小生が一般人と比較して著しく欠けている感覚のひとつは、何を見てもキモいと思わないこと。
自慢じゃないが、毛虫、芋虫、ゴキブリ、蜘蛛、蛇、等々の生物はもとより、ウンコだってキモいと思ったことはない。そういうものは遠くから見ことすら御免だという人も多くいる様だが、小生はその感覚に乏しい。とはいえ、それが欠点だとは特に思ってはいないのだが、
「興味を持つ観点」が他の人とは異なるかも、と感じることは、たまにある。
「そういえば」と云うことが、先日あった。
東京を流れる幾つかの川のひとつである神田川から水道橋付近で分水する日本橋川の流路や河口が見たくなり、日本橋を通って河口である隅田川まで散歩したのだが、隅田川の永代橋を渡って反対側から日本橋川の河口を見ていたときに、
ふと目元に猫の水死体がゆっくりと流れ来ているのに気付いた。
遠くから見えたときは膨らんだ白いビニール袋かと思ったのだが、その物体が近づいてくるにつれ、どうやらそれは動物の溺死らしいということがわかった。隅田川も永代橋付近になると、流れは緩やかになる。その物体が堤防の真下まで流れ着くと、それは四肢をだらりと下げて上向けになって漂う猫の死体だったのだ。白い毛に包まれた腹はぷっくりと膨らんでいたので、恐らく死後数日ぐらいが経ち、腸内細菌によって生成されたアンモニアなどの腐敗ガスが充満しているのだろう。首はまだ付いていたから、それ以上の日数は経ていないのかもしれない。上向きになっているのは、背骨などのカルシウムが重力方向を向くことと、体内ガスが腹側に溜まるので自然にそうなるということだろう。結果、四肢はだらりと下に下がり、まるでへべれけに呑んだメタボオヤジが駅のベンチで寝てる姿の様だった。
猫の死体については、車に引かれた轢死体を地方の道路などでたまに見かけることがあるが、水死体は初めて見た。恐らく川に落ちてそのまま溺死したのだろう。そういえば隅田川の堤防は護岸工事によって切り立っており、猫レベルだと一度落ちたら這い上がるのは困難かもしれないし、もし這い上がったとしても、そのまま堤防の上まで上がるには垂直に近い壁を登る必要があり、力尽きて餓死したという可能性もある。正直、不憫だ。
いずれにせよ、猫の水死体というのは今後も恐らく見る機会はないだろう。
かつて、目黒川に首の無い犬と思しき死体が流れているのを見たことがあった。「なるほど」と思った。首から上は重いので、腐敗が進むと首が取れる。だから首が無いのだ、と考えた。
その猫の死体が小生の目元まで流れ着いて離れて行くのを見送りながら、「これが堤防の上からではなく、岸に近いところだったらもっと近くでじっくり観察できるのだが」などと考えていたのだが、ふと、そういうものに対して興味を持つのは、ひょっとすると変に思われるかもしれないと思った。もちろん科学的に興味があるからなのだが、他人から見れば猟奇的な趣味と思われてしまう可能性がある。
世の中には様々な学問があり、比較解剖学などと類似した「遺体科学」という分野がある。動物の死体を解剖しまくって科学的な謎を解き明かすという学問だが、彼等も恐らくキモいという感覚は皆無に近いだろう。研究内容を一般人に説明する時には、ずいぶん苦労しているのではないかと想像できる。
かつて、法医昆虫学を専攻する女性が動物の死体について、腐乱していくに従い、どのような虫が群がってくるか、或いは育つかをくまなくチェックし、虫を調べることによって死後経過時間や死因を特定する研究をしているという話を聞いた。彼女など、周りの人からは相当に変態扱いを受けただろうと思う。
「科学する」ということを理解してもらうのは、意外と大変なことなのかもしれない。
そういえば、水死体に気付く直前に撮った写真にはその姿が僅かに写ってはいるものの、今も悔やんでいるのは正面からの写真を撮らなかったことだ。もう二度と見ることは無いかもしれないし、将来何かの役に立つ写真が取れたかもしれないと思うと酷く残念でもある。
合掌。
