以下、ネタバレも含むが、そもそもDocumentaryだからストーリなどあってないようなものだし、AKB48のファンであれば節目のイベントや事件については十分知っているはずなので、ネタバレかどうかなんかあまり気にせずに書き記す。
毎年封切されるこの映画が、ある意味、小生的には年末の晦日に見る「今年の年間ニュース」であり、いきおい、映画を見終わった後から新年が始まる様な気がしている。少なくともこのシリーズが始まってからは、そう感じる。
・ The time has come
今回の副題は、「The time has come」。これを「時は来た」と訳すことも多いが、厳密に言うと、もっと具体的な意味合いを持つ。日本語には「The」に相当する定冠詞がないためにニュアンスを掴み難いのだが、この副題に於ける「The」は、その次に続くTimeに対して示唆的な具体性を持たせている。
古いジャズの名曲に{The man I love」という曲があるが、これを訳すと、「私が愛する男」ではなく、「私が愛する、その人」ということになる。
すなわち、時は来たというより、「その時は来た」、あるいは「今が潮時」といった意味が正しいのだ。これは、映画の中に出てくる大島優子卒業発表のさなかに行われたインタビューの中で、高橋みなみがつぶやいた「何かが終わったなぁ」という言葉につながっている。
この、高橋みなみの感覚は正しいと思う。長いこと続いた「前田期」が終わり、堰を切った様に相次いでベテラン達が次々と卒業し、今回のDocumentの最大イベントである大島優子の卒業へと展開する。まさに「The time has come」だ。
・ 何に泣いているのか、わからなくなった
3月30日、国立競技場で開催予定だった大島優子の卒業コンサートは、荒天が災いし当日になって中止という前代未聞の多難な結末となった。小生も参戦予定だったのだが、千駄ヶ谷の駅に着いて初めてそのことを知った。それはとても残念なことだった。
しかし、その直後に大島優子が行った驚くべきサプライズは、今思い出してもまさに感動もので、本編には、中止決定前後からサプライズ出現に至るまでの葛藤や苦悩から、そのサプライズに至るまでのプロセスが余すことなく描かれている。
このサプライズについては以下に記した。
「AKB48、大島優子の卒業コンサートに参戦して思ったこと」
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11876674573.html
その卒業コンサートの中止は、誰のせいでもなかった。故に、握り締めた拳を振り上げることはできない。そこで湧き上がった腰が砕けるほどの挫折感は、映画の中で大島優子がつぶやいていた「自分が何に泣いているのかわからない」という言葉に表されていよう。
だが、その悔しさや無念さを、次なる挑戦へと昇華させる大島優子の精神力はまさしく「雑草力」であり、他の誰にも真似することはできないものなのだ。
ちなみに小生、その後、味の素スタジアムで催された国立競技場のリベンジともいうべき大島優子卒業コンサートに参戦し、大島優子のみならず、メンバー、さらにそれを取り巻くファン層のすさまじいポテンシャルエネルギーは肌で感じてきているので、映画制作に当たり、「今回の映画は大島優子の卒業を機軸として制作する」という判断は正しいと考える。
・ 世代交代劇
以前にも書いた様に、世代交代とは「させるものではなく、していくもの」、つまり現象だ。消費者が次世代に対して魅力を感じれば、自ずから世代は交代する。しかし、そこに恣意的なものがあると、ファンはそれを的確に見抜き、しかるべき判断を下す。
「次世代の育成こそ最優先のテーマであるべき」
http://ameblo.jp/millimeter-wave/entry-11271556782.html
従って、世代を交代させるには、次世代に対して「ファンを惹きつけるための要素」を育ませる必要があるわけだ。その土壌を具体的に提供したのが経営側の戦略であり、後輩たちに対して具体的にそれを実践させたのが大島優子の戦術でもあった。
運営が環境を提供し、先輩が芽を育てる。人は「育てられた」という意識があれば、人を育てる素養も育つ。大島優子の成長は、その典型的なサンプルである。
・ Documentaryの展開
本編は大島優子を機軸として描写されている。確かに、昨年から今年までのAKB48が提供してきたエンターテイメントの総集編として大島優子の卒業をテーマとするということは納得のいく展開だと思う。
結果的に、「今後もAKB4は安泰な道を歩めそうだ」という総選挙の結果を見届けて、その翌日に卒業していくという全く理想的なストーリが現実に起きたわけだから、ドキュメンタリー制作側としては願ってもない展開だったことだろう。
筋書きのないドラマは、昨年の一位を取った指原莉乃による「AKBは絶対壊さない」という発言から、今年悲願の一位を取った渡辺麻友による「AKBは自分が守る」という発言へと発展的に展開された。また、二位へと転落した指原莉乃は「悔しいけれど、一位となる人(渡辺麻友)を支えていく」と断言した。さすがは指原莉乃、利口な子だと思う。
大島優子がこれらの発言をしっかりと見極めた上で、時系列的に何の無理もなく卒業していったというのは、まさにファンをして「大島優子は何かを持っている」といわせしめるに余りある。運が良いと人は云うが、運とは、良いと思う人のところに寄り添うのだろう。
思い起こせば、かつて大島優子が2位に転落した総選挙発表直後、前田敦子に首位を奪われても気丈に振舞った大島優子だったが、Documentary of AKB48の中で描かれていたシーン、すなわち大島優子が楽屋に戻ったとき、人目をはばかることなく篠田麻里子にしがみついて悔し泣きで嗚咽していた場面は多くの視聴者の涙を誘ったと思うが、その時の気持ちは痛いほど分かった。
「やはりそうだよな」。
気丈な子ほど、崩れるときはハンパなく崩れるのだ。その姿は、上に述べた「国立劇場コンサート中止の決定」の知らせを受けたときの大島優子の姿が重なって見える。
そのギャップ、すなわち気丈さと脆弱さこそが、実はその人の人間性なのであり、その人間性こそが、ファンはもとより総選挙で武藤十夢が名指しで大島優子に礼を言った例を見る様に、彼女が多くのメンバーから慕わている主なる要因なのだろう。
ところで、「今後の見通しを見極めて、次に託す」という展開。これって、かの「マジすか学園」のストーリ展開の様に思ったのは小生だけではないと思う。
・ スルーさせた、暗黒な過去
本編を見て気付いたことは、AKB48の「暗黒」には焦点を合わせていなかったということだ。
暗黒な部分といえば、やはり何といっても恋愛禁止条例なる暗黙なコンプライアンスに違反したことによる解雇や、選抜総選挙で予想外の凋落を見て落胆する姿などがその代表だろう。昨年度は実際にコンプライアンス違反が多かったのも事実であるが、今年度もそうした事件がなかったわけではない。
しかし、今回恋愛禁止条例についてフォーカスしなかったことは、それらのドキュメントをネガティブファクターとして回避したために、映画として後味の悪い部分がなくなったという意味で高く評価したい。
また、以前の映画で描画されていた総選挙シーンで、上位間違いなしという下馬評の子が結果的には圏外だったという「公開処刑」にあって、ひたすら泣き崩れるしかなかったという哀れなシーンなど、見ていてちっとも愉快ではなかった故、本編でそういうシーンがなかったことも特筆すべきと思う。
・ 組閣
組閣はすでにAKBの恒例行事となった。
今回もそこに産まれる悲喜交々が様々な角度から描写されている。中には悲劇的決別もあるにはあるが、小生はこの組閣については、AKB48がビジネスである以上、肯定的だ。
組織は、ある目的を達成するためにクリエートされる。
このプロジェクトオリエンテッドな考えを、ビジネスライクに理解していないと見誤る。社会でも組織変更はごく当たり前に行われる。少女たちにとっては残酷に感じても仕方はないのだが、競合がひしめく中で存命を図るためには、むしろ積極的に展開すべきことなのだ。
メンバーたちも、運営側の戦略をできるだけ早く感じ取れるようになればよいと思う。もともとそういうイベントがあることを知っていてオーディションを受けて合格し、その後どんどん台頭してきたわけだから、どのメンバーも根性は人一倍あるはずだと思う。
ところで、こうやって映画を見ていると思うのだが、「みんなで育て、見守りたい」というファンの心理は、日本人の持つ農耕民族的な心に端を発しているのかもしれない。