前の前のアーティクル「数学の概念の外部注入」で,角度の概念は中国や日本にはなかった,という記述に対する疑問のコメントが,おおくぼさんから付されました。
江戸時代の日本には「角度」の概念はなかったこと,角度の代わりに,建築や測量では勾配(今のタンジェントにあたります),舟の航行で使われた磁石では方位(十二支で示された),扇形の面積を求める和算の問題では弧長などが使われたこと,ただし,星の位置を求めていた幕府の天文方や,江戸時代後半に日本全国の測量事業に携わった伊能忠敬などは,角度を使い始めていたことは,『和算で数に強くなる!』で記しました。
日本がこのような事情だったのですから,日本が倣った中国も似たようなものだったと思っていたのですが,中国については,やや研究が不足していました。
それで,おおくぼさんが指摘されたインド人天文学者・瞿曇悉達の唐代の中国への貢献を再確認しました。(再確認というのは,瞿曇悉達が献上した「九執歴経」については,ゼロの表記法の歴史に関して前掲書で触れていたからです。)
「九執歴経」は,「開元占経」120巻の一部ですが,銭宝琮『中国数学史』(1990年)には,こうあります。
「インドの天文学者は古代ギリシア人の弧度の量りかたをうけつぎ,円周を360度,1度を60分に分けた。だが,中国天文方の専門家は太陽の視運動がほぼ365(と)1/4日(引用者注:原文は(と)の表記はなく,分数の斜め線は横線)で大地を一周することにもとづいて,一日に太陽が動く平均の弧長を一度,さらに周天を365(と)1/4度(同前)としており,それゆえ《開元占経》が紹介する弧度の単位にたいしても,中国の天文学者は少しも重視していない。」(123頁)
中国の天文学での「度」の意味と使用法については,さらに研究する必要はありますが,とりあえず次のことは言えそうです。
中国の古来の天文学の「度」という単位は,私たちがいま知っている,半直線の回転の大きさを表わす「角度」ではなく,周天(円周)を365(と)1/4に分割した1つ分を表わすものだった。
『和算で数に強くなる!』で,明治になってから,藤沢利喜太郎が,角度について,次のように述べていることを紹介しました。
「角度に就きては、多くの算術書中には、隋分不都合なることを掲げたるものあり、例へば
角度とは壹圓周を三百六十分したる其の壹つを壹度としたるものを云ふと
云ふ様なることを載せたるものあり、角は弧と異なり、此の定義の不都合なること多言を要さざるべし」(『算術条目及教授法』1895年)
明治時代になって西洋から角度の概念が入ってきても,日本や中国の暦法・天文で使われていた「度」の概念で「角度」を解説する書が多かったということでしょう。藤沢は,日本や中国の暦法・天文で使われていた「度」=弧は,角度とは異なる,と言っているのでしょう。
すると,『和算で数に強くなる!』で,幕府の天文方は,「角度」を使い始めていた,という記述は訂正の必要がありそうです。
周天を365(と)1/4に分割したものと,半直線を一周させた回転角の大きさ360度は,似て非なるものなのでしょう。
十二支の方位を1200に細分した磁石を,『和算で数に強くなる!』(33頁)で紹介しましたが,1200本の線は,一番から千二百番と名前が付されています。0番が無く,一番と千二百番が同じ線になるので,線の本数は1199本ということになり,江戸時代のゼロの概念の未成熟の例として挙げたのですが,この磁石は,「角度」の概念の未成熟を表わしている例としても使えることに今回気がつきました。
一から千二百までの数値は,基数ではなく,「番」が付く序数です。つまり,数値は「角度」の大きさを表わしているのではなく,円周上の位置の順序を表わしています。(円周上の位置が方位方角を表わすわけです。)
江戸時代には,いまでいう六角形を六角,八角形を八角という言い方はありましたから,角という概念はあったわけですが,角の大きさを角度として表わすことは知らなかった。だから,三角形の内角の和が一定であることは知らなかった。中国の数学書では未調査ですが,おそらく中国でも知らなかったでしょう。角度という概念が,中国でも日本でもなかったのだから。
中国や日本の天文学で空の星の位置を記すために使われた「度」は,「角度」とは違うようです。(研究の余地は大いにありますが。)