プロムナード -27ページ目

プロムナード

古いこと、新しいこと
いつでも、どこでも
思いつくまま、気の向くまま

ウンコぶる。

なんか妙な言い方だが、この手法、まんざらでもない気がした。


写真は柑橘系植物に育つアゲハの一齢幼虫で、存命を図るために鳥のフンに擬態していると言われている。なるほど、確かにそのものずばりだ。天敵である鳥は、まさか自分やその仲間の排泄物を食べようとは思わないだろう。つまり、この幼虫は命をかけて鳥のウンコの振りをする「ウンコぶりッコ」なのだ。

この様に、自らの外観を環境に適応させて天敵の目を欺くことを擬態という。

擬態というのは、動植物に備わる「生命体が存命するための防衛手段」として、生物の進化に於いて大変興味深い変化だ。「種」が存命を図る方法としては、環境の変化に対して逸早く適応して自らを変化させることや、天敵からの襲撃によって種が絶滅することを防ぐために圧倒的な数を以って存命していくと言う方法もあるが、自然淘汰という洗礼から「種」が回避するという以前に、擬態によって「個の存命を図る」という方法には、何か戦略的な意図も感じ取ることができる。

もちろん、擬態も淘汰の中で継承された機能の一つなのだろうが、敵から見付け難くするということは、受身的というより相当に能動的な作戦でもある。

この擬態として完成度の高い「作品」はこれだ。

ベトナムに棲息するコケガエル

このコケガエルは、敵の目を欺くと言う意味で秀逸である。相当な試行錯誤の末にこの形として遺伝してきたのだろうが、見事だ。

天敵の攻撃をかわすため、被食者は時間経過に伴い、様々な手段で対峙している。擬態はそのうちの最も初期の対応策だろう。これが見破られた場合には、次の手段である「避難」、「反撃」そして「逃避」という行動で攻撃から逃れようと試みるのだが、危険を回避する手段として体の色や形を周りの環境に溶け込ませて敵を素通りさせ、何事もおきない状態を保つという、ある意味最も平和な手段はこの「擬態」だろう。

この擬態が完成するまで、つまり試行錯誤による切磋琢磨の末に遺伝として継承されるまでには、通常の場合だと相当時間がかかるのだが、面白いケースがある。それはオオシモフリエダシャクという蛾だ。

このオオシモフリエダシャクは「工業暗化」の研究としてよく知られているのだが、簡単に言うと、白いオオシモフリエダシャクと黒いオオシモフリエダシャクが共存していて、木の幹に留まった際に、どちらが目立つかということが明暗を分けるという話。

天敵から見た場合、幹が白い場合には黒いオオシモフリエダシャクが捕らえられる確率が高く、結果として次第に黒いオオシモフリエダシャクは数を減らしていったのだが、ある時からオオシモフリエダシャクの棲息地にある工場の煤塵によって多くの木の幹が黒くなり、いきおい、黒いオオシモフリエダシャクの方が増えていき、さらにその後、公害が減ってきた時には、再び黒いオオシモフリエダシャクの数が減ったと言う話だ。

尤もこれは遺伝の話というより、白と黒のどちらが生き延びることが出来る確率が高いかという「個」の生存率の話ではあるが、擬態というのは、こうした環境の変化へ追随しながら遺伝子レベルとしてプログラミングされた特徴なのだろう。

ところで、擬態というのはこのような敵を欺くために周辺に溶け込むということだとすると、先のアゲハの幼虫の場合は、擬態とはちょっと違う気がする。むしろ敵に対してわざわざ「ウンコぶる」ことでアピールしているのだから、擬態というより警戒色(警告色)を持つ他の生物と同様の作戦であると考えられる。

この「ウンコぶる」という行動、話を転じると人間関係でも応用できそうだ。

天敵ともいえる相手から攻撃を受けそうな場合、先に述べた様な手段、すなわち避難、反撃、逃避といった手段を講じる以前に、ウンコぶることで敵を近づけさせないという手法として、案外有効な方法かもしれない。

ただし、どうやってウンコの振りをするかは、個人の力量や嗜好、そのときの環境等々によって異なるとは思うが。。。
最近、仕事の都合でモバイルパソコンを新調した。機種はパナソニックのLet's Note、CF-SX3JEPWR。2014年夏モデルという機種。

パソコンは用途によって使い分けが必要だ。持ち運びを鑑みれば軽量で頑丈なものがいい。ということで従来からLet's Noteを使用してたため、買い替えも同機種にすることにした。

仕様的な差はあるものの、性能的な手触りとしては、同じWindows7ということもあって差はあまり感じなかったのだが、一点気になることがあった。それは、iPhoneを経由してテザリングを行う際に途切れることが多いということだ。

以前の機種では快適にテザリングしていたのだが、この機種になって頻繁に障害が発生する。
何か理由があるはずだ。


そこで、徹底的に調べてみた。

まずはiPhone。これについては、別のPCでのテザリングで確認する限り問題ない。

次はPC。ここで大きな疑問にぶち当たった。テザリングでなければ問題がないのだ。つまり、WiFiであればなんら問題が発生しないのだ。iPhoneもPCもそれぞれには問題がないということになる。

では、相性問題か? ここで行き詰ったのだが、悪戦苦闘の末、わかったことは、

「最新のモバイルのウリは、省電力化。なので、供給される電力に頼ることにより、自分の消費電力を軽減させる」

ということだった。

具体的に言えば、テザリングによる送電電力が小さいので、PC側としての反応が鈍くさせてPCとしての消費電力を節電させている」ということ。

早い話、PC側の感度を落としているということだったわけだ。

「技あり!」かな?


これの対処方法がわかったので、同じ様な現象に悩んでいる人のために紹介しておく。これらはメーカー発行のマニュアルやWeb等のFAQなどには公開されていないので、ご参考用にどうぞ。

  
 



2014年6月8日、これまでずっと「在家信者」だった小生は、今回初めてAKB48の大島優子卒業コンサートに参戦してきた。


そういえば、過去、小生がアイドルコンサートに行ったのは1回だけ、高校時代に武道館で開かれた「天池真理、南沙織、小柳ルミ子クリスマスショー」とかなんとか、そんなタイトルのコンサートだけ。それも確か、レコードについている応募券で行ったのでタダだった記憶がある。なので、2階席のずっと奥のほうだったが、友人とカセットレコーダを持ち込んで録音してきた(たぶん、違反だったろうけど)。

調べてみたら、ちゃんとネットに書いてあった。それによると、「新三人娘による夢のクリスマスプレゼント」。1972年、12月24日だったらしい。なんでもネットに落ちているものだ。今更ながら感心する。

その後、デパートの屋上などで行われる小規模なイベントは幾つか見たことがあったが、とにかく大掛かりなコンサートというのは、今回が実に42年ぶりなのだった。

閑話休題。

大島優子卒業コンサートの始終については数多くの投稿があるのでここでは割愛するが、さすがに王者の風格というか、他を圧倒するだけのパフォーマンスは発揮していたと思う。激しい運動量にも拘わらず、よどみないMCのこなしや間の取り方、例え筋書き通りだとしてもエンターテイメントを心得ている姿は、まさしく「大島優子」だった。

    

小生は、ここのアリーナ席、C8にいた

この「大島優子」は、他のメンバーにどう映ったか。


よく話題となることに、大島優子の後継は誰がなるのか、或いはどの様に継ぐのかということがあるが、ちょうど2年前の総選挙の後、小生は「世代交代とは現象であり、するものではなく、していくものだ」と述べた。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11271556782.html

この考えについては、今回の大島優子の卒業コンサートを見て「正しい」と確信した。おりしもコンサートの後、大島優子は「跡を継ぐって大変だし、後継者なんていらないです。みんなそれぞれのオリジナリティーで頑張ってほしい」と語ったと言う。

所詮、メンバーそれぞれ育った環境や境遇も異なるわけだし、時代背景も刻々と変化しているのだから、同じ路線での後継というのはあまり意味がないだろう。たとえリスクがあるとしても、新たな風を呼び込んだ方がエンターテイメント性を持続させることが可能だと考える。つまり、

大島優子の前に大島優子はいないし、大島優子の後に大島優子はいないのだ。

一方、当然のことだが、頭角していくためには努力が必要だ。大島優子も前田敦子とは異なり、当初から脚光を浴びていたわけではなかった。彼女なりに「考え、行動し、反省し、反映させる」という行動を取った。

その行動は、まさしく事業推進でよくいわれる「PDCAサイクル」の実践結果に他ならない。

大島優子がこのPDCAと言う言葉を知っているかどうかは分からないが、やっていることはそれだった。「後継者はいらない」というが、しかし、このPDCAサイクルは受け継がせたいと考えているはず。かつて、テレビインタビューで「努力すればみんな大島優子になれるか」と云う質問に対し、「もちろん誰だってなれると思います。でも、自分と同じぐらい努力するのは大変だとは思う」と語っていたことがあったが、ヒントはそこにあると考える。

努力とは一体なんなのか。がむしゃらに突っ走ることだけが努力ではないのだ。

この卒業コンサートに先立ち、国立競技場でのコンサートが荒天のために中止になったことがあった。大島優子は、その中止発表のあと、殆んど無防備のまま「自らの願い」としてファンの前に姿を現し、ハンドマイク片手に涙と笑いを盛って謝罪と次回の約束をした。それこそ、瞬時にPDCAサイクルを回転させた結果だ。

小生は、これを雑草魂だと述べ、「エンターテイナーはファンを大切にする。また、それを知るファンはそのエンターテイナーを大切にする。そして互いに成長していく。これこそ信頼感関係なのだ」と記載した。

http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11811917380.html

このフィードバックと、先に述べたPDCAサイクルが相乗すれば、ファンは確実についていく。

大島優子に於けるこの回転の早さは彼女の持つ天性なのかもしれないが、訓練によって培うことは可能だと思う。

さて、このあと、一体誰がそれに気付くか。

ダーウィンが本当に云ったかどうかはともかく、「生き残るのは強いものでもなく、賢いものでもなく、変化に対応できるものである」と云う様な言葉がある。著書、進化論のどこにもそういった文言がないそうなので、真偽の程は分からないが、進化に伴う淘汰を言い表すには適切な言葉であると思う。

先日、深夜番組「HKT48のおでかけ!」の中で、HKT48の劇場支配人でもある指原莉乃とフットボールアワーの後藤輝基が、AKBグループのファンニーズへの対応についてダーウィンの言葉を引用して語っていたので、ここにメモっておくと同時にこの言葉について記しておこう。

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」

この言葉、淘汰のすべてを説明することはできないだろう。強くもなく、或いは賢くもないが生き延びている種はたくさんある。また、どうみても環境の変化に対応しているとは思えないまま、今日まで形状を変えていない、いわゆる「生きている化石」も多く知られている。従ってその文言だけだと、大して特徴もないにも拘らず淘汰されていない種の存続を説明することは難しい。

小生は、そこにもう一つ大きな要素が働いていると考える。それは「数」だ。

例えば、鰯の様な魚が種として存続できている理由は、鰯の圧倒的な数量が奏功しているのではないか、と思うのだ。

鰯をエサとする、或る一頭の魚が一生の間に捕食する鰯の量よりも多く鰯が生まれていれば、鰯は種として存命可能なわけだ。たとえ弱くて賢くなくても、或いは環境に適応しなくても鰯は淘汰しない。

つまり、捕食被食の関係を解明する上では、強いとか賢いとかいった様な抽象的な形容詞で比較せず、物理的、或いは数学的に客観性を持つ物理現象といった自然法則で解析すべきなのだろう。方程式自体は複雑であったとしても、方程式が正しいとすれば、種の存続についても、それから逸脱することなく、事象は淡々と方程式通りに進んでいるのに過ぎない。

ところで、この辺りの関係、即ち捕食者と被食者との間には「捕食者の増加に伴って被食者が減少し、被食者の減少によって捕食者も減少する」という相関関係がある。この捕食者と被食者の増減関係をモデル化し、その増殖速度を表現すると非線形微分方程式となる。捕食者と被食者の量的な変異を縦軸を量、横軸を時間としてプロットしてみると、ある一定の位相差を伴った発振波形が描ける(ロトカ・ヴォルテラの方程式)。


ところがこれが人間社会となると話は全く異なってくる。即ち、物理量での比較ではなく、強いとか賢いと云った抽象的な形容詞で比較したほうが説明し易いし、更に「変化への対応能力」の様な適応性は大きな評価基準となる。

人間関係というサバイバルゲームでは感情が入るから物理的な方程式の通りとはならないが、少なくとも変化への対応は「生き残る為の手段」として必須と思うが、会社の場合はゼッタイだと思う。

変化への対応という掛け声のみで行動が伴わず、硬直している会社がなんと多いことか。

一方、アイドルも、話のネタにダーウィンまで持ち込むなんて、さぞかし大変なんだろうと思う。


AKB48の川栄李奈と入山杏奈が岩手で開催された握手会で、普通ではない暴漢に襲われて指の骨折と掻傷のみならず、頭に傷を負った。

被害者がAKB48と言うアイドルグループであるが為、軽んじて報道されるかと懸念したが、そうでもないのでホッとした。なぜならこの事件は無差別なテロ行為と断定できるからだ。

小生は握手会と言うイベントに参加したことはないのだが、そのイベント、知的な障害を持つ人も健常者も平等に楽しめると言う意味では大変貴重なイベントであるものの、各種学会の研究発表とは異なり、常軌を逸した(人道に反する)輩がそこにいても不思議ではない。

警備とは、その為の警備ではなかったか。

諸国の沿岸警備隊にしても我国の自衛隊にしても、万が一に備えて訓練し、日夜警備に従事しているのではないか?

かのAKB48の運営、そんな警備の必要性ぐらいは十分すぎるくらい理解しているはず。なのに手を抜いたのは、経費の問題というより馴れ合いによる怠慢に他ならないだろう。

警備とは「必要悪」だ。それぐらい誰でも理解している。しかし、絶対に必要な役割なのだ。

そこで手を抜くから、品質問題が発生するのだ。設計した通りに製造されないから問題が生じる。だから監査があり、軌道や姿勢の制御が必要なのだ。微妙な狂いは時が過ぎると、大きな狂いとなる。時間の流れもエントロピーも付可逆だ。取り返しのつかない事態を生じせしめる可能性があるのであれば、事前対処の欠如は怠慢といわれて仕方ないだろう。

とにかく警備は厳重にすべき。そのせいでイベントが長引いたとしても構わない。それで不平不満をいうならば、もう二度と来なければ良い。空港のセキュリティしかり。時間がかかっても、それによって乗客の安全が確保できるなら問題ないだろう(但し、特に海外に於ける係員の怠惰な態度を見ると、これでいいの?とは思うが)

その後、川栄李奈と入山杏奈は、無事に手術が終わって帰京したという。退院時、カメラに向かって、犯人に対する憎しみをよそに「皆様にご心配おかけし、申し訳ございません」と挨拶する健気な姿は、なんと日本人なことか。

無事であることが分かり、思わず涙が浮かんだ。親心なのか同情心なのか、分からない。

しかし、ともすれば命を落としたかもしれない境遇に合ったことを修羅場だというのは、あまりにも無知な発言だ。親であれば誰でも分かること。分からないのであれば、畜生以下だ。鋸を持って襲い掛かる姿を想像して見給え。

いずれ発生しても可笑しくはない事件だった。但し、その動機が、本当に殺してもいいくらい独占したいという願望からなのか、無差別テロなのかは分からない。しかし、いずれにせよ、許されることはない。

ところで、この事件がもたらす問題は、AKB48の経済牽引力の衰退だ。この事件に起因する日本経済へのネガティブインパクトが、さほど影響はないということを祈りたい。
ハトでも渡り鳥でもなんでもいいのだが、とにかく群れて、そして整然と飛んでいるのをよく見てみると、なんとも不思議な光景に気が付く。

鳥の群れにはリーダーとかセンターが不在なのだ。

写真は、今冬、ロシアから飛来してきたコハクチョウ群の一部の写真。


この鳥の様に、ある方向へ真っ直ぐ飛んでいる場合は、なんとなくセンターがいて何らかのフォーメーションが形成されている様に見えるのだが、ハトなどが群れて飛んでいる姿を見ると、何かがきっかけとなって群れ全体が突然向きを変え、直前までのセンターが瞬時にフォーメーションの後の一員となり、一方、それまで群れの後方にいた一羽が、今度は突然センターとなる。ボーリングでいえば、先頭が1本、2列目が2本、3列目が4本と並んでいるピンの塊が、その形を保ったまま、前後左右に動くといった動きに見える。

しかも驚くべきことに、全羽が全くぶつかることなく瞬時に移動している。誰かが号令をかけているとは思えないし、あの群れの行動については、長いこと小生的にはナゾの一つだったのだが、この集団について、実はかなり以前から研究が進んでいるということを遅ればせながら最近知った。それによると、彼等は「ある法則」に従って行動しているということらしい。

それは、

i)接近、ii)併走、iii)衝突回避と云うルール。


つまり、彼等はこのルールに従って飛んでいるだけということであって、決してリーダーによって統率された組織として行動しているということではなく、また、お互いにコミュニケーションを取り合っているということでもなく、要はお互いの意思の疎通を取らずに、ごく自然に組織を形成しているということらしい。

このルールを実際にコンピュータシミュレーションやロボットで試してみると、同様の行動を見せるという。言い換えれば、上記3つのルールを遵守する以外の知能は必要ないということなのだ(鳥には失礼な言い方だが)。早い話、組織行動する上では「各々の意思など必要ない」ということなのだ。これ、人間社会の仕組の中にも観察できそうだ。。。

さて、このルールで彼等はぶつかることなく群れて飛び続けることが出来るということはわかった。

しかし、ではなぜ突然翻ることがあるのか?

写真の様に、ある方向に向かって飛ぶ上では、上記3つのルールだけで群れをなして飛べるとしても、鳥達が見せる突然の方向変換は、一体なぜ起きるのか?この動きは何らかの形でモデリングできるのではないか、と思っていた矢先、日本未来館でこんな展示を見つけてしまった。


最近の研究では、これらの群れに於ける動力学を数学的に解析すると、群れを形成している各1羽同士がネットワーク接続されていて、他のすべての鳥たちと互いに影響しあっていることがわかったという。

基本的には、1羽が飛ぶ方向を変えると瞬時に他のすべての鳥達がそれに追随するという単純なルールで動いているが、その方向転換は、鳥の群れによっては数100mの大きさの群れもあるその末端まで、瞬時に伝わっているということなのだ。
この写真は今夜テレビで放映していたエチオピアの交差点の様子。ご覧の様に信号がない交差点だが、不思議にすべて上手く切り抜けている。。。これ、ムリムリ(^^)

https://www.youtube.com/watch?v=UEIn8GJIg0E

このパターンを記述した数式に最も近いものは、結晶の形成や雪崩の発生などを扱う「臨界」の研究分野に見られるらしい。臨界とは、系が転移を起こす瀬戸際にあり、転移がほぼ瞬時に起こり得る状態のこと。

ここで言えることは、この鳥の群れについては、生物学ではなく「臨界点と相転移」という物理学として捉えるとその動きを理解できるようになるという。つまり、数式で表すことができるということなのだ。即ち、個々の鳥はネットワーク接続されており、瞬時に方向を変えるということは液体が気体へと変化するような相転移として解析するとその動きが理解できるそうだ。

では、なぜその転移のトリガーはなんなのか。

恐らくミクロ的な風向きの違いとか、或いは調子を崩した鳥がチームから逸脱しかけたとか、そういう「事件」がトリガーとなって一羽が逸脱した場合に上記のルールに従って全体が動く。そういうことなのかもしれないが、この気紛れとも思える突然の方向転換の本当の理由が不明だ。なんで突然飛ぶ方向を変えたの?

こればかりは、その鳥に聞いてみないと分からないかも。
車載機器を家庭内でも使える様にするための電源アダプタ、拙宅ではこのアダプタを車載用として販売されている外気温度計の駆動用として使っている。温度計そのものはボタン電池駆動なのだが、有機ELのバックライトとして外部電源から電力を供給しているわけだ。

なので、このアダプタは毎晩働いているのだが、ある日突然死んでしまった。1000円にも満たない製品なので、買い替えは造作もないのだが、一応お別れの前に恒例のごとく分解してみた。

分解してみてびっくり!

まず、最初に驚いたのが、これ。さながら、電子部品がチーズフォンデュ。。。


この正体はなんと両面テープの接着剤だった。一体なぜケースの中に両面テープが入っているのか全く謎なのだが、それよりもとにかくこのテープの接着剤が溶けて、電解コンデンサや抵抗の上に伸し掛かり、チーズフォンデュを形成しているのだ。おそらく、このテープはアルミのシガーソケットと基板の間を絶縁するために挟んであるものだと想像するが、それにしてはお粗末すぎる。

更に驚くべきは、プリント基板の裏側のAC電源に直結する部分が写真の様に激しく劣化していた。フラックス洗浄欠落?これ、アブナイのでは??


PSEやJET認証のマークは付いているので安全性については定格として問題ないのだろうけれど、中身はヤバい。

100均で売られている製品の中には、AC100Vに直結する製品であっても空中配線されているステキな製品も色々あるのだが、このアダプタは1000円近くもするし、名の通ったメーカー製品でもあるので、両面テープ仕分けや基板洗浄不良はイタダケナイ。

今後、新規に製品を購入した場合には一度分解してみた方がいいのかも、とマジで思う事件でもあった。

今日、5月1日はコンピュータ言語として有名な「BASIC言語」の誕生日だそうだ。

このBASICでコンピュータ初体験した人も多くいると思うが、小生の場合は学生時代にFORTRANから入ったので、BASICについては後から必要に応じて習得した。必要に応じてというのは、当時小生が在籍していた会社が、TK-80というNEC製マイコンボードにBASICを載せたTK-80BSというドーターボードの開発を請け負っていたからだった。

このBASICというのは「Beginner's All-purpose Symbolic Instruction Code」の略で、つまり初心者向けの高級言語の低級版という言語。コンパイラではないからオブジェクトコードを生成するわけではなく、いわゆるインタープリタである。

それまでマイコンを使うと言う場合には機械語やアセンブリ言語でプログラムを作ることを余儀なくされていたので、このBASICが簡単に使えるということは画期的なことだった。実際、マイコンの入門機であったTK-80についても、機械語でのプログラム入力を余儀なくされていた上に、直接接続できる周辺装置は全くない状態だったから、TK-80を買ったはいいが、「その後どうすればいいの?」状態だったので、そこへのソリューション提供としては極めてタイムリーだったわけだ。因みにこのTK-80BSには、モノクロモニターや外部記憶用としてのカセットレコーダ用インターフェースが装備されていた。TK-80BSを開発した当時の仲間達、その後は全く音信不通状態なのだが、今も元気でいてくれればと思う。

さて、このBASIC、実は様々なネガティブ意見も多い言語でもある。

その意見の最右翼者は、オランダのダイクストラだったと聞く。このダイクストラは構造化プログラミングの提唱者として有名で、小生もその著書を読んだことがあったが、その本が下の写真。因みにこの本、絶版となって久しく、ヤフオクあたりで高値がついているらしい。。。モチロン売らないけど。

サイエンス社発行 ダイクストラ他著「構造化プログラミング」

この構造化プログラミングと言う手法、とにかくプログラムというのは、大枠を定めてからその大枠に内包される核の部分のコーディングを行うべきだと主張するものであった。段階的詳細化法というやつである。つまり、絵を描く時の様に、キャンバスに向かっていきなり端の方から書くのではなく、まずは対象物を大まかに描き、数々の段階を経て細部を描いていくというやり方が段階的詳細化だ。特に「巨大」なプログラムを作成する際にはなおさらその手法が必要であると説く。

これは正しいと思う。

ともすればBASICやFORTRAN言語は、JUMPやGO TOが入り乱れることを許す構造となっているが故、出来上がったプログラムとしては分かり難い構造となってしまうことが多い。いきおい、バグも出やすいし、修正するにしても構造の定義がはっきりしていないからデバッグ作業が難儀することは確かだ。まして他人の書いたプログラムコードの解析など、至難の業。だから、

そういう構造を許さないというのが構造化プログラミングの原点なのだ。

つまりBASICやFORTRANは人海戦術を許す言語と云えるかもしれない。しかしながら、そもそもプログラム全体の構造があやふやになりがちである上、例外処理O.K.の構造となっているから、パッチを当てるには便利ではあるもののパッチだらけの目も当てられないプログラムとなってしまう危険性は大きい。

言い換えれば、プログラムというプロジェクトの定義や構造が、後から幾らでも変更することが可能ということであり、見かけ上は柔軟性があるように見えるものの、メインテナンス性は甚だ低いものになりがちだ。あれこれ例外が発生し、そのつどパッチのようなサブルーチンへと、ドロナワ的に分岐させることが多く発生することになる。ただし、臭いものにフタをするようなものだから、指し当たってと言う意味での問題解決は早い。

一方、構造化プログラミングというのは、「プログラムを作成するに当たっては、まず机の上を片付けましょう」という提案でもある。その上できっちりと構造を定義していくプログラミング方法だから、プログラムコードが出来上がった暁には一発で通るということになる(現実はそうは行かないが)。

BASICが生まれて、今年、この5月1日でちょうど50年だそうだ。この50年間に、プログラムは子供でも出来るようになってきた。今後、更に「初心者がとっつきやすく、バグが出難く、メインテナンスし易い言語」が開発されていくのだろう。

確かに構造化プログラミング手法は堅実性が高いと思う。しかし、初心者にとっての壁が高い。

小生、近年はプログラミングとは疎遠なので最近の傾向は理解していないが、今でもこういう議論は続いていることと思う。

100均商品には、価格を抑えつつ性能を向上させるための驚く様なハイテク技術が駆使されているモノも数多く、これまでにそれらの幾つかを紹介してきたが、今回はいつもの様な電気モノではなく、その延長上にあるパソコンクロスと云う商品を紹介する。

ガラケーの時に比べ、スマホになるとディスプレイサイズが大きいためにパネルに付着した指紋とか汚れが目立つ。アタリマエのことなのだが、気にしだすとやたら「気になる」。

かつて、ある携帯電話メーカーの技術者と面談している時に「一般的に云って、日本人は他国民とは異なって相当に潔癖症だから、指紋がベタベタ付くスマホは流行らない」と豪語し、見事に世界から置いてきぼりを喰らったことは歴史が証明しているが、かといってやはり指紋や汚れは気持ちのいいものでないことは確かだ。

また、スマホに限らずタブレットPCもパネそのものに指でタッチするものだから指紋などが付着し、見る角度によっては指先から付着した油が災いし、ギラギラと視認性が悪くなることだってある。

これを防ぐために指紋が付き難いという保護シートもあるが、なんとなく曇りガラスっぽく見えて、小生は好きではない。やはり光沢の方がいい。となると光沢タイプの保護シートとなるわけだが、これは指紋との相性が悪く、ギラギラが避けられない。従って、指紋を払拭するには原始的であるが、結局紙か布で拭うしかないわけだ。

この手の紙や布の類は展示会等のノベルティで配布されているが、どれもまぁ、拭けるかな程度なので、これまではメガネ拭き様のクロスで拭っていたのだが、最近ようやくイイモノに出会った。

それは100均の「ザ・ぞうきん」と言うシリーズの「パソコンクロス」という雑巾である。

これがスグレモン。指紋や汚れが見事に取れるのだ。


写真はその外装。ご覧の様に、20cmx30cmのマイクロファイバー製の布が2枚入りとなっている。しかも再利用が可能で、汚れが酷くなったら洗って乾かせば何度でも使えるというもの。

つまり、薬品などを浸み込ませたものではなく、このマイクロファイバーに秘密があるというわけだ。

マイクロファイバー、小生はエレキ系のエンジニアだから詳しいことは判らないが、とにかく超極細繊維のことらしく、外装の裏に書かれている説明によると、

- 多角形の鋭いエッジが汚れをこすり落とす
- 立体構造だから、吸水力・給油力が抜群
- ミクロ繊維だから、落とした汚れを残さず繊維内に取り込む


とある。要は特殊繊維となっているので、薬品などを用いなくても汚れが取れるということなのだ。

なるほど。。

ということで、その構造を実体顕微鏡(モドキ)で写してみたのが以下の写真。確かに繊維が特殊な様に見える。


実際、この布を掌で滑らせてみると、他の布では感じられないザワザワとした「引っかかり感」が生じる。小生の手は、自慢じゃないが年の割りに相当綺麗な手で、いきおい、呑み屋のお姐さんたちからも良く褒められるのだが、それでも引っかかりが感じられるのだ。

そこで軽石を用いて掌を良くこすり、角質などを綺麗にそぎ落としてみたのだが、それでも引っかかりが生じる。つまり、このマイクロファイバーは掌にある指紋やシワに反応している様なのだ。

これはすごい性能だと思う。


これ、ハンカチぐらいの大きさがあるので外出先などでスマホやタブレットを拭くのに使うのはちょっと大げさだから、家に置いておき、出がけに拭くといった使い方が妥当な気がするが、いずれにせよ秀逸な商品だ。

こういう商品は100円以上でも売れると思うが、100円で入手できることは有難い。

手頃な価格で高品質を技術で実現させるという「100均魂」がここでも活かされている。

自然の現象を数式化する際に良く使われるものとして対数がある。

対数というと「あぁ、そんなの高校の数学でやらされた記憶がある」という人は多いだろう。しかし実際に何に使うのか、どうやって使うのか、それを使うとどんなイイコトがあるのか、理解していない人が圧倒的に多いと思う。

参考書などをみると、音や明るさなどの物理的な現象を人間の感覚として捉えると対数になっているとか、ワケのわからないことが書いてあるから余計にややこしくなる。

しかし身近なところで言うと、

ギターのフレットも、実は対数目盛りとなっている。

実際、高校の数学授業でも対数といえば対数計算する方法しか教えないから、ややこしいというのを通り越して面白くも何となく感じるのは、ごくアタリマエのことだ。

しかし実を言うと、自然現象的なものとは、押しなべて時間と事象はリニアではなく、例えば時間の経過よりも動きの方が早いとか、時間の経過に比べると結構ダルい動きだといったような事象の方が圧倒的に多いので、そういう現象を目視的に表すには指数関数グラフや対数グラフで表すと現象を理解しやすくなるのだ。

対数で表示するということは、大きな数を圧縮して表示すること。

時間経過に伴って累積するスカラー量があったとし、それが次第に頭打ちとなる傾向が見られる場合、それをサンプリングすれば対数で数式表示できることになる。

以下のグラフの曲線は異なって見えるけど、横軸の値が異なるからそう見えるだけで実は同じ。

    

人類の進化や文化をグラフに表す場合など、横軸を時間軸として対数グラフにして表した方がよっぽど気が利いていると思う。

具体的に云うと、例えば1、5、10といった数字と10,000、100,000という数字を同じ横軸に表示する場合、通常のマス目の方眼グラフで表示しようとすると、とんでもなく長い横軸が必要となる。

そこで、横軸のマス目を1、10、100,1,000、10,000、100,000と区切ったグラフを用いれば、短い横軸で表示が可能となるのだ。

この場合、通常のマス目型の方眼グラフであれば、10,000近辺の数字についても、例えば10,001とか10,002とかの数字を正確に表示することができるのだが、対数グラフだとその辺りはかなりラフになる。

ただし、これらの大きな数字近傍の1とか2とかの違いは全体から見れば微々たるものなので、無視することができると考えればよいのだ。つまり、「1」という違いは1~10の間では大きな違いとなるが、10,000~100,000の間では小さな違いと考えるやりかたが対数表示なわけだ。

この考え方、数学的にいうと上述の様なことになるのだが、こういう考え方に慣れると、自然現象はもとより社会現象の様な時間経過に伴った変化を巨視的に見るという能力に役立つ。

学校でも、そういう考え方で見る力を育てたらよいと思うのだが。