プロムナード -26ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま


東京には「谷」と付く地名がたくさんある。四谷、市ヶ谷、千駄ヶ谷をはじめ、雑司ヶ谷、下谷、或いは小生の実家の近くには谷中という地名もあるし、くだんの渋谷もそうだ。これらの名称は恐らく地形から付いた名前だと推測できる。つまり、周りの土地に対して低い位置にあるためにそういった地名がついたのだろう。


因みに東京には荒川や江戸川、多摩川といった著名な川以外にも川はたくさん流れている。これらは殆どが暗渠となっているために目に入らないだけで、実は多くの川が存在しているのだ。東京の位置を地形的に見ると、東京は武蔵野台地の周縁に位置するし、東京都内の領域は関東平野の一角であるため、日本列島的に言えば平坦な土地なので台地に降った雨水が地下に浸透した後、東京近郊で染み出し、平坦な土地の上を縦横無尽に流れてもおかしくないわけだ。流れるところが平らに近ければ近いほど、その流れ方はカオス的である。

そんな中から、今回は渋谷にある渋谷川を散策してみることにした。

  宮益橋から下流をみたところ


渋谷川は渋谷駅に程近いところにある。センター街などのある繁華な街角とは対側にあるため、知らない人もたくさんいるかもしれないが、渋谷川にかかっている宮益橋という橋から渋谷駅のホームが見える。

なお、この橋の上流は暗渠となっており遡上は不可能。即ちこの宮益橋が渋谷川の最初の橋となる。

なので、以降、下流に向かって歩くことにした。

写真の様に、川の水の色は赤褐色である。地質学的に言うと、この地域には伊豆、富士辺りの火山活動による火山灰が降下した火山灰質(凝灰質)の渋谷粘土層がある。この上を関東ローム層(第四紀更新世の火山灰層)が覆う。渋谷粘土層は粘土層であるために雨水などの土壌への浸透が妨げられ、行き場の無い水は地上に流れ出る。そのひとつが渋谷川だ。

赤く見えるのは酸素と結合して酸化鉄になっているため。つまり、この川が赤褐色なのは渋谷粘土層を覆う関東ローム層が鉄分を多く含有するからなのだ。因みに渋谷の井戸から検出される鉄分(つまり、関東ロームの主要構成成分)は他の地域の数十倍に及ぶという。

図で言えば、赤の部分が渋谷粘土層となる。

出典:東京地質コンサルタント



この図によると、現在の渋谷川の水源は新宿の上落合にある落合水再生センターで処理された再生水らしい。それが地下暗渠として山手線に沿いながら南下し、渋谷駅辺りで渋谷川として開渠になるというわけだ。

川沿いに歩くと、東京電力の渋谷変電所という地下に造られた配電変電所横を通り、流路を東へと進める。


         天現寺橋


その後、渋谷川は小さな蛇行を繰り返しながら少しずつ川幅を広げ、天現寺にて「古川」と川名を変えて進む。この辺りになると、川は首都高速道路の下を流れるようになるのだが、いや、川の上に高速道路が建設されたと言うべきか、とにかくこの辺りまでは、ほぼ明治通沿いとなる。古川は渋谷川という名前に変わるこの辺りまでマンションや雑居ビルの間を縫う様にして流れているのだが、こんな一等地で開渠のままというのは珍しい気がする。


          古川


麻布十番までくると古川は突如として流路が90度変わり、東へと流れていく。この辺りで東京タワーが見えてくる。浜松町が近いということだ。




かつてこの辺りはこんなだったらしい。

川幅は更に広くなり、将監橋まで来れば釣り船が停泊しているのが見える。


更に下ると、大きな船も停泊しているのが見えてくる。屋形船だ。


かつて、神田川はとんでもなく汚れた川だった。小生の記憶では、昭和40年代に於ける万世橋辺りの腐敗臭気は数ブロック離れた秋葉原駅まで漂っていた。川底からはメタンガスがボコボコと噴出し、殆ど死の世界だった。無理も無い。水源こそ井の頭公園であれ、生活排水垂れ流しだったのだから。目黒川も同じようなものだった。あの臭いの根源は生活排水に含まれる硫化物臭だ。この渋谷川こそ当時実際に見たわけではないが、およそ想像は付く。

その後、行政や地域住民たちの努力の結果、神田川は鯉が棲息するまで水質が改善した。渋谷川は川底が低いせいか鯉は見当たらなかったが、水質は改善されていると思う。因みに渋谷川にあった元々の水源は、現在までにすべて下水化させ、渋谷川への流入をなくしたそうだ。従って生活排水の流入は封鎖されたということになる。

閑話休題

屋形船が見えてくる辺りになると、川幅は広くなり、河口の予感がしてくる。やがて程なく橋の上を山手線や新幹線が通るのが見える。浜松町だ。これらの線路の下を通る小さな道が写真。


これを抜け、東芝ビルや東京ガスのビルを見上げながら行くと、行く手に海が見えてくる。浜崎橋、新浜崎橋を経れば、橋の欄干に
集うカモメたちを見る東京港だ。遠くに台場の観覧車が見える。右手は日の出桟橋。潮の香りが漂う。


渋谷を出てほんの10数キロ程度の道のりだが、ここまで到達すると何か達成感を感じる。行程上で寄り道するところもあまりないし、水の流れは不可逆なので道を誤ってぐるぐる回ってしまうことも無く、散歩には良いコースだと思う。


さて次はどの川を辿ってみようかと、思案中。

8月下旬から突如気温が下がり、これまで元気いっぱい合唱していたセミたちはこの気温下降に伴って一斉に鳴き止み、昼間が静かになった。まして夜になっても鳴く様な子たちは全くいない。


さて、このセミについてだが、彼等の鳴き声の大きさや鳴き方と外気温との因果関係については小中学生の夏休み自由研究テーマとして定番となっているし、学術的にも多くのデータを基に大体解明されている様だ。

セミに限らず昆虫の場合は人類の様な気まぐれと云った行動をとることはないので(と思われるので)、環境としての大気、即ち気温や気圧などの物理量と活動パターンとの関係との間にはほぼリニアリティ「直線性」があり、いきおい、簡単な方程式で表すことができると思う。最近よく話題となる「夜になっても鳴くセミ」の行動も、気温との相関で説明がつく。

ところで、セミというと幼虫期間が少なくとも3年以上、アブラゼミは6年、更に北米の17年ゼミの場合は17年と長いにも拘らず、成虫となって地上に現れてからはほんの数週間で死んでしまうことから短命で哀れな虫と言われ、古今東西老若男女問わず、セミの生活史をセンチメントな目で見ることが多いだろう。

しかし、それは飽くまでも人間の生活史を基準として彼等の生涯を写像してみた結果であって、生涯史を彼等の立場で考えないと見誤る。

そもそもセミは短命ではなく、幼年期の数年を鑑みれば、昆虫としては異例な長寿命なのだ。

早い話、セミという昆虫は「地中に棲む昆虫だ」と考えればよい。そもそも、幼虫とか成虫とか云う名称は人間が勝手に名づけただけで、成虫と言う期間が2週間程度だとすると、生涯を7年と仮定した場合、この2週間は(2/(7*51))*100(%)=0.5%であり、あえて人間の一生に換算すれば(これは別の機会に記すが、決して良い換算ではない)、一生のうちの1ヶ月にも満たない。人間の場合、成人について「死ぬ直前の1ヶ月を以って成人と云う」とは言わないだろう。

彼等が地上に出てくる理由は何なのか。

それは、「種の存続」という使命を全うすべく交尾相手を探すためには、地中と言う環境はあまりにも弊害が多すぎるからだろう。光の無い地中で、しかもミミズの様な環形動物とは異り、細長い体型ではないことも含め地中を移動するには相当に難儀なはすだ。その様な環境下で交尾相手を探すということは、きわめて困難であることが推察される。

そこで彼等は地上へ出て相手を探す作戦を考えついた。しかも空中を飛ぶことができれば縦横無尽に移動することができ、視覚センサーを用いて相手を探し出すことが可能となる。また、地中では使用できなかった音声によるアピールも可能だ。

これらのことから、セミは生殖行動を的確に、しかも短期間で成就させるべく地上へ出る作戦を選んだ。

しかし、地上は彼等にとって楽園ではない。クモ、カマキリ、鳥類などの天敵がいる。なかにはモンスズメバチの様にセミの成虫を主要な獲物としている天敵もいるし、自然環境としても地中に比べて様々な変化もあり、できることならさっさとミッションをクリアし終えたい。それがセミたちの本音だろうと思う。

つまり、セミにとって、地上は楽園ではないと考えることが可能なのだ。

目を人間社会に転じてみる。

人間同士の場合、相手の立場を理解すると言うことは極めて大切なことだ。それは人間以外の動植物に対しても基本的には同じ。
しかし、自分の尺度をそのまま相手に適応すると誤解してしまう危険がある。


最近、火力発電の効率改善策が話題となっている。電力生成側が高効率で稼動することは、良い事だと思う。

一方、消費側としての対応はどうか?消費者が四六時中、それを意識するということは現時的ではないから、自動的に(知らない間に)効率が改善されているというものと世代交代させることが出来れば、消費量の低減は可能だろう。

太陽電池ビジネスは、大きく三つのカテゴリに分別される。

1.Residential Market 住宅用

2.Commercial Market 商業用

3.Utility Market メガソーラー(米国ではソーラーファーム)

写真はメガソーラーと言われるソーラーファーム

ところで米国では伸びているマイクロインバータ、日本ではあまり聞かない。まとめておこう。

マイクロインバータは、各太陽電池パネルに1台ずつインバータを持たせる分散型発電装置であるため、各パネルから発生するAC電力をそのまま100Vや200Vの系統に連系させるので、セントラルインバータは必要なくなるというのが最大の売りだ。そこでのメリットは、セントラルインバータコストが削減できることにある。また、電力を分散して生成するため故障の発生確率も分散化され、セントラルインバータの様に、1台の故障で発電が完全停止してしまうと言うリスクはなくなる。

ただし、各パネルに一台ずつ装着されるために、パネルから見た場合にコストアダーとなり、ある分岐点を越えると、総コストはセントラルインバータ方式よりも高くなる。従い、上に示した三つのカテゴリのうち、現実的なターゲットは1.の住宅用のみとなる。

パネルメーカーは自社のパネル価格をできるだけ安く見せたいため、マイクロインバータはパネルメーカーが調達するのではく、施工者(システムインテグレータ)が調達するのが普通となる。

太陽電池を導入させる場合、太陽電池メーカーは「環境に優しい」と謳うのだが、本格的な商談ステップになると、「どれくらいの期間で元が取れるか」といった金勘定の訴求に豹変する。つまり、Energy Pay Backが最も重要な要素となる。

このEnergy Pay Backを鑑みる時の指標をLCOE(Levelized Cost of Electricity)という。簡単にいえば、総コストを発電量で割った値のことだ。

LCOEを鑑みる場合の最も重要な点は、コストというのはEPC(Engineering、Procurement、Construction)といった導入コストだけではなく、太陽電池は数十年に及ぶ長期運用が前提なので運用とメインテナンスコスト(O&M:Operation and Management)やインフレ率といった経済指標まで含めて評価する必要があるということだ。それらをすべて勘案した上で「いつ元が取れるか」が、最も大きな指標となる。

つまり、太陽電池は他の電気製品とはことなり、投資対象となる「金融商品」であることを理解しておく必要がある。

これは商業用やメガソーラーのみならず、一般家庭向けでも同様。太陽電池メーカーは、説得材料としてPay Backを明確に提示することが必要なのだ。

インバータは終端を系統に連系させるために、終段には正弦波を生成させるためのフィルタが必要となる。この正弦波については、系統連系の規定として高調波歪は5%以下と規定されている(日本)。しかしこの5%というのは相当に悪い値であり、海外の電力事情の場合であればさほど問題とはならない場合もあるが、日本の様に極めて高品質な電力品質の系統では、電力会社は「清濁併せ呑むことによる電力品質の低下」を危惧している。メガソーラーはともかく、電力品質の悪い発電所からの送電は、電力会社にとって痛し痒しなのだ。

従って電力会社からは高品質インバータの使用が望まれており、いきおい、国内においては、海外メーカーのインバータはほとんど使用されていないと言う状態を引き起こす。マイクロインバータも、例外ではないだろう。

マイクロインバータはマイクロと言ってもインバータであり、DCからACを生成するスキームはセントラルインバータとほぼ同様。従ってフィルタを持つ。このフィルタには電解コンデンサが用いられており、風雨に晒される様な劣悪環境下では劣化が免れない。セントラルインバータでは、温度管理を徹底させるために冗長性を持たせたファンがいくつも装備されており、劣化速度を遅らせているが、マイクロインバータの場合、どこまで劣化速度を遅らせられるかが、大きな課題となる。

それとマイクロインバータはJET認証に於けるカテゴリが不明確(未設定)であること、系統連系ガイドラインに準拠させるための道のりが険しいことなどが問題となっている。

一方、マイクロインバータの大きなメリットとしては、高電圧を発生させないまま系統連系できると言うことがある。通常のセントラルインバータ方式は、100Vや200Vに連系する前にインバータ入力として直流400V~900Vに昇圧させる必要があるため、太陽電池パネルをストリング状にして直流の高圧を作る必要があるが、マイクロインバータは低圧のまま連系させるので、高電圧による感電事故が未然に防げるというメリットがある。感電事故は、施工時と火事のときに消防夫が屋根に上ったときに発生するという。

マイクロインバータが技術的に評価される点は、MPPTの追随性、変換効率、寿命、実績などだが、先に述べたLCOEという指標を元に、価格メリットが出せるかどうかということが、重要な評価ポイントとなる。

ただし、オフグリッド用であれば、今日の様に災害が頻繁に起きていることから潜在的な需要はあると思うので、訴求方法さえうまくできれば、日本国内でもマイクロインバータのビジネスは創造できると思う。



指原莉乃の「逆転力」という単行本が話題となっている。本人曰く「いえ、書いたもんじゃなく、インタビューを編集したもんですよ、あはは」。

ジャーナリスト、田原総一朗氏は、「指原莉乃さんの「逆転力」講談社を読んだ。ピンチがチャンスだと言う言葉にリアリティがある。AKBからHKTに移ったのも大ピンチで、それを逆転させたのだ。高橋みなみさんといい、こういう強くて柔軟性のある子たちがAKBを支えている」と評した。

大方の書評によると、指原流「ピンチをチャンスに変える」という思考に趣きをおき、若い世代の人たちに対する指南書として紹介されることも多いが、小生はちょっと違った角度から評してみようと思う


指原莉乃を知らない人にとってはまったく興味ない本だとは思うが、彼女独特のポジティブ思考(反省しないともいえるが)という考え方については、かねてから彼女のトークで盛んに言っていたことでもあるし、参考になると思って読んでみた。

かつて、アイドルは「ウンコ」をしないと言われていた。少なくとも小生の記憶では、そのセリフは70年代後半のことだったから、かれこれ40年近くは経っている。時は2代目三人娘と言われた天地真理、小柳ルミ子、南沙織、更に中三トリオの桜田淳子、山口百恵、森昌子の時代だったと思う。もちろん、それ以前からも言われていたかも知れない。

2ちゃんねるの「モ娘板」にある「石川梨華ってウンコするの? スレ」は今を遡ること13年前に立ったもので、当時モーニング娘。のメンバーであった石川梨華がウンコをするかしないか、果てには肛門すらないとか、ウンコはしないが屁は出るとか、まことしやかに議論されたのだが、13年が経た今もなお議論は続いており、現在、実にパート250 を超えている。

アイドルは決して降臨することはない妖精であり、ましてウンコをする姿など想像すらできない「神」でもあった。

しかし、指原莉乃はこの逆転力という本の中で、自分をして「ひどい女」「ずるい女」「汚い人間」「計算高い女」であると言い切った。つまり「私はウンコしますよ」と宣言しているに等しい。この本は、いわば指原莉乃の排泄物でもあるのだ。

さすがにまだ21歳の少女、言葉の重みこそ薄いのだが、AKB48という組織にあって精神的な天国と地獄を行き来している生き様は並の少女にはありえない経験であり、自らを冷静に、そして客観的に評価し、若年にして処世術を体得した能力には驚かされるものがあった。AKB48に選ばれ、苦節数年後には総選挙で念願の1位を獲得したと言うことには、全うなる理由があるということなのだろう。

この本に書かれていることは概して自己分析であるが、その結果は惨憺たるものだ。当初、これはお笑い芸人がよくやる自虐ネタに近いものかと思って読んでいたのだが、どうやら「本気」であることが分かってくると、自分の深層心理まできちんと分析しているところに驚かされる。容姿上のことはファンの嗜好によるから良し悪しを言ってもあまり意味があるとは思えないが、心理的な内層に就いて、「ひどい女」「ずるい女」「汚い人間」と言い切るのには相当な勇気がいることだろう。と同時に、自分のことを「打算的女」であるとも評価しており、すなわち「悪い女」であることを宣言しつつ「そんなことないよ」という反応を期待している「計算結果」であるいう見方も可能なのだが、どうもそうでもない様なのだ。

自虐することで楽になる。それによって相手を自分の土俵へ引きずりこむことも可能となるし、それはそれで正しい方法のひとつなのだ。

人は、本気で本音を言うということが難しい。言ったことに対する慰めを求めるのが大半であり、そういう筋書きを先読みして話す。得るものと失うもののバランスを勘案して話す。ところがこの本には、そういうバランスが感じられない。つまり、書かれていることは掛け値無しの本音なのだ。だから矛盾していることも平気で述べる。すなわち述べている時点では本気ということなのだろう。

自己分析で見事だと思ったのは、「悔しさをバネにして頑張ることはない」と言い切ったこと。

次の挑戦へと努力することなんぞ全く考えず、ひたすらふて腐れるだけ、と言い切る。実は、普通はそうだと思う。結果的に次回の挑戦で成功した場合、「悔しかったから、頑張ったんです」と言うのがオチで、聖人で無い限り、失敗直後はふて腐れるのが当たり前であり、それをバネにしようなんて普通の子が思うだろうか?少なくとも小生も同じ類だ。挫折感の真っ只中で次こそ頑張ろうなんて微塵も思わない。真夏の甲子園大会、優勝を逃した高校生が、とっさに「よし、今の悔しさをバネにしよう」なんて、いったい何人が思うだろうか?

これ以外にも、
言葉の使い方や考え方について、諸所に秋元康氏の影響を具間見ることができるが、意味をきちんと咀嚼しているのは立派だ。

処世術について、「中途半端に偉い人は自尊心も高いため、ちょっとの無礼がムカつく。だから丁寧に接することが大切」と説いているのには笑った。まさに言い得て妙だ。

若年層に於ける、我々的年上衆の扱い方と言う意味で、参考になると思う。

アイドル像は世につれ、形相を変えていく。いまやアイドルは天から舞い降りてくるものではなく、地面から生えてくるものとなった。そのことを明確に示したのがAKB48だ。アイドルは普通の子の一人であり、ただ単に普通の子が持っているものを持っていない代わりに、普通の子が持っていないものを持っている、その違いだけだ。

しかし、その違いを正しく見極められること、それがプロデューサの能力であり、そのフィルタを通過した時、冷静にかつ客観的に自分を分析すること、それがアイドルのタレント性という能力なのだろうと考える。

今後、指原莉乃はどの様なタレントになっていくのだろう? 秋元康氏は面白い逸材を見出したものだと思う。



その昔、日本にはたくさんのゾウさんがいたんだそうだ。

現在、世界でもゾウといえばアフリカゾウとアジアゾウ(いわゆるインドゾウ)の2種類しか存在していないが、かつての日本には1種類どころか、南方系と北方系由来の数種類、すなわちツダンスキーゾウ、ミエゾウ、アケボノゾウ、ムカシマンモス、トウヨウゾウ、ナウマンゾウ、ケナガマンモス、ハチオウジゾウの8種類が住んでいたと言われているし、中には同時期に共存していた時期もあると言うから驚きだ。

ゾウ類の起源はアフリカの北部と言われているが、「原始ゾウ」達は、中新世以降になるとアフリカとユーラシアが陸続きになり、それに伴ってユーラシア大陸へと進出を始めた。その後、中新世から鮮新世にかけて(530万年前)、急速に拡散していく。


では、日本へはどのようにして渡ってきたのか。

第四期の更新世の中期(100万年前)になると、氷期間氷期が交互に繰り返す様になり、いきおい地形としては日本列島と大陸は陸続きになったり、寸断されたりしていた。中国経由でゾウが日本へやってきたのはその頃である。

遠路はるばる渡ってきたゾウはツダンスキーゾウ、若しくはそれに近い種で、その後、日本国内にてミエゾウ、アケボノゾウ、更にその中間であるハチオウジゾウといった具合に独自の進化を続けていた。

ドイツのナウマン博士が発見した有名なナウマンゾウもそのひとつで、第四期更新世中期~後期の34万年前の氷期に海面が下がった時、東シナ海や対馬海峡を渡って日本列島にやってきたとされている。

ナウマンゾウは日本各地で発掘されているが、当時は氷期、間氷期が繰り返されていたために、温帯森林性のナウマンゾウはその寒暖差に伴って、日本列島を北へ南へと徘徊していたためと考えられている。そのため、ナウマンゾウの化石は様々な土地で発掘されている。

ナウマンゾウはその後、約2万年前の氷期ピーク時に絶滅した。これらのゾウが日本から姿を消したのは。人類が介在したというより、気温の乱高下が原因だと説明されているという。

アケボノゾウは180万年前~70万年前まで栄え、70万年前に絶滅した。因みにこのアケボノゾウは、更新世前期の110万年前に北方からやってきたムカシマンモスと共存していた。このムカシマンモズもアケボノゾウと共に、70万年前に絶滅している。

つまり、70万年前には2種類のゾウが同時期に絶滅し、結果的に日本からゾウがいなくなる事件が発生したと推定できる。

生物の個体数は、地域的に見ると数に於いて増減を繰り返すが、周辺からの流入あるいは周辺への流出が生じるため、個体数としては大体一定の値となる。一方、大陸から離れた島ではこれらの流入および流出がないため、種を維持する上では過当競争が行われる。特に小さな島の場合には、大型動物が種を維持させることは困難である場合が多く、いきおい、体が小さい方が有利であり、体格は縮小する選択を行うということになる。これを矮小化というが、日本に渡ってきたゾウも時代と共に小型化してきたことが分かったと言う。

この矮小化という現象、種を存命させるための「種の本能」なのだろう。

また、絶滅についても、人間が災いして絶滅するというのは問題外であるが、ある意味自然の営みとしての試行錯誤であるならば、「種」を捨ててその上の階層である「属」を維持させるという手段について、「選択と集中」と理解することも可能だ。

自然消滅としての絶滅に対し、あまりセンチメントになると、本質を見誤る。

ところで、この矮小化と絶滅、目を産業界に転じて見れば、大型の怪物が小さな市場に対してさえしのぎを削って戦っているさま、彼らの活動は本能に逆らっているとしか思えない気もする。

たがいに矮小化を図らないと、それこそ絶滅するんじゃないだろうか??



今夏、連日うだるような暑さが続いているが、我国のエネルギー事情はそれ以上に「寒い」らしい。

先日、先端技術@TEPIAというところに行ってエネルギー事情について色々聞いてきたのだが、世界規模で見ると、日本は中国、アメリカ、ロシア、インドに次ぐ第五位のエネルギー消費国となっているという。それは想像通りなのだが、これらエネルギー消費大国のうち、どうやら日本以外の国は消費エネルギーの60%近くを自国で自給できるらしい。

では日本はどうか。なんと4%だそうで。。。

もちろん、こういう数字、何を根拠にどうやって計算しているかが示されていないからそのまま鵜呑みにするつもりはないが、数字の信ぴょう性はともかく、日本の自給率が高いとは思えないのも確かであり、大方こんなもんだろうという想像はつく。

しかし、この数字、どう考えても寒すぎる。

かといって、すぐさま地産地消が可能な安定的エネルギーの生成方法などは今のところないわけだから、今日本国民が速やかに取り掛かれる方法は消費量を下げることしかないだろう。

東日本大震災以来、以前にも増して省エネ意識が高まり、たとえ一部の人たちだけだとしても省エネを心がけるという行動が自然に行われるようになってきてはいるが、しかし先にあげた他国の数字との乖離は、個人の省エネ活動程度では到底太刀打ちできるものではない。

小生、かねがね食料とエネルギー、そして通信網の構築及び運営が自給できない国は亡ぶか他国に隷従すると考えている。

これらのライフラインを諸外国に頼るということは、即ち他国に急所を握られている様なものだから、他国の思惑でどうにでもなるということでもあり、大変ヤバい状態にあると考えるべきだろう。

ではそれらのうち、エネルギー政策としてはいったいどうすべきなのか。

国民一人ひとりの省エネ意識はもちろん大切だし、ずっと実践していく必要があることは間違いないが、国民に不自由な生活を強いるということはストレスを与えることであるからしょせん長続きはせず、むしろリバウンドする危険性の方が大きい。また、個人というのは他人との比較で自分の立ち位置を認識するという傾向にあるから、自分だけが省エネ活動をするということには無理があり、いずれ元に戻る。

太陽光発電という再生可能エネルギーについて、これまで政府はFIT(Feed In Tarif)というインセンティブによって設置を促してきた。それはそれで意味のある政策ではあるが、当初の売値(政府側から見れば買値)が42円だったのが平成26年には34.5円となり、今後も下落傾向にあるという。それに伴い、メガソーラー計画が頓挫しているところも多いと聞く。むべなるかな、だ。

更に問題となることは、電力中央研究所の試算によるとFITによるエネルギー設備がすべて稼働した場合、家庭に対する電気料金の上乗せは現在の3倍になるということだ。早い話、太陽光発電や風力発電が普及すればするほど電力料金は高くなるということなのだ。

電力供給のバランスというのは、かくも複雑なシステムの上に成り立っている。

エネルギー事情を鑑みるには需給バランスを十分に勘案しないと、後世になって取り返しのつかないことが起きうる。再生可能エネルギーも良いが、それに頼るということには危険な要素も胚胎しているということとなのだ。確かにグリッドパリティ(再生可能エネルギーによる電力コストと既存の電力コストが拮抗する時)について、かなり楽観的な見方があったことは確かだ。がしかし、当時の政府がそれをどこまで読んでいたのか、読んで承知の上で踏み切ったのか、震災にあってリーダーシップを見せようしてあわてて決定したのではないかなど、疑問は多い。

冒頭で述べたように、我国ではエネルギーの自給自足が急務だ。もしも自給の「給」がそういう体たらくにあるとすれば、自足の「足」側を何とかしなくてはならない。

ところが、「足」側は人々の生活と直接関わっているから簡単にはいかないのだ。そこに不便さが背中合わせになっている場合には尚更だ。人間なんて思いきりわがままな動物だから、一度築いた便利な生活を我慢させようとすると、不便な生活はいずれ早いうちに崩壊し、元の生活に逆戻りする。

結局、落としどころとしては、「意識せずに省エネとなっていること」というライフスタイルの提案だろう。個人消費にしても、企業消費にしてもしかり、だ。

たとえ車のような大物でなくても、小物に対しても電力変換効率の良いものに対しては優遇制度を設ける。もちろん、企業はこの省エネ商品の開発に注力しているのだが、消費者は省エネであるがゆえに価格が高いとなると、購買意欲は落ちる。だからそこに優遇措置を施すのだ。後で還付するとか言ったケチ臭い方法ではなく、売値そのものに反映させるのだ。

電力変換効率の改善。

これは、電力を消費する商品である限り、今後の商品展開に於けるもっとも重要なキーワードだ。人々の目はエネルギー生成箇所に注がれがちだが、消費する側についても十分に目を光らせるべき。

消費電力の効率改善を図れる商品こそ、今必要な商品なのだ。これを殺してしまってはいけないと考える。
緑化計画-。

荒廃した土地に植樹を行ったり、草木を植える緑化計画。そうした政策はヒートアイランド現象の緩和、大気の浄化、更には地球温暖化防止という意味で優れた政策ではあるが、某国の様に採石の結果として岩がむき出しになったところに緑のペンキを塗るという緑化というのは問題外としても、この緑化計画、専門家の意見やアドバイスを十分に受けて着手しないと、却って生態系を崩し環境の悪化をもたらすこともあるのだそうだ。しかもこれらは不可逆的であるため、極めて厄介な状態をきたす。

そういえば、昨今、昆虫たちの棲息域の北進や南進が話題となっているが、地球温暖化の影響もさることながら、もっと端的で短時間に彼らに対して影響を及ぼすのが、生態系を無視した緑化政策なのだそうだ。

確かに、荒れた土地を緑化しようと試みる場合、一日や年間でみた気温の高低差、高温多湿や乾燥などに対する耐性の強い植物を植えることが定法だろう。しかし、新たに植樹や栽培される植物が、当初はその土地に生息していなかった種である場合もあろう。その結果、新たな植物が植樹栽培の結果としてそこに定住した場合、同時にその植物に付着していた昆虫の卵や幼虫が孵化し新たな地で繁殖していくという事は想像に難くない。

結果として、これまでは生息が確認されていなかった種類の昆虫が他の地から飛び火して来るがごとく、ある時期に忽然と大量発生するという事態をもたらすことだってあるわけだ。更にそれが災いし、従来から細々と生息していた「弱い種」の昆虫たちが、いつしか新たな侵入者達によって駆逐され絶滅していく。そんな事だって起こりうるのだ。

これは由々しき問題だろう。たかが虫達の問題と言うなかれ。

食物連鎖という、長い時間を経て精巧に組み立てられたプログラムの、たとえ一部であったとしてもそこに破綻が生じると、その影響によって取り返しのつかないことが生じる場合もあるのだ。

また、植物には植物同士での強弱があり、そこには種の存続をかけた縄張り争いが日夜展開されている。現在の姿が、拮抗するその争いの妥協点だとした場合、闇雲に人間が介在すると、草原や山の植生は別の方向に変異してしまう。その結果、昆虫たちの交代と共に、それこそ「ドミノ倒し」の如く他の野生生物達の衰退を生じせしめ、やがては人類に対しても大きな環境変化として影響を及ぼすことだってありうる。

緑化計画とは、ただ単に木や草を植えれば良いというものではない。生態系のメカニズムを良く理解した上で、正しく活動する必要があるということだ。


写真は草木のあるところ、どこでも見かけるベニシジミだ。ところがこの蝶、地球温暖化に伴って棲息域が狭まっているという。研究によると、2080年に平均気温が3.1℃上昇すると仮定した場合、欧州において2050年までに18%、更に2080年までに40%の棲息地縮小がシミュレーションされているそうだ。そういう地球規模的な変遷はともかく、身近なところとしても、植樹や栽培によって彼らの生活が脅かされるというのは愉快ではない。

現在、東京大学駒場博物館で開催されている特別展「日本の蝶」の中で詳しくその事が述べられている。緑化計画を進める上で、見識者たちは計画を正しく行う様、もっと声高に訴求すべきだと思う。
毎年恒例となったDocumentary of AKB48という映画、今年で4作目となる。初日に見て、ちょうど一週間経つ。

以下、ネタバレも含むが、そもそもDocumentaryだからストーリなどあってないようなものだし、AKB48のファンであれば節目のイベントや事件については十分知っているはずなので、ネタバレかどうかなんかあまり気にせずに書き記す。

毎年封切されるこの映画が、
ある意味、小生的には年末の晦日に見る「今年の年間ニュース」であり、いきおい、映画を見終わった後から新年が始まる様な気がしている。少なくともこのシリーズが始まってからは、そう感じる。

・ The time has come
今回の副題は、「The time has come」。これを「時は来た」と訳すことも多いが、
厳密に言うと、もっと具体的な意味合いを持つ。日本語には「The」に相当する定冠詞がないためにニュアンスを掴み難いのだが、この副題に於ける「The」は、その次に続くTimeに対して示唆的な具体性を持たせている。

古いジャズの名曲に{The man I love」という曲があるが、これを訳すと、「私が愛する男」ではなく、「私が愛する、その人」ということになる。

すなわち、時は来たというより、「その時は来た」、あるいは「今が潮時」といった意味が正しいのだ。これは、映画の中に出てくる大島優子卒業発表のさなかに行われたインタビューの中で、高橋みなみがつぶやいた「何かが終わったなぁ」という言葉につながっている。

この、高橋みなみの感覚は正しいと思う。長いこと続いた「前田期」が終わり、堰を切った様に相次いでベテラン達が次々と卒業し、今回のDocumentの最大イベントである大島優子の卒業へと展開する。まさに「The time has come」だ。

・ 何に泣いているのか、わからなくなった
3月30日、国立競技場で開催予定だった大島優子の卒業コンサートは、荒天が災いし当日になって中止という前代未聞の多難な結末となった。小生も参戦予定だったのだが、千駄ヶ谷の駅に着いて初めてそのことを知った。それはとても残念なことだった。
しかし、その直後に大島優子が行った驚くべきサプライズは、今思い出してもまさに感動もので、本編には、中止決定前後からサプライズ出現に至るまでの葛藤や苦悩から、そのサプライズに至るまでのプロセスが余すことなく描かれている。

このサプライズについては以下に記した。

「AKB48、大島優子の卒業コンサートに参戦して思ったこと」
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11876674573.html

その卒業コンサートの中止は、誰のせいでもなかった。故に、握り締めた拳を振り上げることはできない。
そこで湧き上がった腰が砕けるほどの挫折感は、映画の中で大島優子がつぶやいていた「自分が何に泣いているのかわからない」という言葉に表されていよう。

だが、その悔しさや無念さを、次なる挑戦へと昇華させる大島優子の精神力はまさしく「雑草力」であり、他の誰にも真似することはできないものなのだ。

ちなみに小生、その後、味の素スタジアムで催された国立競技場のリベンジともいうべき大島優子卒業コンサートに参戦し、大島優子のみならず、メンバー、さらにそれを取り巻くファン層のすさまじいポテンシャルエネルギーは肌で感じてきているので、映画制作に当たり、「今回の映画は大島優子の卒業を機軸として制作する」という判断は正しいと考える。

・ 世代交代劇
以前にも書いた様に、世代交代とは「させるものではなく、していくもの」、つまり現象だ。消費者が次世代に対して魅力を感じれば、自ずから世代は交代する。しかし、そこに恣意的なものがあると、ファンはそれを的確に見抜き、しかるべき判断を下す。

「次世代の育成こそ最優先のテーマであるべき」
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11271556782.html

従って、世代を交代させるには、次世代に対して「ファンを惹きつけるための要素」を育ませる必要があるわけだ。その土壌を具体的に提供したのが経営側の戦略であり、後輩たちに対して具体的にそれを実践させたのが大島優子の戦術でもあった。
運営が環境を提供し、先輩が芽を育てる。人は「育てられた」という意識があれば、人を育てる素養も育つ。大島優子の成長は、その典型的なサンプルである。

・ Documentaryの展開
本編は大島優子を機軸として描写されている。確かに、昨年から今年までのAKB48が提供してきたエンターテイメントの総集編として大島優子の卒業をテーマとするということは納得のいく展開だと思う。

結果的に、「今後もAKB4は安泰な道を歩めそうだ」という総選挙の結果を見届けて、その翌日に卒業していくという全く理想的なストーリが現実に起きたわけだから、ドキュメンタリー制作側としては願ってもない展開だったことだろう。

筋書きのないドラマは、昨年の一位を取った指原莉乃による「AKBは絶対壊さない」という発言から、今年悲願の一位を取った渡辺麻友による「AKBは自分が守る」という発言へと発展的に展開された。また、二位へと転落した指原莉乃は「悔しいけれど、一位となる人(渡辺麻友)を支えていく」と断言した。さすがは指原莉乃、利口な子だと思う。

大島優子がこれらの発言をしっかりと見極めた上で、時系列的に何の無理もなく卒業していったというのは、まさにファンをして「大島優子は何かを持っている」といわせしめるに余りある。運が良いと人は云うが、運とは、良いと思う人のところに寄り添うのだろう。

思い起こせば、かつて大島優子が2位に転落した総選挙発表直後、前田敦子に首位を奪われても気丈に振舞った大島優子だったが、
Documentary of AKB48の中で描かれていたシーン、すなわち大島優子が楽屋に戻ったとき、人目をはばかることなく篠田麻里子にしがみついて悔し泣きで嗚咽していた場面は多くの視聴者の涙を誘ったと思うが、その時の気持ちは痛いほど分かった。

「やはりそうだよな」。

気丈な子ほど、崩れるときはハンパなく崩れるのだ。その姿は、上に述べた「国立劇場コンサート中止の決定」の知らせを受けたときの大島優子の姿が重なって見える。

そのギャップ、すなわち気丈さと脆弱さこそが、実はその人の人間性なのであり、その人間性こそが、ファンはもとより総選挙で武藤十夢が名指しで大島優子に礼を言った例を見る様に、彼女が多くのメンバーから慕わている主なる要因なのだろう。

ところで、「今後の見通しを見極めて、次に託す」という展開。これって、かの「マジすか学園」のストーリ展開の様に思ったのは小生だけではないと思う。

・ スルーさせた、暗黒な過去
本編を見て気付いたことは、AKB48の「暗黒」には焦点を合わせていなかったということだ。

暗黒な部分といえば、やはり何といっても恋愛禁止条例なる暗黙なコンプライアンスに違反したことによる解雇や、選抜総選挙で予想外の凋落を見て落胆する姿などがその代表だろう。昨年度は実際にコンプライアンス違反が多かったのも事実であるが、今年度もそうした事件がなかったわけではない。

しかし、今回
恋愛禁止条例についてフォーカスしなかったことは、それらのドキュメントをネガティブファクターとして回避したために、映画として後味の悪い部分がなくなったという意味で高く評価したい。

また、以前の映画で描画されていた総選挙シーンで、上位間違いなしという下馬評の子が結果的には圏外だったという「公開処刑」にあって、ひたすら泣き崩れるしかなかったという哀れなシーンなど、見ていてちっとも愉快ではなかった故、本編でそういうシーンがなかったことも特筆すべきと思う。

・ 組閣
組閣はすでにAKBの恒例行事となった。

今回もそこに産まれる悲喜交々が様々な角度から描写されている。中には悲劇的決別もあるにはあるが、小生はこの組閣については、AKB48がビジネスである以上、肯定的だ。

組織は、ある目的を達成するためにクリエートされる。

このプロジェクトオリエンテッドな考えを、ビジネスライクに理解していないと見誤る。社会でも組織変更はごく当たり前に行われる。少女たちにとっては残酷に感じても仕方はないのだが、競合がひしめく中で存命を図るためには、むしろ積極的に展開すべきことなのだ。

メンバーたちも、運営側の戦略をできるだけ早く感じ取れるようになればよいと思う。もともとそういうイベントがあることを知っていてオーディションを受けて合格し、その後どんどん台頭してきたわけだから、どのメンバーも根性は人一倍あるはずだと思う。

ところで、こうやって映画を見ていると思うのだが、「みんなで育て、見守りたい」というファンの心理は、日本人の持つ農耕民族的な心に端を発しているのかもしれない。

ウンコぶる。

なんか妙な言い方だが、この手法、まんざらでもない気がした。


写真は柑橘系植物に育つアゲハの一齢幼虫で、存命を図るために鳥のフンに擬態していると言われている。なるほど、確かにそのものずばりだ。天敵である鳥は、まさか自分やその仲間の排泄物を食べようとは思わないだろう。つまり、この幼虫は命をかけて鳥のウンコの振りをする「ウンコぶりッコ」なのだ。

この様に、自らの外観を環境に適応させて天敵の目を欺くことを擬態という。

擬態というのは、動植物に備わる「生命体が存命するための防衛手段」として、生物の進化に於いて大変興味深い変化だ。「種」が存命を図る方法としては、環境の変化に対して逸早く適応して自らを変化させることや、天敵からの襲撃によって種が絶滅することを防ぐために圧倒的な数を以って存命していくと言う方法もあるが、自然淘汰という洗礼から「種」が回避するという以前に、擬態によって「個の存命を図る」という方法には、何か戦略的な意図も感じ取ることができる。

もちろん、擬態も淘汰の中で継承された機能の一つなのだろうが、敵から見付け難くするということは、受身的というより相当に能動的な作戦でもある。

この擬態として完成度の高い「作品」はこれだ。

ベトナムに棲息するコケガエル

このコケガエルは、敵の目を欺くと言う意味で秀逸である。相当な試行錯誤の末にこの形として遺伝してきたのだろうが、見事だ。

天敵の攻撃をかわすため、被食者は時間経過に伴い、様々な手段で対峙している。擬態はそのうちの最も初期の対応策だろう。これが見破られた場合には、次の手段である「避難」、「反撃」そして「逃避」という行動で攻撃から逃れようと試みるのだが、危険を回避する手段として体の色や形を周りの環境に溶け込ませて敵を素通りさせ、何事もおきない状態を保つという、ある意味最も平和な手段はこの「擬態」だろう。

この擬態が完成するまで、つまり試行錯誤による切磋琢磨の末に遺伝として継承されるまでには、通常の場合だと相当時間がかかるのだが、面白いケースがある。それはオオシモフリエダシャクという蛾だ。

このオオシモフリエダシャクは「工業暗化」の研究としてよく知られているのだが、簡単に言うと、白いオオシモフリエダシャクと黒いオオシモフリエダシャクが共存していて、木の幹に留まった際に、どちらが目立つかということが明暗を分けるという話。

天敵から見た場合、幹が白い場合には黒いオオシモフリエダシャクが捕らえられる確率が高く、結果として次第に黒いオオシモフリエダシャクは数を減らしていったのだが、ある時からオオシモフリエダシャクの棲息地にある工場の煤塵によって多くの木の幹が黒くなり、いきおい、黒いオオシモフリエダシャクの方が増えていき、さらにその後、公害が減ってきた時には、再び黒いオオシモフリエダシャクの数が減ったと言う話だ。

尤もこれは遺伝の話というより、白と黒のどちらが生き延びることが出来る確率が高いかという「個」の生存率の話ではあるが、擬態というのは、こうした環境の変化へ追随しながら遺伝子レベルとしてプログラミングされた特徴なのだろう。

ところで、擬態というのはこのような敵を欺くために周辺に溶け込むということだとすると、先のアゲハの幼虫の場合は、擬態とはちょっと違う気がする。むしろ敵に対してわざわざ「ウンコぶる」ことでアピールしているのだから、擬態というより警戒色(警告色)を持つ他の生物と同様の作戦であると考えられる。

この「ウンコぶる」という行動、話を転じると人間関係でも応用できそうだ。

天敵ともいえる相手から攻撃を受けそうな場合、先に述べた様な手段、すなわち避難、反撃、逃避といった手段を講じる以前に、ウンコぶることで敵を近づけさせないという手法として、案外有効な方法かもしれない。

ただし、どうやってウンコの振りをするかは、個人の力量や嗜好、そのときの環境等々によって異なるとは思うが。。。
最近、仕事の都合でモバイルパソコンを新調した。機種はパナソニックのLet's Note、CF-SX3JEPWR。2014年夏モデルという機種。

パソコンは用途によって使い分けが必要だ。持ち運びを鑑みれば軽量で頑丈なものがいい。ということで従来からLet's Noteを使用してたため、買い替えも同機種にすることにした。

仕様的な差はあるものの、性能的な手触りとしては、同じWindows7ということもあって差はあまり感じなかったのだが、一点気になることがあった。それは、iPhoneを経由してテザリングを行う際に途切れることが多いということだ。

以前の機種では快適にテザリングしていたのだが、この機種になって頻繁に障害が発生する。
何か理由があるはずだ。


そこで、徹底的に調べてみた。

まずはiPhone。これについては、別のPCでのテザリングで確認する限り問題ない。

次はPC。ここで大きな疑問にぶち当たった。テザリングでなければ問題がないのだ。つまり、WiFiであればなんら問題が発生しないのだ。iPhoneもPCもそれぞれには問題がないということになる。

では、相性問題か? ここで行き詰ったのだが、悪戦苦闘の末、わかったことは、

「最新のモバイルのウリは、省電力化。なので、供給される電力に頼ることにより、自分の消費電力を軽減させる」

ということだった。

具体的に言えば、テザリングによる送電電力が小さいので、PC側としての反応が鈍くさせてPCとしての消費電力を節電させている」ということ。

早い話、PC側の感度を落としているということだったわけだ。

「技あり!」かな?


これの対処方法がわかったので、同じ様な現象に悩んでいる人のために紹介しておく。これらはメーカー発行のマニュアルやWeb等のFAQなどには公開されていないので、ご参考用にどうぞ。