この辺りでの上野台地(この付近は諏訪台地とも言われている)の幅は、僅か数10mである。山を潜らせる工事としては、台地の幅が狭いほど良い。この藍染川排水路は、現在の西日暮里駅を越えた辺りから先は開渠であった。

 

 

 

 

 

 

 

 
暗渠化についてであるが、太平洋戦争終盤の昭和20年に起きた東京空襲でも下水道の被害はさほど大きなものではなかったことに対してその後の自然災害、即ち台風などによる被害は極めて深刻な事態をもたらし、因みに昭和24年の夏に襲ったキティ台風では都内の約5分の1が水浸しになると言う被害が生じた。これらのことから当地での水害対策が強化され、尾久幹線系統の町田ポンプ場等と共に藍染排水路も強化されたのであるが、この排水路は殆ど下水化している上、開渠であったために衛生上や交通、防災等に対して大きな障害となっていた。昭和7-8年ごろまでには新三河島駅前の上流部分が暗渠となったが、その工事は博善社前の下流を暗渠化した頃に勃発した支那事変によって工事が中断され、最終的な完成は昭和31年になってからであった。つまり、大正7年の排水路完成から実に40年以上経てから暗渠化したということになる。

この藍染川排水路は、実は現在の藍染川の本流となっているようだ。

実際、三河島下水処理場内に昭和39年4月に創設された藍染ポンプ場にて下水処理がされているが、同処理場に於ける下水幹線としては最大のものとなっている。これに対し、本流の藍染川の方は、下流である不忍池近辺に下水処理設備がないことなどを鑑みると、不忍池に注ぐのではなく下水管的な存在となってしまっていることが考えられる。


尚、この三河島下水処理場は、大正11年3月に竣工した処理場で、台東区荒川区の全部、文京区、豊島区の大部分、更に千代田区、新宿区、北区の一部から排出される汚水を、微生物を用いて汚物を沈殿させて上澄みを塩素殺菌するという化学処理を行った後で隅田川へ放流するという処理場である。汚泥は砂町水処理センターにて処理されている。また、藍染ポンプ場では、荒川区の一部の汚水や雨水、北区、文京区、豊島区および台東区の一部の汚水や雨水、また南千住や湯島ポンプ場から送られてくる汚水を吸揚し、雨水は隅田川へ放流し、汚水を三河島処理場に送っている。

 

 

 

  

 

 

 

 

   
写真は、三河島下水処理場で処理を行った後に隅田川に注ぐ、藍染川の最終地点である。左は京成電鉄千住大橋鉄橋から見た水門、右の写真は暗渠の道路上から見た水門だ。これがかつて「大ドブ」と呼ばれていた藍染排水路の最終到達地である。本稿は、この確認の派生として書かれたものだ。

こうして、幼い頃の記憶を辿るだけという脳内旅行とせずに、現在の状態も実際に確かめるという旅は、一応無事に終わった。
今後、この藍染川が後世に対してどのように伝えられていくのかは分からないが、本稿がなんらかの役に立てば幸いだ。

写真は東京都下水道局 2013年下水道カレンダーにあった藍染排水路の写真だそうだ。ずいぶん立派に作られている。機会があれば、ぜひ一度見てみたいものだと思う。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


前回に引き続き、今回は藍染川の流路を辿る。

藍染川の流路

水源を出た藍染川は、その後滝野川一丁目を経てゆっくりと霜降橋へと流れる。現在の都電荒川線の滝野川一丁目踏切の下を通る形だ。ただし、水源からこの滝野川一丁目辺りまでは川幅が小さいと思われることや、現在も水流があるか不明などの理由により、流路を見極めることは困難である。

滝野川一丁目辺りからは流路が確認し易くなる。滝野川一丁目から緩い坂を下って行くと、右手の交番の名称が滝野川「谷戸駐在所」であることに気付く。即ち、かつてここは谷戸川だったことが想像できる。

 

 

 

 

 

 

 

 
谷戸川は、霜降橋を過ぎて駒込駅北にある山手線陸橋の下を潜る。この付近では谷戸川は谷田川となる。写真がその陸橋だ。ここでは、「中里用水」と書かれている。   

 

 

 

 

 

 

 

 
尚、この陸橋の脇に、当時の谷田川を跨いだ橋の欄干と思しき建造物がある。暗渠工事の際に移動したものではないかと思われる。

 

 



 

 

 

 

その後、谷田川は現在の田端区民センター(平成26年9月現在、工事中)の前の道路の下を通り、田端駅と道坂下をつなぐ道路と直交する谷田橋交差点を通過し、北区から一時的に文京区と荒川区へ入り、ついで台東区と文京区の区境となる。

 

 

 

 

 

 
写真は、田端区民センター辺りの下水工事。ここには工事内容として「北区田端三丁目付近に於ける谷田川幹線管渠の再生再構築工事」と書いてあった。この写真が現在の暗渠と今後の暗渠の写真だ。谷田川通りの地下は四角く囲まれた暗渠であることが如実に表されている資料となる。 

 

 

 

 


この付近、つまり北区・文京区・荒川区・台東区の区境辺りからその名称を藍染川と変えるが、よみせ通り辺りまでを谷田川といい、道路名称は写真にある様に谷田川通りである。

 

 

  

 

 

 

 


谷田川は道灌山下付近で谷田川本流と排水路の2つに分岐する。谷田川は道灌山下と西日暮里駅をつなぐ道灌山通りを横断し、緩やかに蛇行している「よみせ通り」に入る。排水路については別途詳細に述べる。

現在の様に道路の両脇に家が建ち並んでいると、自分のいる場所の地形を把握し難いが、大まかに地形を表せば、次の図に示すように本郷台地と上野台地に挟まれて谷を形成し、ゆっくりと川下の不忍池方面へと繋がっている水系が理解できる。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

      
谷田川(藍染川)は台東区のよみせ通りを通り抜け、三崎坂(さんさきさか)と直交する。三崎坂との交差点には、枇杷橋という橋があったという。 

 

 

 


この「枇杷橋跡」と書かれた解説板の裏側には、

「文京と台東の区境の蛇行している道路は、現在暗渠となっている藍染川の流路である。新編武蔵風土記稿によれば、水源は染井のうち長池(現在の都営染井霊園の北側の低地)で、ここから西ヶ原村へ、さらに駒込村から根津谷に入る。不忍池から上野の山の三枚橋下(公園入り口のところ)で忍川となり、三味線掘から隅田川に注ぐ」

とある。ここでの記載によると、水源は長池となっている。

三崎坂を越えると、道は著しく蛇行を始める。地元では「へび道」と呼んでいるが、地元発行のパンフレットなどにも、へび道と記載されており、英文版のガイドにも「HEBIMICHI」と書かれている。

この付近だけ川が蛇行している理由は、高低差が少ないことと流路の土質によるものと推定できるが、土質については見ることは出来ない。この界隈では洪水が多く起きたとある。平たい土地で洪水が起きると、流路は簡単に変動する。自ずから流路は蛇行するわけだ。
道の蛇行は川が蛇行に伴う。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このへび道は全部で15の曲折をもち、現在の台東区と文京区の区境であり谷中と千駄木の境でもある。次の写真に、千駄木と谷中の住居表示が背中合わせであることが確認できる。
 
この付近については、夏目漱石の著書「三四郎」にも描写があるので、引用する。

谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通(かよ)っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。 

「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。 
「歩きます」 

二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路地のような所を十間ほど行き尽して、門の手前から板橋をこちら側へ渡り返して、しばらく川の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。 二人の足の下には小さな川が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒(せきれい)が一羽とまったくらいである。三四郎は水の中をながめていた。水が次第に濁ってくる。見ると川上で百姓が大根を洗っていた。美禰子の視線は遠くの向こうにある。向こうは広い畑で、畑の先が森で森の上が空になる。空の色がだんだん変ってくる。


ここで出てくる小川とは藍染川のことで、当時ののどかな景観が彷彿とされる。

へび道を通り抜けると、今度は直線的な道となる。この辺りはかつて根岸藍染町と呼ばれていたため、「藍染」と言う名前は近隣のマンションや駐車場に使用されている。

 

 

 

 

 

 
写真は藍染パーキングロットという駐車場の写真であるが、この塀の基礎はかなり古そうなものであり、暗渠になる前に作られたものかもしれない。暗渠の工事は、大正10年から始められたとされている。また、付近には丁子屋という染物屋がある。そこでの話しによると、最近まで数件あった染物屋が今はこの丁子屋のみとなってしまったとのことであった。 

 

 

 


その後、藍染川はほぼ直線的に流れ、言問通りにぶつかる。江戸時代の資料によると、藍染川はここで90度右へと折れる。その後不忍通りの手前を左折、つまり言問通りに出てからクランク状に流路を取っているとある。この流路は、不忍通り方面に向かって緩やかに傾斜している場所でもあるためと思われる。 

 

 

 

 

 


言問通りと不忍通りとの交差点にある赤札堂付近に、手取橋や紅葉橋と言う橋があったということが、文京ふるさと歴史館の資料に書かれている。

 

 

 

 

 

 

 

 
通説としては、その後藍染川は不忍池へと注ぐとなっているが、そうであれば東京電力花園変電所および上野動物園の下を通って不忍池へと続くことになるだろう。

 

 

  
 

 

 


この不忍池からは、忍川となって東京湾へと連絡するというが、不忍池から直接東京湾に注ぐのか、隅田川経由で東京湾に続いているのかは、更なる調査を行う必要がある。

また、藍染川は不忍池に注ぐのではなく、不忍池から流出する水と合流した後、不忍池を周回するようにして東京湾方面へと流れると記載された資料もある。

但し、森鴎外の「雁」には、次のような文章がある。

「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源(まつげん)や雁鍋(がんなべ)のある広小路、狭い賑やかな仲町(なかちょう)を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。しかし仲町を右に折れて、無縁坂から帰ることもある。 」

小説なので証拠とはならないが、「藍染川は不忍池に流れ込む」と書いてあることが確認できる。

縄文時代の頃には、不忍池一帯は上野台地と本郷台地に面する東京湾の入り江であった。その後海岸線の後退とともに入り江が取り残されて、紀元数世紀頃に池になった。明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なっていた。特に藍染川が注ぐ北側は、池の北側は今よりもかなり広かった。しかし1884年、共同競馬会社による競馬場の建設に伴い、埋め立てが行われてほぼ現在の形が出来上がった。 本稿では、この不忍池を藍染川の着地点としておく。

 

 

 

 

 


前述の様に、この藍染川には道灌山下付近で分水されて隅田川へと注ぐかつて「大ドブ」と呼ばれていた藍染排水路がある。

次回、この藍染川排水路について述べる。

 
現在、千葉県の幕張ではCEATECという展示会が開催されている。このCEATECは、主にデジタル家電を中心とする年一度の展示会で、各社の最新機器が一同に介するという展示会でもあり、各マスコミでも大いに報道される大規模な展示会だ。

その展示会の会場に出展しているJEITA(一般社団法人、電子情報技術産業協会)のブースにて、東京大学大学院情報理工学系研究科の廣瀬通孝教授のプレゼンテーションステージがあった。元々はVR(バーチャルリアリティ)研究の権威だが、今回の演題は「ポストTVを担うVR」というタイトル。


講演要旨は、

「わが国におけるTV放送が始まって約60年である。TVは今なお我々の生活の中において大きな存在感を有している。一方、VRに代表されるコンピュータをベースとしたインタラクティブな映像メディアは、その没入感においてTVをはるかに凌駕すると同時に、インタラクティブであるという点においても、次元を異にする。VRは、TVというコンピュータなき時代に誕生したメディアを超えることができるのだろうか。本講演では、VR技術のいまとこれからについて紹介する。」

というもの。

教授の年齢が小生と全く同じということもあり、何か特別な親近感も感じられたが、終始にこやかな口調での講演は大変分かりやすく、一時間の講演が極めて短く感じた。こういう教授の下で勉学できる学生は羨ましいと痛切した次第でもある。

論旨は、今後の映像機器はどう展開していくべきか、というひとつのアドバイスのプレゼンテーションだったのだが、小生、昨今のテレビ製品が「競合に負けないために新しく開発しちゃったもんだから、売らなくちゃならない」とか、「価格下落を防ぐために、新機能を開発した」とか、とにかく消費者が必ずしも望んではいない様々なハードウェア的機能が追加されて今日に至っているテレビ受像機、早い話、消費者不在のまま技術革新のみで製品化が進んでいるという現状に疑問を感じていたのだが、それに対するひとつの解として大変興味深い話だった。小生も、これまでそうしたテレビの新機能技術に携わってきたので、なおさらでもある。

現代は、少なくとも我国に於いては人口という母数が減少している上に若年層がテレビを見なくなっているという、

つまり、現代は「テレビを見る人口がどんどん減ってきている」という現状を無視できない状態にある。

人口問題はテレビメーカーに責任はないが、若年層のテレビ離れは、同じメーカーによるモバイル機器開発が大いに影響を与えているともいえよう。彼等が動画を見ないということでは決してない。手軽に動画を必要に応じて必要なだけ、いつでもどこでも見れる環境になってきているのだから、わざわざテレビの前に座る必要がなくなったということなのだ。

つまり、これまでテレビが出来なかったインタラクティブ性をモバイル機器が実現するようになったともいえよう。これは映像機器としてのひとつの解でもある。逆に言うと、茶の間やリビングの中央に設置されたテレビが出来るインタラクティブ性など、若年層には何の魅力もないということになるのだろう。

さて、この講演の中で興味深いアプローチのひとつに、

「心理学的効果」をテレビ技術に導入する

という提案だった。


面白い実験結果の紹介があった。それは、画面にマウスのポインタを表示しておいてマウスを横にずらしたときに、ある境を越えるとマウスポインタが画面上で停止するというプログラムになっていると、被験者はマウスが停止した時、マウスを持つ手に無意識に力が入るのだそうだ。つまり映像から得られた情報が行動に出るという結果を表しているという。

こういう例はたくさんあるとのことだったが、映像から得た情報によって心理的に行動へ影響を及ぼすということ、考えてみれば自然なことなのだが、VRの世界に於いて心理学的な分析結果のソフトウェア(コンテンツ)への反映は未解決な気がする。これは技術者によるハードウェアの開発よりも、プロデューサによるコンテンツ制作に問題があるのではないだろうか。

もちろん、高度な仕組みをリアルタイムで信号処理するハードウェア技術は大変重要ではあるが、解像度や画素応答性といった画像描写技術はその時の最新技術を使うとしても、それらを十分に活用できるソフトウェアとしてのコンテンツがどうも貧弱な気がするのだ。

今後、コンテンツ制作者は心理学を取り入れて消費者嗜好に沿ったコンテンツを制作すること、またハードウェア技術者はそのコンテンツをリアルタイム処理できる技術を開発することが必要であり、今、まさにそういったコラボレーションが必要な時期になっていると思う。

ところで、この講演の中で教授は

「日本は観光資源国だ」と語った。

なるほどと思う。

日本には天然資源がないから「ものつくり」に専念すべき云々というが、観光資源は山の様にある。考えてみれば他国、国によっては観光資源だけで成り立っている国もあるわけだから、この資源を活用しない手はない。しかも「ものつくり」能力には長けているわけだから、資源を活用するような「ものつくり」は、元手のかからない産業として成り立つ気がする。

教授が参考例として見せた一つの事例は、街角に立ってスマホなりタブレットをかざすと、カメラで捉えたチェックポイントをトリガーとしてその地点から見た古(いにしえ)の時代の景色が画面上に描画されるというバーチャルリアリティだった。これなど、既に映像機器はモバイル化しているという現状を鑑みれば、お茶の間で古い街角を眺めるよりも、よほどインパクトがありそうだ。

先日、このブログで今は暗渠化している藍染川を追った小旅行を紹介したが、もしもこういったアプリやコンテンツがあれば、そんな散歩も楽しいものになる、そんな気がした。

 


「ドブ川」
と云うと、なんとも言えない独特の秘密めいた響きがある。子供たちにとっては謎の地帯であり、大人たちにとってはあまり触れたくない部分でもあり、語られることが少ない場所の一つだろう。

むかし、小生が子供の頃には山手線に西日暮里という駅はなく、駅が出来たのは高校の時だった。

それに遡ること10数年前、現在の西日暮里駅付近には山手線の線路下を直交して北東方角、つまり町屋方面に流れる大きなドブ川(或いは溝川)があった。地元では、このドブ川のことを「大ドブ」と呼んでいた。

その後、この川は暗渠となってしまったために記憶は曖昧なのだが、川幅は少なくとも数メートル近くあったし、川底もかなり深かったような記憶がある。もちろん子供目線としての記憶、つまり自分の身長との比較なので相対値としてはかなりいい加減ではある。記憶をビデオに撮れれば、その時の光景をフルカラーで描写できる自信はあるのだが。

この川は文字通りドブ川だったので、生活排出物が流れる「開渠(かいきょ)な下水道」だった。いきおい、衛生上の問題や汚臭の問題などから早期に暗渠(あんきょ)となったのだろう。

ここへは故祖父との散歩でよく訪れた。1899年(明治32年)生まれだった祖父である。小生の実家からさほど離れた場所ではなかったのだが、片側2車線の道路を渡る必要があるため、大人と一緒でないと行けない(行ってはいけない)ところだったでもあった。この川についても地元では殆ど語られることはなく、暗渠になってからは尚のこと「知る人ぞ知るの川」となってしまった。

このドブ川について、今や遺跡として僅かに片鱗が見えるのは、西日暮里駅の東北側にある「さくら水産」の手前にある欄干らしい残骸だけだ。写真がその桜水産前にある欄干の「かけら」の様なものだ。それ以外に面影はない。
 

 

 

                                               


そこで、かねてより昔の記憶と現在の記録などを織り交ぜてまとめておきたいと思っていたのだが、今回、散策しながら写真に収めたのでここに記しておく。なんらかの手段にて残しておきたい。
 

もちろん役に立つかどうか問題ではない。残すと言うことだけの執念である。

 このドブ川の正式名称は、後述する藍染川の氾濫を防ぐバイパスである「藍染川排水路」が正式名称であり、西日暮里から町屋を通り、三河島にある東京都下水道局の水再生センターを経由して隅田川へと注ぎ込む川の名前だ。小生の記憶でも、山手線に直交する方向、遠ざかる方向へ流れていた記憶がある。
 

 

 

 

 


写真にある藍染西通りと藍染川通りはいずれも同じ藍染川排水路であり、川の名称は明治通りを隔てて西側が藍染西通り、東側が藍染川通りと変わる。荒川区によれば、藍染川通りは平成14年に、藍染川西通りは平成16年に、地元の要望で名付けられたものだそうだ。

 まず、この排水路を分岐する藍染川の本流について述べる。

    藍染川

藍染川は、巣鴨や王子辺りを水源とし、北区、荒川区、文京区および台東区を流れて上野不忍池に注ぎ込むと云われている川の名前で、大正12年に暗渠となり、現在は流域のすべてが暗渠となっている川のことである。

地域によって名称が異なり、藍染川という名称は台東区根津付近から不忍池までの名称で、田端付近では谷田川(やたがわ)、駒込付近では境川、更にその上流の西ヶ原から水源までは谷戸川と呼ばれていたという。

この川のすべての名称を列記すると、谷戸川、境川、谷田川、蜆川、蛍川そして藍染川というのがこの川の名称だ。写真は、明治39年当時の藍染川である。
 

 

 


 「あいぞめ」というと、愛染という艶かしい名前が頭に浮かぶ人も多いことだろう。根津にあった遊廓の遊女との関連で、「初めて会う」にかけて名付けられたという説もあるが、ここでの「あいぞめ」は藍染だ。なぜ藍染かというと、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたためという説が有力だ。

 森鴎外の「雁」に、「藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく」と云う一文があるが、ここで云う「お歯黒」が汚染による色なのか染料としての藍による色なのかは、今となっては知る術もない。

 藍染川は武蔵野台地の南西側にあって、谷を隔てて本郷・須鴨台と相対し、北西側は山手線に沿う高さ15mの急崖によって荒川沖積地と接する。台地表面の海抜高度は北部で22m、南部(日暮里駅西口付近)で19.5mであり、極僅かであるが南へ緩く下っている。表面の形態は平坦であって、南西斜面は緩やかに藍染川の谷に下る。谷の堆積物は細粒で量が少なく、低地への出口が閉塞されていたために湿地として長く残った。不忍池はその名残である。

 この藍染川の水源地に就いては、数多くの説がある。
 

「長池水源説」

最も有名な水源説は巣鴨の染井霊園にある長池であるという説で、当染井霊園の長池にある説明板によると、「長池から流れ出た水がほぼ東から東南方面へと流れ、駒込、田端、西日暮里、谷中を経て上野の不忍池へと注ぐ水系になっている」と書いてある。同様のことが、文京区にある「文京ふるさと歴史館」の友の会発行のパンフレットにも記載されている。

この長池は、古地図(安政3年、1856年の駒込村町一円之図)によれば、巣鴨の御薬園と藤堂家抱え屋敷にまたがる広大なもので、長さ158m、幅32mのかなり大きな池だったとのことであるが、明治42年や大正5年の地形図では水田と記載されていることに対し、大正10年には湿地となっている様に、明治末期には周辺の開発などによって湧水が減少して池が小さくなったため、大正時代初期~中期に埋め立てられたらしい。現在の染井霊園と、そこにある長池を記す。
 

  

 

 


染井霊園の長池を赤丸で示す。
 



また、近い説として、作図時期は僅か4年の差であるが、本郷通に面した妙義坂子育地蔵尊にある案内板には「水源地は江長庵御領地所である御葉園である」と、嘉永5年(1852年)の近吾堂蔵板「巣鴨・染井・王子邊図」に記載されている。これは前述の古地図(安政3年、1856年の駒込村町一円之図)の水源地説と一致する。但し、駒込村町一円之図によれば、御葉園は長池の一部であるとしているので、広義として「長池近辺」を水源として括ることが可能だろう。

 

 

 

                                               


一方、同じ巣鴨にある東京都中央卸売市場豊島市場が水源であり、そこから先に述べた染井霊園を通って駒込、田端へと流れたと言う説もある。下の地図に赤丸で示した土地である。
 

 

 

 


更に、最源流は古地図(安政3年、1856年の駒込村町一円之図)や嘉永5年(1852年)の近吾堂蔵板による「巣鴨・染井・王子邊図」に書かれている南側台地の巣鴨御薬園跡地裏手斜面の湧き水と、西側台地の下瀬火薬製造所(元東京外語大)東側台地の染井墓地に降った雨水や湧き水など、幾つかの水源が藍染川の水源であるという総合説もある。

いずれにせよ谷戸川水源周辺には森や池や沼が点在していたとあるので、水源は一箇所だけではなく、長池も含めた幾つかの水源の湧水が集まって川となったものと考えられ、巨視的に見れば染井霊園の長池周辺となるために、ここでは「長池水源説」としておく。

地形的にも標高では、後ほど述べる流路を併せると染井霊園(14㍍)霜降橋(13㍍)駒込駅北ガード(11㍍)谷田橋(9㍍)千駄木・枇杷橋(6㍍)不忍池(5㍍)となる。
 

なぜ長池周辺が水源となったか。
 

2万年前の最終氷期極相期という寒冷期に、富士箱根火山で大規模な火山活動があり、多くの火山灰が関東地方へ降り注いだ。この火山灰がいわゆる関東ローム層となった。関東ローム層は台地からの地下水涵養に大きな役割があり、浸透量は多くの場合に降雨強度よりも大きく、極めて水はけの良い土質を持つ。一方、この関東ローム層の下位には滞水性の高い武蔵野礫層(6~12万年前)が卓越し、台地の突端部に於いては水圧が開放されるがために湧水として地上に湧き出てくる。長池近辺は台地の終端であると同時に台地に囲まれているため、湧水が出る条件が揃っている。これが長池辺りの湧水であるという長池説の骨子となっている。
 

 「石神井川水源説」

これに対し、藍染川は石神井川が源流だという説がある。

つて石神井川は現在の様に墨田川に流れていたのではなく不忍池に流れていたものであり、即ち石神井川の下流部分は谷田川(藍染川)そのものだったのだが、流路変更が生じて藍染川への給水が縮小、若しくは停止し、隅田川へと注ぎ込むようになったと言う説である。この流路変更については、縄文時代以前に遡る必要がある。
 

1213万年前の新生代第四期更新世中期の最終間氷期(温暖期)の下末吉海進最盛期、東京湾の海面は現在より5m程度高く、千葉県の殆ど全域と東京および埼玉県の南部はこの海進によって水没しており、付近には古東京湾という湾入部ができた。このため、関東近辺には南からの黒潮(暖流)に、北方からの親潮(寒流)が混じっていた。王子付近で見られる貝の化石に暖流系と寒流系の両方の貝化石が見つかるのはそのためである。この時代を示す地層を東京層と呼ぶが、石神井川の岸辺などで観察されている。

 61万年前の新生代第四期更新世後期は、最終氷期と呼ばれる寒冷期となり、2万年前の海面は現在よりも数100m以上低かった。これに伴い武蔵野台地の崖際は現在よりも500m程度東まで延びていた。

また、2万年前ごろには、前述の富士火山活動が起き、大量の火山灰が降り注いで関東ロームを形成している。

その後、1万年前以降の新生代第四期完新世は温暖期となり、陸地となっていた低地は再び水没する。この温暖化は6000年前がピークであるが、このときの海進を縄文海進、または有楽町海進と呼んでいる。

この有楽町海進のころには、赤羽から田端・上野に至る武蔵野台地の崖際は波によって浸食されて現在の位置まで後退し、この奥東京湾は王子付近まで接近していた。

当時石神井川は武蔵野台地を東西に流れ、王子から先は武蔵野台地と上野台地の間に形成された南東に延びる低地を通って不忍池方面へと流れていたのだが、有楽町海進時期に海面は数m上昇し、台地の崖際が急速に後退した結果、石神井川は王子付近で崖端侵食を引き起こして、それまで不忍池経由にて東京湾に注いでいた流路を現在の隅田川方面へと変えた。

この様に、外的理由にて河川流路が突然変わることを河川争奪という。

河川争奪を図式化すると次の様になる(北区飛鳥山博物館)。
 

  

 

 


これが石神井川水源説である。ただし、これは縄文時代の事件であるので、その後の石神井川水源説と区別するために、「前期石神井川水源説」としておく。
 

 

 

 

  

 


この結果、谷田川の水源は石神井川ではなくなり、長池周辺の湧水が水源地となったというわけだ。

一方、昭和初期の水源について、現地にて戦前から住んでいる人へのヒアリングを行った結果では、「藍染川がまだ開渠だった当時、川の水は石神井川から来ていた」と語っている。記憶違いについて調べてみたが、「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) 王子(部分)」等の資料で確認すると、谷田川の暗渠化は昭和の始め頃(昭和6年完成?)で、上流ほど工事が後だった様なので、開渠だった時期に見たという記憶は正しい可能性が高い。つまり、昭和のはじめ頃には石神井川が水源だったということになる。この説を「後期石神井川水源説」としておく。

これらを整理すると次の様になるが、ひとつの仮説を取り入れれば矛盾はない。
 

1.  かつて藍染川の水源は石神井川だった

2.  6000年前に起きた有楽町海進によって崖端侵食が生じ、河川争奪が起きて石神井川の流路が変更された

3.  石神井川流路変更に伴い、藍染川の水源は長池周辺の湧水となった

4.  長池周辺の湧水が水源である状況は江戸時代末期まで続いたが、開墾によって水源が枯渇し、長池は埋め立てられた

5.  一方、藍染川は現代で言うところの一級河川でもあったため、水源を必要としたので石神井川へ水源を求めた(ここが仮説である)

6.  以降、水源は再び石神井川となった

7.  その後、藍染川は暗渠化され、今日に至る

ここで石神井川を水源とした工事を考えてみる。

現在、水源付近は都市化が進んでいる上、そもそも水を供給しているかどうかも定かではない状態なので、水源を特定することは困難だが、石神井川を水源とするならば、地理的に見てだいたい「音無さくら緑地」辺りが水源ではないかと推察できる。この音無さくら緑地は旧石神井川の流域で、かつては大きく蛇行していた跡だ。

現代と1954年ごろを比較する。

 

 

 


            今昔マップより


この辺りから分水していたのか、そもそもそこから谷戸川として流れていったのかは不明だが、蛇行の途中から地中へと消える水路は現存している。但し石神井川の本流をこの旧路から変更しているので、旧路自体の水量は極めて少ないだろう。
 

  

 

 

 


以下、「藍染川の流路」へ続く。

 

 

動物たち、特に昆虫の様な小動物の運動能力を評価する時、良く用いられる方法として人間のサイズに換算して評価することがあるが、適切な方法で換算しないと本質を見誤る。というか、根本的なところで人間に換算すること自体にあまり意味はない。

数字に換算して比較すると一見科学的に見えるのだが、単に数字だけの世界な場合がある。

子供のころ、ノミの脚力を評価する例えとして、彼等は体の大きさの約200倍も飛べるので「人間でいえば、一っ飛びで東京タワーを飛び越えるだけの脚力がある」と教わった。これは、ノミの体のサイズと飛ぶ高さの比率を人間の身長に換算すると、飛ぶ高さは約340mとなるという「数字上の比較」の結果だ。だから「ノミは東京タワー並みの高さを飛べる」という表現となる。計算的には間違いではない。ゴキブリの走る速度なども、「人間に換算すると新幹線並みの速度で走っている」といわれる。こういった評価方法の例は枚挙に暇がない。驚くべき昆虫たちの運動能力であることは確かなのだが、しかし、そこでこの比較方法を考えてみる。

我々人類の場合、運動を支配している自然の力は引力や慣性力などであるが、昆虫たちは蚊やハエが鋭角に飛べることや風に乗っていつまでも泳いでいる蝶などを見て分かる通り、引力や慣性力は殆ど影響はなく、人類にはあまり影響のない空気抵抗による摩擦や粘着力、あるいは静電気、表面張力といった物理要素が彼等には大きく関わっているのだ。

写真はアカタテハが逆さに留まっているところだ。いったい何を好き好んで逆さになっているのか聞いてみたいものだが、少なくとも人間のように頭に血が上るといったことはないのだろう。

アリは、どんなに高いところから地面に落ちても体に受けるダメージは全くない。その理由は、質量が小さいために引力の影響を受けないからなのだ。言われてみれば当たり前のことなのだ。

これを人間に換算して比較する場合には、万有引力の法則に則って質量(体重ではない)を考慮し、更に人類には殆ど影響のない空気抵抗や空気の動きといった様々な物理量を十分に勘案してから評価すべききとなる。

スカイツリーのてっぺんからアリが落ちた場合、もしも風が吹いていたら、まっすぐに落ちることはないだろう。もしも地上付近で上昇気流が発生していたら、そのアリは落ちるどころか落ちている最中に浮上するかもしれない。

この様に、

昆虫たちが支配される物理現象は、我々人類とは異なることを理解しておく必要がある。

転じて、昆虫たちの生活史も同様だ。人類の尺度で彼を見ると本質を見誤る。


「それだ!」 

いつだったかテレビを見ていたら、「便秘のときには、かかとを上げると排便しやすくなる」と言っているのを見て、はたとひざを打ったニュートンの古典力学が示唆する通りなのだ

小生、単身で米国出張に行くことが多いのだが、時差ぼけには強いくせに便秘になることがよくある。その原因は食事の内容だと思い、Safewayなどのスーパーに行ってヨーグルトを調達し、ホテルの朝食で毎朝用意されているヨープレット以外にも摂るようにしたり、意図的に繊維質のものを食べるようにと心がけてはいたが、何れも根本的な解決にはなっていなかった。なぜ便秘になるのか、よく分かっていなかった。

しかし、「かかとを上げる」ということで理解できた。

左の図(1)は、便器に座っている通常の排便姿勢だ。このとき、大腿骨は図1の様におおむね水平となっている。即ち肛門にかかる力は(1)に示す「いきみ力」と体の胴体部および頭部の合計質量と地球引力との合成ベクトル量だけとなる。

もちろん、ここでの引力はいきみ力と比べるとはるかに小さいものであるから、大きな要素ではない。早い話、たとえ逆立ちしていても、いきむだけでウンコはできるはずだ(やったことないからわからないが)。但し、微妙とはいえ力学的には関与するので一応記載しておくことにする。

さて、ここで踵を上げる(図2)。するとこの図でいうと膝が上に上がるため、地球の引力によって大腿骨の右側に力が加わる。よって、肛門にかかる力は(2)+(3)、および引力との合成ベクトル量となる。これにより、図1の姿勢と比較して少ない「いきみ」で効率の良い力が肛門に働く。

更なる相乗効果としては、踵を上げると重心を保とうとすることにより上体は垂直となる。即ち肛門に対して更に鉛直方向の力が加わる(4)+(5)。(5)と引力は鉛直方向に同位相であるため、これらの合成ベクトルは位相差を持つ力の合力ベクトルでなく、単純に加算された値となる。

これらのことから、踵をあげることにより排便時のエネルギー伝達効率は大幅に改善される。

そこで思い出したことは、米国のホテルの便座の高さは彼等の平均身長、足の長さを慮って、日本の便座よりも位置が高いということだ。

翻っていれば、小生にとって、便秘の原因はそこにあると思う。つまり当初の段階から図4の様に肛門にかかる力は(2)の力であり、この力は図1の(1)よりも小さな値となっていたのだ。

であれば、便器の高さが高いときには踵をあげればよい。 或いは、便器の足元に足を置く台を用意することによって、便秘は飛躍的に改善すると思う。

このように、人間の普通的な生活に於ける問題点は、古典力学で解決できることが多いかもしれない。