藍染川の第三回目として、小生としては今回の旅に於ける探求の本命だった藍染川排水路について述べる。
■ 藍染川排水路
藍染川は地域によって名称が異なるが、すべての名称を列記すると、谷戸川・境川・谷田川・蜆川・蛍川・藍染川がこの川の名称だ。
川の名称が幾度も変わるということは、それだけ地元に密着していたと言うことだろう。元々藍染川は、荒川区を通るところはごく一部で、大半は北区・文京区・台東区であった。実際、今では消えているが藍染町という地名が台東区にあった。ところが荒川区には、今でも藍染通りはもとより藍染公園という公共の建造物がある様に、
荒川区に於いて藍染という名称は、公共物として今でも現役なのだ。
それは藍染本流よりも後述する藍染排水路の方が、実は重要な役割を果たしていたからだと推測できる。実際、藍染川として現在でも現役として活かされている川は台東区や文京区を流れて不忍池につながる本流ではなく、排水路として荒川区を流れる藍染川であって、つまり荒川区としては、藍染川は荒川区の川だという主張が感じられる。
藍染川排水路は旧初音四丁目(現在の道灌山下付近)から分岐して隅田川へと注ぐ排水路として建設された。即ち、現在の西日暮里駅近くの地下を通るトンネルの建設である。
ここで、上野台地を持つ武蔵野台地について触れておく。
関東付近の地形は標高が高く、古い岩石からなる山地が一番外側にあり(関東山地、秩父多摩)、その内側により新しい岩石からなる丘陵が位置する。さらにその内側は凝結していない堆積物からなり、かつ、ほぼ平坦な地形からなる台地が分布し、さらに台地を刻んで低地(関東平野)が形成されていると言う特徴がある。
関東平野全体をみると大きく云って台地と平地からなる。この低地のうち東京都東部から千葉県西部に広がる低地を東京低地、その北方に続き埼玉県東部に広がる低地を中川低地、中川低地から利根川沿いに延びる低地を妻沼低地、東京低地から北西に荒川沿いに延びる低地を荒川低地と呼ぶ。台地はこれらの低地に刻み込まれて幾つかに分かれて分布する。そのうち、東京の山の手台地から北西に広がる台地は、「武蔵野台地」と古くから呼ばれてきた。
荒川区の殆どの地域は東京低地内の三角州地帯にある。この辺りは奥東京湾(前述。縄文時代の有楽町海進のころ)が陸化されて出来たところであり、標高はほぼ3m以下である。この中で比較的高いのは台地に接する西日暮里二丁目、五丁目、および台東区根岸から北東に延びる微高地沿いの地域で、4mを超えるところもある。これらは、後期有楽町海進の時代に台地の縁を侵食して生産された砂が堆積した砂州と見られる。この微高地の北西に位置する東日暮里は、かつて池も存在していたようだが、これらは入江の陸化が遅れて湿地として存在していた名残と考えられる。
台地としては西日暮里西部が台地上にある。これはもちろん武蔵野台地の一部で、標高は20m前後である。武蔵野台地の中では標高が低く、新しい台地として分類されて本郷台地とよばれることもあるが、武蔵野台地の東半を占める山手台地の一部であり、上野公園から飛鳥山に連なる台地の一部をなし、台地の北部は北区、南西部の大部分は台東区、北西の一部は文京区に接している。
藍染川排水路は、大正2年に当時の東京市が豪雨等による氾濫や溢水の困惑を救う下水設定事業として建設されたものだ。
即ち、谷田川は川幅が流量に比べて狭いために氾濫が多く発生し、拡幅や神田川への管渠築造では工費が莫大なものになるということから初音四丁目に分水装置を設けて、そこから隅田川へ排水するという排水路設定工事に基づくものである。
この計画は分水地点から現在の西日暮里駅付近までをトンネルとし、そこから先を開渠とするというものであった。当時この付近は田んぼであったために放水路を作るということは比較的容易だったようだ。またトンネルにする理由は、飛鳥山から上野方面に延びる上野台地を越える必要があったからだと考えられる。工事は大正4年から3年後の大正7年に完成した。
この排水路が開渠として存在していたことは大正14年の地図で確認できる様に、開成中学校脇から山手線の下を通り、北東に伸びる川が記載されている。
この地にトンネルとして藍染排水路が建設された理由は、下の図にある様に、上野台地のうちこの近辺の台地幅が狭いことによる。
写真は道灌山通りにある切通だが、この辺りでの上野台地(この付近は諏訪台地とも言われている)の幅は、僅か数10mである。山を潜らせる工事としては、台地の幅が狭いほど良い。この藍染川排水路は、現在の西日暮里駅を越えた辺りから先は開渠であった。
暗渠化についてであるが、太平洋戦争終盤の昭和20年に起きた東京空襲でも下水道の被害はさほど大きなものではなかったことに対してその後の自然災害、即ち台風などによる被害は極めて深刻な事態をもたらし、因みに昭和24年の夏に襲ったキティ台風では都内の約5分の1が水浸しになると言う被害が生じた。これらのことから当地での水害対策が強化され、尾久幹線系統の町田ポンプ場等と共に藍染排水路も強化されたのであるが、この排水路は殆ど下水化している上、開渠であったために衛生上や交通、防災等に対して大きな障害となっていた。昭和7-8年ごろまでには新三河島駅前の上流部分が暗渠となったが、その工事は博善社前の下流を暗渠化した頃に勃発した支那事変によって工事が中断され、最終的な完成は昭和31年になってからであった。つまり、大正7年の排水路完成から実に40年以上経てから暗渠化したということになる。
この藍染川排水路は、実は現在の藍染川の本流となっているようだ。
実際、三河島下水処理場内に昭和39年4月に創設された藍染ポンプ場にて下水処理がされているが、同処理場に於ける下水幹線としては最大のものとなっている。これに対し、本流の藍染川の方は、下流である不忍池近辺に下水処理設備がないことなどを鑑みると、不忍池に注ぐのではなく下水管的な存在となってしまっていることが考えられる。
尚、この三河島下水処理場は、大正11年3月に竣工した処理場で、台東区荒川区の全部、文京区、豊島区の大部分、更に千代田区、新宿区、北区の一部から排出される汚水を、微生物を用いて汚物を沈殿させて上澄みを塩素殺菌するという化学処理を行った後で隅田川へ放流するという処理場である。汚泥は砂町水処理センターにて処理されている。また、藍染ポンプ場では、荒川区の一部の汚水や雨水、北区、文京区、豊島区および台東区の一部の汚水や雨水、また南千住や湯島ポンプ場から送られてくる汚水を吸揚し、雨水は隅田川へ放流し、汚水を三河島処理場に送っている。
写真は、三河島下水処理場で処理を行った後に隅田川に注ぐ、藍染川の最終地点である。左は京成電鉄千住大橋鉄橋から見た水門、右の写真は暗渠の道路上から見た水門だ。これがかつて「大ドブ」と呼ばれていた藍染排水路の最終到達地である。本稿は、この確認の派生として書かれたものだ。
こうして、幼い頃の記憶を辿るだけという脳内旅行とせずに、現在の状態も実際に確かめるという旅は、一応無事に終わった。今後、この藍染川が後世に対してどのように伝えられていくのかは分からないが、本稿がなんらかの役に立てば幸いだ。
写真は東京都下水道局 2013年下水道カレンダーにあった藍染排水路の写真だそうだ。ずいぶん立派に作られている。機会があれば、ぜひ一度見てみたいものだと思う。
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