「ドブ川」
と云うと、なんとも言えない独特の秘密めいた響きがある。子供たちにとっては謎の地帯であり、大人たちにとってはあまり触れたくない部分でもあり、語られることが少ない場所の一つだろう。
むかし、小生が子供の頃には山手線に西日暮里という駅はなく、駅が出来たのは高校の時だった。
それに遡ること10 数年前、現在の西日暮里駅付近には山手線の線路下を直交して北東方角、つまり町屋方面に流れる大きなドブ川(或いは溝川)があった。地元では、このドブ川のことを「大ドブ」と呼んでいた。
その後、この川は暗渠となってしまったために記憶は曖昧なのだが、川幅は少なくとも数メートル近くあったし、川底もかなり深かったような記憶がある。もちろん子供目線としての記憶、つまり自分の身長との比較なので相対値としてはかなりいい加減ではある。記憶をビデオに撮れれば、その時の光景をフルカラーで描写できる自信はあるのだが。
この川は文字通りドブ川だったので、生活排出物が流れる「開渠(かいきょ)な下水道」だった。いきおい、衛生上の問題や汚臭の問題などから早期に暗渠(あんきょ)となったのだろう。
ここへは故祖父との散歩でよく訪れた。1899年(明治 32 年)生まれだった祖父である。小生の実家からさほど離れた場所ではなかったのだが、片側 2 車線の道路を渡る必要があるため、大人と一緒でないと行けない(行ってはいけない)ところだったでもあった。この川についても地元では殆ど語られることはなく、暗渠になってからは尚のこと「知る人ぞ知るの川」となってしまった。
このドブ川について、今や遺跡として僅かに片鱗が見えるのは、西日暮里駅の東北側にある「さくら水産」の手前にある欄干らしい残骸だけだ。写真がその桜水産前にある欄干の「かけら」の様なものだ。それ以外に面影はない。
そこで、かねてより昔の記憶と現在の記録などを織り交ぜてまとめておきたいと思っていたのだが、今回、散策しながら写真に収めたのでここに記しておく。なんらかの手段にて残しておきたい。
もちろん役に立つかどうか問題ではない。残すと言うことだけの執念である。
このドブ川の正式名称は、後述する藍染川の氾濫を防ぐバイパスである「藍染川排水路」が正式名称であり、西日暮里から町屋を通り、三河島にある東京都下水道局の水再生センターを経由して隅田川へと注ぎ込む川の名前だ。小生の記憶でも、山手線に直交する方向、遠ざかる方向へ流れていた記憶がある。
写真にある藍染西通りと藍染川通りはいずれも同じ藍染川排水路であり、川の名称は明治通りを隔てて西側が藍染西通り、東側が藍染川通りと変わる。荒川区によれば、藍染川通りは平成14年に、藍染川西通りは平成16年に、地元の要望で名付けられたものだそうだ。
まず、この排水路を分岐する藍染川の本流について述べる。
■ 藍染川
藍染川は、巣鴨や王子辺りを水源とし、北区、荒川区、文京区および台東区を流れて上野不忍池に注ぎ込むと云われている川の名前で、大正 12 年に暗渠となり、現在は流域のすべてが暗渠となっている川のことである。
地域によって名称が異なり、藍染川という名称は台東区根津付近から不忍池までの名称で、田端付近では谷田川(やたがわ)、駒込付近では境川、更にその上流の西ヶ原から水源までは谷戸川と呼ばれていたという。
この川のすべての名称を列記すると、谷戸川、境川、谷田川、蜆川、蛍川そして藍染川 というのがこの川の名称だ。写真は、明治39 年当時の藍染川である。
「あいぞめ」というと、愛染という艶かしい名前が頭に浮かぶ人も多いことだろう。根津にあった遊廓の遊女との関連で、「初めて会う」にかけて名付けられたという説もあるが、ここでの「あいぞめ」は藍染だ。なぜ藍染かというと、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたためという説が有力だ。
森鴎外の「雁」に、「藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく」と云う一文があるが、ここで云う「お歯黒」が汚染による色なのか染料としての藍による色なのかは、今となっては知る術もない。
藍染川は武蔵野台地の南西側にあって、谷を隔てて本郷・須鴨台と相対し、北西側は山手線に沿う高さ 15m の急崖によって荒川沖積地と接する。台地表面の海抜高度は北部で 22m 、南部(日暮里駅西口付近)で 19.5m であり、極僅かであるが南へ緩く下っている。表面の形態は平坦であって、南西斜面は緩やかに藍染川の谷に下る。谷の堆積物は細粒で量が少なく、低地への出口が閉塞されていたために湿地として長く残った。不忍池はその名残である。
この藍染川の水源地に就いては、数多くの説がある。
「長池水源説」
最も有名な水源説は巣鴨の染井霊園にある長池であるという説で、当染井霊園の長池にある説明板によると、「長池から流れ出た水がほぼ東から東南方面へと流れ、駒込、田端、西日暮里、谷中を経て上野の不忍池へと注ぐ水系になっている」と書いてある。同様のことが、文京区にある「文京ふるさと歴史館」の友の会発行のパンフレットにも記載されている。
この長池は、古地図(安政 3 年、 1856 年の駒込村町一円之図)によれば、巣鴨の御薬園と藤堂家抱え屋敷にまたがる広大なもので、長さ 158m 、幅 32m のかなり大きな池だったとのことであるが、明治 42 年や大正 5 年の地形図では水田と記載されていることに対し、大正 10 年には湿地となっている様に、明治末期には周辺の開発などによって湧水が減少して池が小さくなったため、大正時代初期~中期に埋め立てられたらしい。 現在の染井霊園と、そこにある長池を記す。
染井霊園の長池を赤丸で示す。
また、近い説として、作図時期は僅か 4 年の差であるが、本郷通に面した妙義坂子育地蔵尊にある案内板には「水源地は江長庵御領地所である御葉園である」と、嘉永 5 年( 1852 年)の近吾堂蔵板「巣鴨・染井・王子邊図」に記載されている。これは前述の古地図(安政 3 年、 1856 年の駒込村町一円之図)の水源地説と一致する。 但し、駒込村町一円之図によれば、御葉園は長池の一部であるとしているので、広義として「長池近辺」を水源として括ることが可能だろう。
一方、同じ巣鴨にある東京都中央卸売市場豊島市場が水源であり、そこから先に述べた染井霊園を通って駒込、田端へと流れたと言う説もある。下の地図に赤丸で示した土地である。
更に、最源流は古地図(安政3 年、1856 年の駒込村町一円之図)や嘉永5 年(1852 年)の近吾堂蔵板による「巣鴨・染井・王子邊図」に書かれている南側台地の巣鴨御薬園跡地裏手斜面の湧き水と、西側台地の下瀬火薬製造所(元東京外語大)東側台地の染井墓地に降った雨水や湧き水など、幾つかの水源が藍染川の水源であるという総合説もある。
いずれにせよ谷戸川水源周辺には森や池や沼が点在していたとあるので、水源は一箇所だけではなく、長池も含めた幾つかの水源の湧水が集まって川となったものと考えられ、巨視的に見れば染井霊園の長池周辺となるために、ここでは「長池水源説」としておく。
地形的にも標高では、後ほど述べる流路を併せると染井霊園( 14 ㍍) → 霜降橋( 13 ㍍) → 駒込駅北ガード( 11 ㍍) → 谷田橋( 9 ㍍) → 千駄木・枇杷橋( 6 ㍍) → 不忍池( 5 ㍍)となる。
なぜ長池周辺が水源となったか。
約 2 万年前の最終氷期極相期という寒冷期に、富士箱根火山で大規模な火山活動があり、多くの火山灰が関東地方へ降り注いだ。この火山灰がいわゆる関東ローム層となった。関東ローム層は台地からの地下水涵養に大きな役割があり、浸透量は多くの場合に降雨強度よりも大きく、極めて水はけの良い土質を持つ。一方、この関東ローム層の下位には滞水性の高い武蔵野礫層(6~ 12 万年前)が卓越し、台地の突端部に於いては水圧が開放されるがために湧水として地上に湧き出てくる。長池近辺は台地の終端であると同時に台地に囲まれているため、湧水が出る条件が揃っている。これが長池辺りの湧水であるという長池説の骨子となっている。
「石神井川水源説」
これに対し、藍染川は石神井川が源流だという説がある。
か つて石神井川は現在の様に墨田川に流れていたのではなく不忍池に流れていたものであり、即ち石神井川の下流部分は谷田川(藍染川)そのものだったのだが、流路変更が生じて藍染川への給水が縮小、若しくは停止し、隅田川へと注ぎ込むようになったと言う説である。この流路変更については、縄文時代以前に遡る必要がある。
12 ~ 13 万年前の新生代第四期更新世中期の最終間氷期(温暖期) の下末吉海進最盛期、東京湾の海面は現在より5m 程度高く、千葉県の殆ど全域と東京および埼玉県の南部はこの海進によって水没しており、付近には古東京湾という湾入部ができた。このため、関東近辺には南からの黒潮(暖流)に、北方からの親潮(寒流)が混じっていた。王子付近で見られる貝の化石に暖流系と寒流系の両方の貝化石が見つかるのはそのためである。この時代を示す地層を東京層と呼ぶが、石神井川の岸辺などで観察されている。
6 ~ 1 万年前の新生代第四期更新世後期 は、最終氷期と呼ばれる寒冷期となり、2 万年前の海面は現在よりも数 100m 以上低かった。これに伴い武蔵野台地の崖際は現在よりも 500m 程度東まで延びていた。
また、2 万年前 ごろには、前述の富士火山活動が起き、大量の火山灰が降り注いで関東ロームを形成している。
その後、 1 万年前以降の新生代第四期完新世は温暖期となり、陸地となっていた低地は再び水没する。この温暖化は 6000 年前がピークであるが、 このときの海進を縄文海進、または有楽町海進と呼んでいる。
この有楽町海進のころには、赤羽から田端・上野に至る武蔵野台地の崖際は波によって浸食されて現在の位置まで後退し、この奥東京湾は王子付近まで接近していた。
当時石神井川は武蔵野台地を東西に流れ、王子から先は武蔵野台地と上野台地の間に形成された南東に延びる低地を通って不忍池方面へと流れていたのだが、有楽町海進時期に海面は数 m 上昇し、台地の崖際が急速に後退した結果、石神井川は王子付近で崖端侵食を引き起こして、それまで不忍池経由にて東京湾に注いでいた流路を現在の隅田川方面へと変えた。
この様に、外的理由にて河川流路が突然変わることを河川争奪という。
河川争奪を図式化すると次の様になる(北区飛鳥山博物館)。
これが石神井川水源説である。ただし、これは縄文時代の事件であるので、その後の石神井川水源説と区別するために、「前期石神井川水源説 」としておく。
この結果、谷田川の水源は石神井川ではなくなり、長池周辺の湧水が水源地となったというわけだ。
一方、昭和初期の水源について、現地にて戦前から住んでいる人へのヒアリングを行った結果では、「藍染川がまだ開渠だった当時、川の水は石神井川から来ていた」と語っている。記憶違いについて調べてみたが、「陸地測量部発行の 1/10000 地形図(昭和12年第四回修正) 王子(部分)」等の資料で確認すると、谷田川の暗渠化は昭和の始め頃(昭和 6 年完成?)で、上流ほど工事が後だった様なので、開渠だった時期に見たという記憶は正しい可能性が高い。つまり、昭和のはじめ頃には石神井川が水源だったということになる。この説を「後期石神井川水源説」 としておく。
これらを整理すると次の様になるが、ひとつの仮説を取り入れれば矛盾はない。
1. かつて藍染川の水源は石神井川だった
2. 約6000 年前に起きた有楽町海進によって崖端侵食が生じ、河川争奪が起きて石神井川の流路が変更された
3. 石神井川流路変更に伴い、藍染川の水源は長池周辺の湧水となった
4. 長池周辺の湧水が水源である状況は江戸時代末期まで続いたが、開墾によって水源が枯渇し、長池は埋め立てられた
5. 一方、藍染川は現代で言うところの一級河川でもあったため、水源を必要としたので石神井川へ水源を求めた(ここが仮説である)
6. 以降、水源は再び石神井川となった
7. その後、藍染川は暗渠化され、今日に至る
ここで石神井川を水源とした工事を考えてみる。
現在、水源付近は都市化が進んでいる上、そもそも水を供給しているかどうかも定かではない状態なので、水源を特定することは困難だが、石神井川を水源とするならば、地理的に見てだいたい「音無さくら緑地」辺りが水源ではないかと推察できる。この音無さくら緑地は旧石神井川の流域で、かつては大きく蛇行していた跡だ。
現代と1954 年ごろを比較する。
今昔マップより
この辺りから分水していたのか、そもそもそこから谷戸川として流れていったのかは不明だが、蛇行の途中から地中へと消える水路は現存している。但し石神井川の本流をこの旧路から変更しているので、旧路自体の水量は極めて少ないだろう。
以下、「藍染川の流路」へ続く。